引き続き『ラジウム・シティ』の上映時に行われたヴィヴィアン佐藤さんと篠崎誠さんのトークイベントの後編をおおくりします。篠崎監督が東日本大震災の翌年に『あれから』を撮った経緯、さらにそこからどのように最新作『SHARING』に繋がっていったかが明かされます。『SHARING』は4月23日(土)から公開されますので、ぜひ劇場に足をお運びください。
※こちらの記事は読者登録をされていない方でもご覧いただけます


『SHARING』



フレームの内と外

松村
 そういう作りかたが理想として、現実はどうなんですか?

篠崎 正直難しい。時間をかけることイコールお金がかかるということで、特に撮影前に俳優を拘束するのを製作サイドは嫌がります。俳優の事務所サイドもギリギリまで他の仕事を入れますしね。同時進行になることもある。今日の夕方からドラマの収録があるので15時までに現場から出してくださいとか。
 最近、僕の周りでも自主製作と商業映画を交互に撮る監督が増えました。彼らのTwitterやFacebookを読むと、「今回は自主製作で予算はないが、ちゃんとリハーサルが出来る」と書かれている。逆転してるんです。商業映画は規模が大きくなれば、一日何百万飛ぶわけです。ところが自主製作映画の場合、もちろんコンセンサスは必要ですが、最低限の人数のスタッフで、俳優たちと一緒に、いい瞬間を待って撮ることが出来る。

ヴィヴィアン でもそれって贅沢ですよね。

篠崎 皮肉なことに、商業映画より自主製作の方が贅沢な時間をかけられる場合があるんです。余裕があると現場でいろんなことに気づけますしね。撮影の合間に、こんな話をしたとか、遠くで子供がすごく泣いていたとか。何年もしてから映画を観てそのことを思い出す。それも映画作りのすごく大事なところです。

ヴィヴィアン
 いわゆる映画作品に残さなかった外部のものですよね。

篠崎 フレームの中が大切なのは間違いないのですが、フレームの外で起きていることも同じくらい大事。絶対にフレームの中に反映されますから。そこで交わした会話、気持ちいい風が吹いていたとか、川原の草いきれとか。映画は本来、匂いも光の暖かさも何も感じないものですが、俳優たちは相手役の演技だけでなく、撮影時の環境に影響を受けているはずです。

松村 それはある種のドキュメンタルなものであるということなんでしょうか。

篠崎 よくフィクションとドキュメンタリーという分け方をしますが、どんな荒唐無稽なお話しであっても、一つのショットを撮る時は、その瞬間のドキュメントでしかないんです。ブラット・ピットをよく見たら…

松村 ブラット・ピットばかり挙げられますけど何かあるんですか(笑)。

篠崎 ジャン=ポール・ベルモンドじゃ若い人にはわからないから(笑)。トム・クルーズでもいいですけど(笑)。映画はその気になれば何回もテイクを重ねられます。同じように演技しても毎回違います。まばたきも呼吸も違う。撮影は二度と再現できないものを撮る。いつか消えていってしまうとわかっているものを、それがここにあった。カメラの前にかつて本当に存在していたのだということを肯定する。物語だけを語りたいとか、主題だけが大事じゃないんです。時間に抗いたいのかな。

ヴィヴィアン でもやっぱり映像という形でしか有り得ないのではないでしょうか。

篠崎 映像と音ですね。僕がいるのは立教大学現代心理学部映像身体学科という変な名称の学科ですが、記憶というのは、さっきのヴィヴィアンさんのお話にもつながりますが、単に物語化されて流通して消費されてしまうのではなく、ある人の中に生きて、刻々と変化していくものなのではないでしょうか。時には都合の良いように改変されることもある。一方でその人のことを覚えている人がいる限り、その記憶は生きているとも言えます。しかし本当は、ある人が死んでしまえば、何十年もたたないうちに消えてしまう儚いものでもあって…。
 その証拠に戦後わずか70年しかたってないのに、戦争の記憶を自らの経験に結び付けて実感として持っている人たちが消えてしまうと、今みたいにとんでもないことを平気で言いだす人が出てくる。だから記憶も、本当に大切なものは、普遍化出来ないような、個々の体験者たちの肉体と分かちがたく結びついたものであって。最近、「映像」って、ひょっとしたら…ある瞬間を未来の誰かに向けて運ぶための「肉体」「身体」みたいなもんじゃないかって考えてるんです。まさに映像=身体学科(笑)。肉体がいつか滅びるように、映像も永遠のものではなくって、いつかは消えていかざるをえないもの。デジタルの時代に移行して余計にそう思うようになりました。


見知らぬ女性からのメール

松村
 震災をひとつのモチーフにいうか、きっかけとして撮られた近作も、そういう考えからはじまったんですか?

篠崎 そういう考えが自分の映画作りの根底にあることは間違いないですが、どこまで遡って話せばいいのかな…。
 「ショートピース!仙台短篇映画祭」というのがあって、2010年に運営委員の一人である菅原睦子さんから相談を受けました。何人かの映画監督たちでオムニバスの短編集を作りたい、と。ところが翌年地震が起こって、会場のせんだいメディアテークが壊滅的な被害を受け、映画祭どころではなくなりました。でも、こういう時だからこそ映画を作りたい、と。「明日」というテーマで大勢の映画監督たちが菅原さんの依頼を受けて3分11秒の短編を撮りました。僕もオファーを受けました。やりたかったけど、できなかったんです。明日ということをポジティブに捉えられなかった。ポジティブな内容である必要はないと言われたのですが、出来なかった。
 少しして映画美学校から依頼を受けました。僕が監督し、学生とコラボレートする企画です。撮影は6日。予算はこれだけで中身は自由にやっていいと。迷った末に引き受けました。プロデューサーの松田広子さんと相談し、せっかくの機会だし、学生に企画を募りました。「この1年間で現実に起こったことをモチーフに何か考えてください」というお題で。いくつかアイデアは出ましたが、面白く、かつ実現可能なものがなかった。ならば、この1年自分の心が一番揺れた出来事は何かと考えて浮かんだのが友人の事でした。
 彼は10数年前に統合失調症を発症して、症状が寛解してから故郷の宮城に帰っていました。それが久しぶりに東京で会って「来春に結婚するんだ」と。ああよかったねと祝杯をあげて…。その翌年地震が起きました。地震から数日たって「全ては変わってしまったけど僕はここで生きていきます」ってメールが彼からきて、連絡がつかなくなりました。しばらくして見知らぬ女性からメールが来ました。友人のフィアンセでした。彼は今入院中で家族も面会できない状態です、と。原子力発電所の爆発をきっかけに心のバランスが崩れたんです。かかりつけの病院が地震で閉まっていて、離れた町の病院に運ばれた時にはかなり興奮状態にあったらしく、そのまま閉鎖病棟に収監されたのです。
 彼は昔から環境問題にも関心が高く、食器を洗うにも中性洗剤を使いませんでしたし、コピーライターをしていた時にも東京電力のCMを作るのがいやで会社を辞めてしまうほど、原子力発電そのものに昔から反対でした。
 郷里に戻ってからは、塾で子供たちに勉強を教えながら、農薬を一切使わない自然農法を学び、ゆくゆくは自給自足でやっていくのだと思っていました。地震が起きて、畑をやっていた人たちが一斉に遠くに避難してしまったのも追い打ちをかけたのでしょう。数か月して今度は友人からメールが届きました。退院しました、私たちは結婚します、と書かれていました。それを見た瞬間に全身の力が抜けるくらいホッとしました。


ふたつのヴァージョン

篠崎
 2011年の年末に彼らに会いにいき、半日いろんな話をして、その時話したことがずっと頭から離れず、彼らのことを映画にしたいという気持ちが消えませんでした。そこで再び会って、率直に話しました。少しでも彼らが嫌がれば諦めるつもりでしたが「構わないからやってくれ」と。
 ただ、出来上がった映画は、東京と被災地で離れて暮らす恋人同士の連絡が取れなくなり、その原因が恋人の心のバランスが崩れたためということ以外は完全に創作です。実在のふたりと映画の主人公たちは年齢も職業も全く違います。脚本は、僕だけだと現実に引っ張られてしまうのではというプロデューサーの判断もあり、映画美学校生の酒井善三君に加わってもらうことになりました。それと…仙台短編映画祭で作れなかった短編に応えるつもりで、「明日」という台詞を最後にヒロインに言わせました。それが前作の『あれから』です。あの映画は、非常に個人的な思いからスタートして、最初から3.11ありきなら、ああいう映画にはならなかったです。
 『あれから』を撮ったことで、別の形で「3.11以降」を映画にしたい気持ちが芽生えて、すぐに脚本を酒井君に書いてもらいました。地震当日に帰宅難民になった夫婦の亀裂を描く『愚かな夫』と題した脚本で、後に『戻れない』と改題しました。酒井君らしい面白いシナリオでしたが、自主でやるにはお金がなくて。『あれから』も映画美学校の予算では足りなくて自腹を切ったんです。それと『あれから』の劇場公開が2013年の3月に決まったことも大きかった。その宣伝で手いっぱいでした。5月頃に『あれから』の公開がひと段落して…。2013年度中(2014年3月まで)に、立教大学の研究プロジェクト(正式名称「文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成支援事業(平成23年~27年」)で、1本映画を撮ることになっていて企画内容を決めなければいけませんでした。『戻れない』でも良かったのですが、何か「違う」と。今思えば、2011年3月という過去を再現することにしかならないと思ったからかもしれません。
 『あれから』より若干予算もあったので、スケール感があり、話としても面白く、なおかつ実験的なものにしたかったんです。酒井君と半年あまり一緒にいろんな映画を見て、小説を読み、資料にあたり、話し合いを続けました。『あれから』『戻れない』と違う形で、「3.11以降」の日本を描く映画を作りたい気持ちと「3.11」とは全く関係ない映画を作りたい思いに引き裂かれていました。でも、結局そこ(3.11)に引き戻されてしまいました。企画当時は地震から3年もたっていないのに、東京で暮らしていると地震がなかったかのように世間が進んでいる。そもそも東京電力福島第一原子力発電所は、東京に電気を送るために稼働していたのに、当の東京に住む僕らは全く関係ないかのようにしている。違和感がありました。そこに来て、オリンピック招致での首相の「アンダーコントロール発言」です。柄にもなく憤りを感じました。やはり、愚鈍でもいいからもう一度「3.11以降」を描こうと。
 同時に浮上したのが「夢」と「分身」というモチーフです。これを有機的に絡められないか。そこに酒井君が70年代に心理学の学界で論争を呼んだ「虚偽記憶」(実際に経験してない記憶を、自分の記憶と思い込む)を見つけてきて。「夢」は、3.11の予知夢というものに形を変えました。
 いろんなものが混じりあって、『SHARING』という映画が生まれました。頭で考えて最初から最後まで構成をがっちり固めて書いた脚本ではないのです。聞かれれば、こうしてもっともらしいことも言えますが、なぜこういう映画になってしまったのか実はいまだに言葉では説明できないです。
 最初心理学教授の女性と大学で演劇を学ぶ女性ふたりを主人公にするつもりで、いざ脚本を書き出すと、もう一人謎の男子学生を登場させてしまいました。準備は脚本通りに進め、でも納期に間に合わせるためには脚本を変更するかシーンをカットするしかないことが見えてきて、それなら締切を守って提出するものと脚本通りのヴァージョンを2つ作ろうってことになって。とにかく撮影だけは全部終えました。
 撮影と同時進行で、編集の和泉陽光君につないでもらって、仮編集を見る時に、「締切を考えると男子学生が中途半端になるんで思い切って彼のシーンを全部落としてみました。とにかく見てください」って言われて、見てみたら…これが悪くなかった(笑)。
 結果、この映画の2つのヴァージョンそのものが分身、双子の姉妹のようになりました。異なるテイクを使い、カットの順番も替え、結末も違います。短い版にしかない台詞やシーンもあり、決して長い方がディレクターズ・カットではありません。キェシロフスキがTVシリーズ『デカローグ』で撮った一篇『ある愛の物語』とそれを長編映画化した『愛についての短いフィルム』のように、印象の異なる映画が2つ出来たんです。

ヴィヴィアン
 よく写真作品でもちょっとだけ角度変えて時間を変えて、2枚でひとつの作品というのもありますよね。それの映像版という感じですね。

松村
 さっきヴィヴィアンさんがおっしゃった、いろんな角度からあらゆるものを見ていくということにもちょっと似ているような気もします。

篠崎 今目の前で見えていることだけが世界の全てじゃないんですよね……。酪農家が自殺した痛ましい事件もありましたが、過去を否定されるだけでなく、同時に今と未来がなくなる。あったかもしれないもうひとつの可能性や夢が全部打ち捨てられる。そのことに対しての憤り…。ただ、映画はメッセージを伝える道具ではありません。映画としての強さ、面白さを捨てたくはない。その葛藤は絶えずあります。『SHARING』を作ることで、被災地の方が見て不快に感じたり、傷つくかも知れない。映画はどんなにこっちの意図がそうではなくても、人を傷つける危険性はあります。そこに開き直ってはいけないですが。

松村 解釈は人の数だけありますからね。

篠崎 カメラは、レンズの前の事物や出来事をまるごと愚直に写すと言いましたが、裏を返せば、どんなにこっちがネガティヴな思いをこめて、あるシーンを撮ったとしても、あたかも肯定しているように見えてしまう怖さもある。自分の映画が誰かを傷つける危険性があるとしても、ごめんなさいと心の中で手をあわせてやるしかない。その時点で、こういうことだというのを模索しながらやるしかないんです。

松村 そろそろお時間なので、何か言い足りなかったことなどあれば。

ヴィヴィアン
 七戸では、神明宮という土地の神社があって、そこで大きな秋祭りがあるんです。山車が出る伝統的な収穫のお祭りです。それのスポンサーが原発(原子燃料サイクル施設)なのですよね(笑)。みんなが原発がスポンサーの山車に手を合わせているわけですよ。もうすごい皮肉というか。でも現実なのですよね。

篠崎
 あとドラキュラ映画祭、いいですよね。ドラキュラを主人公にしない吸血鬼ものでも良いのであれば、ぜひチャレンジしてみたいです。

松村 ドラキュラフェスに篠崎さんが出品されるっていうことをここに約束してもらいまして、今回のゲストはヴィヴィアン佐藤さんと篠崎誠さんでした。ありがとうございました。


© COMTEG +篠崎誠
SHARING

2014 / 日本 / 117分 / 監督・脚本:篠崎誠 / 共同脚本:酒井善三 / プロデューサー:市山尚三 / 出演:山田キヌヲ、樋井明日香、木村知貴、河村竜也、高橋隆大、鈴木卓爾、兵藤公美ほか
4月23日(土)~5月13日(金)にテアトル新宿(※5月3日は休映)、5月1日(日)~21日(土)に横川シネマ(広島)で公開



ヴィヴィアン佐藤
美術家、文筆家、非建築家、映画批評家、ドラァグクイーン、プロモーター。ジャンルを横断していき独自の見解で何事をも分析。自身の作品制作発表のみならず、「同時代性」をキーワードに映画や演劇など独自の芸術論で批評/プロモーション活動も展開。2012年からVANTANバンタンデザイン研究所で教鞭をもつ。各種大学機関でも講義多数。本記事で触れられている青森県七戸町の町興しコンサルタント、さらに広島県尾道市の観光大使(大志)も務める。

篠崎誠(しのざき・まこと)
映画監督。立教大学現代心理学部映像身体学科教授。96年に『おかえり』で商業監督デビュー。その他の監督作に『忘れられぬ人々』(00)、『浅草キッドの「浅草キッド」』(02)、『犬と歩けば チロリとタムラ』(03)、『殺しのはらわた』(06)、『東京島』(10)、『怪談新耳袋 怪奇』(10)、『死ね!死ね!シネマ』(11)など。2012年、3.11(東日本大震災)直後の東京を舞台にした『あれから』を発表。同作とリンクする最新作『SHARING』(14)が4月23日より待望のロードショー。



※前編へ戻る
※中編へ戻る