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2014年04月号 vol.10

映画川『マンハッタン恋愛セラピー』 (鍵和田啓介)

2014年08月17日 17:31 by boid
2014年08月17日 17:31 by boid

 

 

文=鍵和田啓介 

 

 どうやら最近、アメリカ合衆国においてジャンルとしてのラブコメは絶滅危惧種とされているらしい。去年だけでも、”Why Are Romantic Comedies So Bad?"、”Are Romantic Comedies Dead?”、”R.I.P. The Romantic Comedy”などなど、穏やかではないタイトルの記事をいくつも目にした(ラブコメは和製英語であり正しくはRomantic Comedyだが、ここではより親しみやすいラブコメで通す)。  

 実際にいつからなのかはまちまちだが、だいたいここ10年くらいの話のようだ。それぞれにそれらしい理由が挙げられているが、知ったことではない。合衆国のラブコメが危機に瀕したためしなど、有史以来ただの一度もないのだから。こうした事態が明らかにするのは、現代人はラブコメを見るのが不得意だという一点に尽きる。連中が思っているほど、ラブコメは甘くない。ということで、ここでは(最新作を取り扱うコーナーとのことなので、そのルールにゆるく則りつつ)00年以後に合衆国で作られたラブコメの汲めども尽きぬポテンシャルを、少しでも解き放っていければと思う。

 

 『マンハッタン恋愛セラピー』(06)が描くのは、偽の信から解放されて自分の生(性)を生きるに至る女の姿である。主人公であるグレイ(推定30代後半)は、恋人と見紛うほど仲の良い兄と二人暮らしなのだが、さすがにこんな暮らしもまずかろうと兄の恋人探しに公園へ繰り出したその日、ぴったりの女を発見する。以後、あれよあれよと話は進み、兄と件の女は出会った次の日に結婚することになる。そこで三人は結婚式を挙げに旅行に行くのだが、滞在先でグレイと兄の婚約者が酔った勢いで戯れに口づけを交わしたことで事態は一変、グレイは兄の婚約者に恋をしてしまう。グレイは感嘆せずにはいられない。曰く、独身に満足してて恋愛に興味がないのかと思っていた、でもいつか運命の男がさりげなく現れると思っていた、しかし、待っていたのは運命の女だった、と。  

 それにしてもなぜグレイは、いつか運命の人がやってくると素朴に信じていたのだろうか。加えて、なぜ運命の人は男だと素朴に信じていたのだろうか。「シンデレラ・コンプレックス」というやつだろうか。しかし、時代は変わったんじゃないのか。男女雇用機会は均等になったんじゃないのか。実際、グレイは会社で高い地位を得たんじゃないのか。家に縛りつけられ、家事労働に従事させられ、それでもおしとやかにしていればきっと白馬に乗った王子様が助けにきてくれるなんて観念は、とても信じられるものではなくなったのに、どこかで期待してしまっているというのか。「シンデレラのように、女は今日もなお、外からくる何かが人生を変えてくれるのを待ち続けている」(コレット・ダウリング)というのは本当なのか。  

 

 このような期待を植えつけるのは誰なのか。このような偽の信をプロパガンダするのはどこのどいつなのか。もちろん、ディズニーのプリンセスものである。ラブコメも基本的にディズニーのプリンセスもの的な世界観に追従していると思われているかもしれないし、多くはそうであったかもしれない。しかし、ある種のラブコメは異議申し立てをしてきた。このことを重く深く受け止めたい。特に注目に値するのが『魔法にかけられて』(06)だ。本作はディズニー製作のプリンセス映画でありながら、手前がプロパガンダしてきた偽の信を自己批判し、かつまた「夢と魔法の世界」だけのお話ですよと総括してみせるからだ(本作の意義は、ウーマンリブ的なお伽噺批判に目配せしたプリンセス映画『エバーアフター』(98)、『魔法にかけられて』と多くの点で共通していながらまったく別の道を選ぶ『ニューヨークの恋人』(01)と比較するとより見えてくるはずだが、それはまたの機会に譲る)。

 

 主人公ジゼルは森の奥に幽閉されている。悪い魔女の仕業である。しかし、いつも夢に見る白馬に乗った王子様がいつかは助けにきてくれる。そう信じて歌っている。すると、その歌をたまたま聴きつけた白馬の王子様が実際に助けにきてくれる。二人はその場で結婚を誓う。めでたしめでたし。しかし、この結末では悪い魔女が納得できない。そこで魔女はジゼルを「永遠の幸せが存在しない世界」へと、すなわち現実へと突き落とす。  

 現実でもジゼルは「夢と魔法の世界」と同じように振る舞う。例えば、急に唄い出す、動物と話す、金魚を口の中で泳がす、などなど。するとどうなるか。人々は彼女を病院に連行しようとするのである。つまり、「夢と魔法の世界」とは狂人たちの世界であり、そこでの振る舞いを現実世界で応用するのは狂気の沙汰だとこの映画は教えてくれるのである(もちろん、狂人で何が悪いという話はある。「ラブコメと狂人」という問題は根深い)。以後、「夢と魔法の世界」でのお決まりのシーンが現実においてクリエイティブに軌道修正されていくのは清々しい。ここでは一点だけ触れておく。  

 ジゼルは王子様ではない男に恋をする。これは「夢と魔法の世界」ではありえないことだが、現実では大いにありうる。前者でありえないのはそこには女と男が一人ずつしかいない世界だからで、後者でありえるのはそこには女も男も複数いるからである。二人の間で揺れるジゼルが結果として選ぶのは、王子様でない方の男だ。王子様の前に残されたのは、彼女が脱ぎ捨てていったガラスの靴だけ。痛快なのは、それを拾った王子様が少し気になりつつある女に履かせてみたらぴったりだったということである。そりゃそうだ。足のサイズが22センチとか23センチの女なんていくらでもいる。世界でたった一つのサイズの足を持つ人などそう多くはない。

 

 「夢と魔法の世界」とは女と男が一人ずつしかいない世界の別名である。しかし、現実には女も男も複数いる。「永遠の幸せが存在しない世界」をこの筋から肯定的に評価してみる必要がある。たった一人の運命の人なんていない。ただの人が複数うろちょろしているだけである。その中で任意の一つの出会いを運命と見なすかどうかは当人の気合いの問題である。気合いが緩んだらまた別の運命を探せばいい。『マンハッタン恋愛セラピー』のグレイも運命の人と思っていた兄の婚約者とは上手くいかず、別の運命の人と上手くいく。このとき、前者は運命ではなく後者こそが運命だったのだという論法は廃棄しよう。運命なんてその程度のものだと高を括ろう。ニーチェが語っていた運命愛とはたぶんそんな感じである。そのためには「夢と魔法の世界」から下りなければならない。例えば、ラブコメはそんなことを教えてくれる。

 


マンハッタン恋愛セラピー Gray Matters

2006年 / アメリカ / 96分 / 監督・脚本:スー・クレイマー、撮影:ジョン・バートリー、出演:ヘザー・グラハム、ブリジット・モイナハン、トム・キャヴァナー、シシー・スペイセク

 

 

鍵和田啓介(かぎわだ・けいすけ)

ライター。「POPEYE」「BRUTUS」「Numero」を始め、雑誌を中心に執筆を行っている。

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