今週の映画川は荻野洋一さんが、現在公開中の『シェル・コレクター』(坪田義史監督)について書いてくれました。アンソニー・ドーアの短編小説を『美代子阿佐ヶ谷気分』の坪田監督が映画化した本作が、荻野さんが「パンの映画」と名づけたロハス的映画からどのように逸脱していくのか、そして、文章題で示されるように大島渚が健在ならこの映画に嫉妬しただろうと思われる理由とは――


© 2016 Shell Collector LLC(USA)、『シェル・コレクター』製作委員会



大島渚が健在なら、この映画に嫉妬しただろう


文=荻野洋一


 筆者が独自に名づけた、比較的新しい映画ジャンルがある。「パンの映画」というジャンルである。「パンの映画」は世界中に分布しているが、とくに昨今、『阿弥陀堂だより』(2002)あたりをきっかけに、そして『しあわせのパン』(2011)を決定打として、日本映画界において一大ジャンルにのし上がった感がある。都会で絶望した人間が田舎で再生する内容だったり、無農薬野菜の栽培に熱中したり、人里離れた岬の先端で喫茶店を営んだりと、設定こそいろいろなバリエーションを持つが、その思考方向はどれも非常に似かよっている。冷たい物質文明、科学文明、都会生活の否定。そしてロハス的な生活、素朴な人間関係、ムラ的社会への讃美である。
 こうしたロハス的映画への一定の需要のありようを、筆者は、今日のOLや主婦層などが非常にパンを有り難がる傾向、パンによる食習慣の浄化傾向になぞらえ、「パンの映画」と名づけてみたのである。むろん、ここで私はオフィス街の昼食時にこぞってパンを求める女性たちの食習慣を批判したいわけではない。単にたとえ話として引き合いに出したまでである。
 『おくりびと』(2008)が、政治的駆け引きの結果とはいえ、米アカデミー賞の外国語作品賞を受賞したとき、この「パンの映画」の市民権は世界なものとなっている事実が、明らかとなった。「パンの映画」の発祥地とも推測される北欧ばかりでなく、最近ではケン・ローチあたりも「パンの映画」を作りかねない状況となっている。「パンの映画」はその素朴主義とは裏腹に、かなりしたたかなジャンルであって、日本で『バグダット・カフェ』(1987)がヒットしたバブル経済の時代ですでに、「パンの映画」がサブカルチャーの一変種として芽生えつつあったのである。
 最近では吉永小百合までが「パンの映画」に食らいつき、『不思議な岬の物語』(2014)などという、じつにピントのずれた作品を作りあげてしまった。岬という地形は元来、映画という表現にとっては袋小路の空間であり、水死や凶事を覚悟せざるを得ない禍々しい場であるはずだ。『シャッター アイランド』のマーティン・スコセッシはさすがにその禍々しさを自覚していたし、間違っても「不思議な岬」がおいしいコーヒーに似合うロハス的な空間たりえないことを熟知しているのである。

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