小説家・桜井鈴茂さんの連載エッセイ「サバーバン・ブルーズを蹴散らしながら」第3回。昨年末におおくりした第2回では桜井さん行きつけのベーカリー・カフェが舞台となっていましたが、年が明けた今回はそのベーカリー・カフェのトイレから始まります。週に一度遭遇する老紳士がかけている電話や、その老紳士の声の闖入を防ぐためイヤフォンで聴く音楽のことなど――



文・写真=桜井鈴茂


 迎春。
 年明け早々恐縮だがトイレの中にいる。家のではない。家のはこんなに明るくない。こんなに広くもない。壁の一面がほぼ鏡で埋め尽くされていて顔を横に向けると自分と目が合うなんてこともない。さあ、どこのトイレか当ててみろ。……ちゃりん。ちゃりん……ってヘンか。まあとにかく、当たり。きみは毎回読んでくれているんだね? お金も払ってる? ありがとう。募金みたいなもの? けっこうけっこう。きみみたいな人がこの世を住み良くするんだ。きっと。おそらく。

 そう、ベーカリー・カフェのトイレの中にいる。もっともこの間とは別の日だが。今朝はイヤフォンをしたままだ。つまり、シャッフルでかかるお気に入りの音楽を聴きながら用を足している。正確に言うと、用は済んでいる。緑色のジャージは着ていない。なぜって洗濯中だから。今朝は墨色のジーンズに鼠色のパーカー。ジーンズの下には灰色のタイツ。年々、寒さが苦手になっている。ちなみに、暑さも苦手になっている。ヤワになったということか。カフェに来るのは10日ぶりくらいだ。カゼをひいたり、二日酔いだったり、他にもなんだかんだで、足が遠のいていた。彼女から「お久しぶりね」の一言はない。というか、そもそも今朝は彼女の姿が見当たらない。休みなんだろう、シフト上の。いや、病欠とかかな? 身内に不幸でもあったのかな? つーか、なぜおれは彼女のことをこうも気にかけるのか? 惚れているのか? いや、それはないだろう。だって、軽くひとまわりは年上だ。おれは19歳の男子じゃない。19歳の男子が32歳とかの大人の女性に恋をするのはよくわかる。そこまで離れてはいなかったが、そのくらいの年齢の時はおれも年上の女性に恋をしていた。しかしおれはもうばりばりの中年だ。ひとまわり上はほとんど初老だ。……初老だっていいじゃないかって? うん、まあ、そうだな、そうかもしれない。じっさい、先日、初老の女性に心が動く瞬間が――。

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