湯浅学さんの連載「大音海の岸辺」第22回の後編は引き続き90年代初期のヒップホップに関する原稿2本、1990年前後に起こったニュー・スクール・ムーブメントの先を占った原稿「ニュー・スクール以後のラップの動向」と中国のラップ・グループ"某某人”のアルバム『中国ラップ』のレビューを再録します。そして、この秋は久しぶりにヒップホップばかり聴いているという湯浅さんが新たに書き下ろした解説も。

パブリック・エナミー『パブリック・エナミーII(It Takes a Nation of Millions to Hold Us Back)』



文=湯浅学


ニュー・スクール以後のラップの動向
人間のいい加減な歌心と機械力の応酬がひとつの壁を打破する



気になる視線の弱体化

 サメのように、休みなくずっと前に進みつづけていないと死んでしまう。ヒップホップとは、そういうものだと思われているかのようだ。
 その点では、ジャズもロックもパンクも、日本の歌謡曲だって、ある時期にはみんな同じように認知されていたわけではある。既存の価値観を刺激し変容させる力を持ったものは、みんなそういった宿命を背負わされるものだ。常に新鮮でいることを義務付けられるのは、いたしかたないことなのであろう。
 ラップの場合、未だに「10年後にはなくなってるんじゃないですか」という人々がいるのは、むしろ、現在もなお既存の価値観の何がしかを刺激していることの表れだと俺は思う。「10年後にはなくなっているだろう」というセリフ、確かに10年前にもよく聞いたもんだ。なくなってほしい、と思う人々が(数の増減はあるにしても)いるということ、その存在を忌々しく思う人々がいるということは、その音楽の持つエネルギーのひとつのバロメーターだ。ましてや価値観や意識の変革をメッセージとして伝えている表現物としては、誰かを疎ましく思わせなくなったら終わりってことではないか。

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