今週の映画川は、荻野洋一さんが2月11日(土)公開の『家族の肖像』デジタル完全修復版(ルキーノ・ヴィスコンティ監督)について書いてくれました。ヴィスコンティ監督の晩年(1974年)に全編がスタジオのセットで撮影された本作は1978年の日本初公開以来、39年ぶりの劇場公開となります。その長い年月を経てなおヴィスコンティが"生きている”理由、そして、その年月を経てこそ本作が上映されるべき理由とは――





ルキーノ・ヴィスコンティはまだ生きている


文=荻野洋一


 動くな、死ね、甦れ。これは、オール・シングス・マスト・パスをロシア風に言い換えた3語だった。動かざるものも百代の過客のひとつである。小津の『晩春』終盤の、原節子の娘と笠智衆の父が関西旅行の晩に宿で演じた、あと一歩で父娘相姦に陥っていた(いや、笠智衆の必死の取りなしを聴けば分かるように、精神的にはあれはすでに父娘相姦だった)あのシーンでインサートされる色絵磁器の壺もまた、動かざるも動き、死に、甦るオール・シングス・マスト・パスなのである。
 ルキーノ・ヴィスコンティはまだ生きている。彼は死んでいない。ヴィスコンティの映画を見るたびに、これは閻魔帳にどう書かれるべきかが解き明かされていない、死者の匂いのしない映画だと痛感させられる。ヴィスコンティの映画内にはあれほど死が、死への欲動が充ち満ちているのに。(注:今回の配給興行から、従来のルキノではなく、よりイタリア語の発音に近いルキーノに変更になったようだ)

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