今週の映画川は荻野洋一さんが、来年1月公開のハンガリー映画『サウルの息子』(ネメシュ・ラースロー監督)について書いてくれました。今年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞したこの作品は、第二次世界大戦末期の強制収容所を舞台に、同胞の死体処理に従事する主人公のユダヤ人男性・サウルが何を見て、どのような行動をとったのかを映し出します。かつて同じく収容所を描いた『ゼロ地帯』(ジッロ・ポンテコルヴォ監督)で用いられた手法を糾弾したジャック・リヴェットや、そのリヴェットの文章を映画批評家としての信条としたセルジュ・ダネーの言説に、本作はどのように呼応しているのでしょうか。



収容所を動き回るカメラは「『カポ』のトラヴェリング」か?


文=荻野洋一


 タル・ベーラの助監督をつとめたハンガリーの新人監督ネメシュ・ラースローが完成させた長編デビュー作『サウルの息子』が、アウシュヴィッツの隣村にある第2収容所、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所を大胆にあつかって、ヨーロッパの映画界に大きな衝撃を与えているところである。収容所の内実を、そしてガス室での殺戮をこれほど赤裸々に写した作品は、今日までなかっただろう。そしてその理由は、ユダヤ虐殺の内実を描きたくなかったためではなく、その逆で、生半可な描写を許さなかったためである。記念碑的大作『ショア』(1985)の映画作家クロード・ランズマンが示した「表象の不可能性」という考え方は、深く長く映画界の倫理観を律してきた。ランズマンがスピルバーグの『シンドラーのリスト』を厳しく否定したとき、その「表象の不可能性」は侵犯せざるべき戒律と化したのである。
 しかしネメシュは、みずからが敬愛するランズマンのテーゼに真正面から挑戦することになる。ところで彼の名を縮めて姓だけで呼ぶ場合、「ネメシュ」と呼ぶべきである。ハンガリー人の人名はヨーロッパで一般的な「名‐姓」の語順ではなく、われわれ東アジアと同じく「姓‐名」の語順で書かれるためである。もし彼について「ラースローの作品は…」と書いた場合、フィリップ・ガレルについて「ガレルの作品は」と言わずに「フィリップの作品は」とまるで友人について書いてしまうのと同じになってしまうのである。

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