今週の映画川は、現在テアトル新宿、シネマ・ジャック&ベティ他で公開中の空族の最新作『バンコクナイツ』(富田克也監督)を取り上げます。全編がタイのバンコクやイサーン地方、ラオスで撮影された本作については、空族自身による連載「潜行一千里」でもその準備段階から撮影の様子などをboidマガジン創刊以来3年に渡ってお伝えしていますが、2月末からいよいよ劇場公開が始まっています! 今回は表象文化・ドイツ文化研究者の海老根剛さんが空族の映画、そしてこの『バンコクナイツ』に貫かれている力について――それはどのような力で、いかに獲得され発揮されているのか、じっくり考察してくれました。




この世界を理解しないための長い助走


文=海老根剛


 空族の映画の力は世界を理解しないことにある。空族にとって、このクソのような世界を「理解する」ことは、それ自体ですでに「同意する」ことを意味しており、断じて受け入れることのできない事柄である。「グローバル化した現代世界は理解するのが難しい。普通の人々にも理解できるように、エリートは平明な言葉でグローバル化の恩恵を説明すべきだ」。世界各地でポピュリズムが台頭するのを目の当たりにして、多くの人々がそう語っている。しかし事実はまったく逆なのだ。私たちはあまりにも簡単にすべてを理解してしまう。そして理解することで、同意を与えてしてしまう。この世界がクソであることの原因の一端は、私たちがあまりに「物分かりがよい」ことにある。だとすれば、「世界を理解しない力」を獲得することは、このクソである世界を変える第一歩になるはずだ。何事も140字もあれば説明可能だとみなされている現代では、世界を理解しないことのほうがはるかに難しい。世界を理解しないでいること。それは怠惰であるどころか、途方もない量の労働と、思考のエネルギーを必要とする。空族の実践が示しているのはそのことである。
 たとえば、空族のトレードマークとも言える集団制作の方法論や、ソフト化やストリーミングを拒み続ける時代錯誤も甚だしい上映実践のことを考えてみる。こうした空族の映画作りの特徴はすべて、現にあるこの世界(支配的な映画産業の仕組み)を理解することの拒否、それに同意を与えることの拒否に根ざしている。彼らが日本の映画産業の「事情」を少しでも理解してしまったら、そしてそれに同意してしまったら、彼らがいま作っているような映画は決して生まれ得ないだろう。
 あるいは空族の映画に登場する人々のことを考えてみてもいい。空族が魅了され、カメラを向けるのは、きまって自分たちの置かれた苦境の全体を理解できていない人々である。このことはおそらく偶然ではない。『国道20号線』に登場するヤンキーあがりの若者たち。『サウダーヂ』で描かれる地方都市在住のブラジル移民や土方たち。『バンコクナイツ』の舞台である日本人相手の歓楽街で働く娼婦たち。彼らはみな、それぞれに深刻な苦境に直面し、もがき苦しんでもいるが、誰一人として自分たちが置かれた状況の全体を理解していない。みずからの苦境の本当の原因がどこにあり、真の敵は誰なのか、彼らにはわからずにいる。自分たちが放り込まれた世界に対する理解を決定的に欠いたまま、行き場のない怒りだけが鬱積していく。

 世界がいまあるような世界でしかないことに対する行き場のない怒り。空族のすべての映画の根底には、この怒りがある。たとえば『国道20号線』のラストで、ヒサシがバイクで夜の国道を行くあてもなく走り続けるとき、私たち観客を射抜く感情。それがその怒りである。だがそれにしても、あのラストシーンがあれほどまでに切迫していたのはなぜなのか? それは第一に、あのときヒサシが世界に対する理解を完全に失っていたからだ。彼にとって、あのとき世界はひとつの巨大な闇でしかなかった。もし世界を少しでも理解していたなら、彼にはどこか行き先があったはずである。しかし、ヒサシのバイクにはもはや行き先は一切存在しなかった。だが他方ではまた、あの場面があれほどまでに切迫したものになったのは、空族がヒサシの生きる現在に徹底して内在し、世界に対する理解の欠如を彼と完全に共有することで、行き場を失った怒りの中に生の内実をつかみ取ろうとしていたからである。この作品で空族は、ヒサシのような人々の「問題」を理解しようとはしていないし、その理解を観客と共有しようともしていない。観客に対してヒサシたちの苦境の原因がどこにあり、真の敵は誰なのかを説明したりもしない。もしそんなことをしていたら、空族は彼らの世界の外側に立ち、観察者然として振る舞っていたことになるだろう。しかし空族にとって重要だったのは、彼らの理解を欠いた怒りにどこまでも内在することであり、そうすることで、彼らの行き場のない怒りのうちに「この世界を理解しない力」を、すなわち「この世界への同意を拒否する力」を探り当てることだったのだ。
 したがって、空族の映画の力は内在からもたらされる。空族は彼らがカメラを向ける人々の生活に徹底して内在しようとする。空族は人々が暮らす場所に赴き、そこで生活し、彼らとともに飲み、食い、語り、遊ぶ。カメラを回し始める前に膨大な時間を費やして、まず彼らの仲間になる。それは彼らの感覚と思考を共有することにほかならない。そうすることで空族は彼らの生活の共犯者になり、彼らも空族の映画の共犯者になる。この時間をかけて醸成される、映画と生活が見分けがたいほどに混ざり合った共犯関係こそが、空族の映画に登場する人々の「演技」に特別な質を付与しているのだ。

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