今週の映画川は、川口敦子さんが現在公開中の『地獄の黙示録』(フランシス・コッポラ監督)について書いてくれました。1979年に初公開された同作を2016年の今、見る意味とは――。現在公開されている他監督の作品(『SHARING』『光りの墓』)やコッポラが近年撮った作品との交錯によって、今『地獄の黙示録』が"初めて”の映画として立ち現れます。
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『地獄の黙示録』


文=川口敦子


 「今目の前で見えていることだけが世界の全てじゃないんですよね…」――本誌4月号Vol.2にあるヴィヴィアン佐藤氏とのトークイベント載録記事の中、篠崎誠監督のそんな発言をみつけて、「世界」を「映画」と言い換えてみたい気持ちがむくむくと湧いてきた。
 2月末、他ならぬ篠崎監督の新作『SHARING』の異なるエンディングをもつ長短両ヴァージョンを同じ日に前後して、しかも撮影された立教大学新座キャンパスで見る機会を得た。東日本大震災で恋人を亡くし、以来、彼の夢を見続けつつ地震の予知夢を見た人々を調査する社会心理学者。同じ大学の演劇科で震災をテーマにした卒業公演の稽古に追われながらやはり、繰り返し見る夢に苛まれているひとり。分身と夢をテーマにふたりのヒロインの今/あれからとこれからをわなわなとした感触と共に撚り合わせる映画はまず、ヒッチコックやデ・パルマをついつい思い浮かべたくもなる迷宮的な心理サスペンスとしてとびきりの磁力で迫ってくる。鮮やかにジャンル映画を全うする。けれども映画はまたいっぽうで、日々、薄れゆく惨事の記憶を遠いこととして殆んど手放しかけている忘れっぽい自分も否応なくヒロインたちと同じ夢の何層目かを生きているのだと、ざわざわとした実感をつきつけてくる。目の前で見えていることだけが全てではないのだと、反芻するほどに見えてくる、聞こえてくる何かと対峙させるスリリングなメディアとしてもいっそう切実に迫ってくる。

『SHARING』


 もちろん映画を見るということはその日、その時、一期一会の体験に他ならない。それは経験を通じてこれまでも実感してきたつもりだが、改めて"なまもの”といいたいような映画を体感してみると、まだ全てを見せたわけじゃないと、無限の可能性を湛えて再会を待っている一本、また一本を真新しく見出すことが待ち遠しくなってくる。といったことを思っていた矢先に再公開される『地獄の黙示録』(劇場公開版、デジタル・リマスター)を見た。今、目に見えているものだけが映画の全てじゃない――ということは新しい今だからこそ見得る何かがあるということでもあるだろう。実際、2016年春渋谷は映画美学校試写室の今に見た『地獄の黙示録』はみごとな新鮮さで立ち現れ圧倒的に面白かった。
 ちなみに79年、カンヌの"今”、話題をさらった『地獄の黙示録』を見た映画評論家ロジャー・エバートは苦悶か至福か、その中間に興味はない、そのどちらかを与えてくれる映画でなければ――とトリュフォーの言葉を引きつつ、コッポラの呪われた大作はその形容にぴたりの一本と言い切って、ヴェトナム戦争やコンラッドの原作とからめた主題や思想、製作をめぐる困難等々に目を奪われ映画そのものを見ていないと否定派を退ける。記者会見での監督のエンディングをめぐる発言が誤解を招いた経緯を目撃者として弁護もしてみせる。本来、70ミリのロードショー公開版でコッポラはエンディング・クレジットなしの終わりを考えていた。クレジットは印刷物として配布するつもりだった。が、35ミリ版ではそうもいかずクレジットを入れた。フィリピン政府の要請でロケ・セットを爆破した際、撮影した記録映像を背景として挿入した。記者会見で彼があの終わりでよかったかと口にした迷いはこのクレジットの処置に関してのことでカーツとウィラードの対峙、抹殺へと至る終結部の展開を云々してはいなかった――と。
 2016年春に見たコッポラの構想通りのエンディング。クレジットなし、すとんと降りる闇としてそれを見終えた後、もう一度、「ジ・エンド」のうねる曲調に乗った始まりへと引き戻された。永劫回帰の映画のグルーブに包み込まれた。今まで見た『地獄の黙示録』を超える"初めて”の映画が身体に染み入った。

『地獄の黙示録』

 始まりに流れるウィラードの声がマーティン・シーンの若さに励まされるように息子チャーリー・シーンのそれに重なり、同様に、独白が響く『プラトーン』の冒頭が唐突にやってきた。オリヴァー・ストーンが自身の体験を振り返ったヴェトナム映画にまぎれもなくコッポラの一作の記憶が食い込んでいたのかと、初めてまざまざと2本がそこに重なって見えた。2016年の春に見た『地獄の黙示録』の面白さにぞくりとした。そこに流れた独白は『ディスパッチズ ヴェトナム特電』で知られる作家マイケル・ハーが撮影後にコッポラと書いたものだが、ハーはまた『フルメタル・ジャケット』の脚本をキューブリックと共同で手掛けてもいる。80年代末の2本のヴェトナム映画がほぼ10年前のコッポラの一作と結ばれてサイゴンのホテルのただれた空気がまとわりつくような一室に気配として漂うのを見られる"今”にくらっとしびれた。
 同じ開巻部、ジャングルを焼くヘリのプロペラの回転がサイゴンのホテルの天井の扇風機のそれと重なり合って融ける。ウィラードの夢、眠りの際の視界は、アピッチャッポン・ウィーラセタクンの『光りの墓』の、回る回る天井のファン、湖の水車とそして時と記憶のめぐりの列なりを見た目の今にもまた真新しい意味を差し出すだろう。79年、ニューヨーク・タイムズ紙のヴィンセント・キャンビー『地獄の黙示録』評に対する読者の投稿のひとつには、ヴェトナムの人々を匿名的存在でなく個として描くヴェトナム映画がないという意見が綴られていた。タイ北部、カンボジア、ラオスとの国境地帯の戦争の歴史を踏まえ兵士の眠りを介して集団と個の記憶を瞑想したアピッチャッポンの映画はその意味で、アメリカの側だけでない戦争への眼差しに触れ得る今のことを確認させ、だからカンボジアへとメコン川を遡るウィラードの旅に異なる層を付加することにもなる筈だ。

『光りの墓』 © Kick The Machine Films / Illuminations Films (Past Lives) / Anna Sanders Films /
Geißendörfer Film-und Fernsehproduktion /Match Factory Productions / Astro Shaw (2015)  


 あるいは天地逆転したウィラードの顔を俯瞰して悪夢の境地を掬うコッポラの手さばきは彼の『胡蝶の夢』を通過した観客の目に奇妙な懐かしさをねじ込んで、ここにも新鮮な視界が開けてくる。『ゴッドファーザー』のヒットで意図せぬままに大作をものする巨匠の座に押しこめられた。私財を投じた『地獄の黙示録』以降、嵩んだ借金に縛られ心ならずも娯楽大作をものするはめに陥った。が、心はいつもアートフィルムにあった。シネアスト誌2016年春号のインタヴューでもそう述懐しているコッポラが『胡蝶の夢』に続き『テトロ 過去を殺した男』『ヴァージニア』と小さいけれど試みの意志に満ちた近作を連打してみせたこと。その成果を確認した目で『地獄の黙示録』に向い直す時、先の回転のモンタージュやウィラードとカーツの対峙の場の律儀な切り返し(カーツ役マーロン・ブランドが撮影現場をさっさと離れた結果、ふたりを同じショットに撮れなかったという事情があったとはいうものの)が示す古典的映画作法の対極で、巨大なアートフィルムと呼びたいような撮り方が、はたまたその大志のかけらのようなものが改めて目についてくる。オペラ的と評された壮麗なスタイルは実の所、ウィラードの旅の序の口に置いてけぼりにされ、川を上る景色を心のそれと重ね闇の深奥へと向かう物語の淡々がロードムーヴィーそのままに放り出されていく。ブランド以下、ロバート・デュヴァル、デニス・ホッパー、そしてシーンの演技を貫くライヴな感触、創るより記録することをめざしたようなその見守り方。と、なると先のインタヴュー記事で今後の企画としてコッポラが"ライヴ・シネマ”の構想を語っているのも見逃せなくなってくる。草創期のテレビ・ドラマの生放送のようにと説明しながら自分でももうひとつどういうものになるかは掴めていないと率直に語っているコッポラだが、撮影現場から生で映画館へと配信されるという映画ははたしてどんな実験作として登場してくるのか。文字通り"なまもの”としての映画を睨むコッポラの今は『地獄の黙示録』の戦場でキャメラを見るな、進め進めと号令をかける記録映画監督を自演する彼の姿と奇妙にだぶり、眩しく若さを思わせずにはいない。

地獄の黙示録 劇場公開版  Apocalypse Now
1979年 / アメリカ / 147分 / 監督・脚本:フランシス・コッポラ / 脚本:ジョン・ミリアス / 出演:マーロン・ブランド、ロバート・デュヴァル、マーティン・シーン、フレデリック・フォレスト、アルバート・ホール、サム・ボトムズ、ローレンス・フィッシュバーン、デニス・ホッパー
4月16日(土)よりシネマート新宿、4月30日(土)よりシネマート心斎橋にて公開 以後全国順次公開
公式サイト




川口敦子(かわぐち・あつこ)
映画評論家。著書に『映画の森―その魅惑の鬱蒼に分け入って』(芳賀書店)、訳書に『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(アルトマン著、キネマ旬報社)などがある。