文=大寺眞輔

 映画の概念は変容した。私たちは、もはや元に戻ることはできない。それは、 19世紀末に科学技術と大衆娯楽と芸術の奇跡的な邂逅により生み落とされたときと全く同様、 何のためらいも見せず 「ただ変わってしまった」のだ。 この事件が私たちに与える影響はあまりにも大きい。だが、それはいつだってそうだったではないか。現実も映画も大衆も芸術も世界も、それらは常に変わり続ける。私たちも同時に変化する以外ないのだ。

 勿論、私たちはジョン・フォードが撮るロングショットの美しさに涙し、ブレッソンの見せる厳格なビジョンに打ちのめされる。しかし、このように私たちを育んできた感性は、フィルムというこの厄介な、しかしであるからこそ偉大なメディアの上に築かれてきたものなのだ。そして現在、映画はその製作から上映に至る全ての過程をデジタルへと置き換えた。そこで何が変わるか。全てだ。土台が動けば感性の家屋もまた変容せざるを得ない。だが、それでもなお100年以上に及ぶ映画とその歴史の全てが廃棄処分にされて良いわけがない。では、どうするか。問題は常にそこにある。では、私たちはどうすれば良いのか。

 フィルムによる映画体験は、カメラとカチンコと監督と俳優とスクリーンと映画館と観客を含む大きなエコシステムを形成してきた。だが、デジタル時代のそれは、むしろモニタやキャラクタやモバイルやソーシャルやユーザーやインタラクティヴィティという概念により近接性を示すだろう。映画は、より大きなオーディオヴィジュアル環境内部に包含され、 その中で独自性と歴史とのアタッチメントを堅持するしかない (しかしそれは同時に茫洋とした無限からのきわめて重要な遮断でもある)。現実は変容する。例えば、『アバター』の大ヒットと共に記憶されるここ数年の3D映画ブームは既にやや収束しつつあるようだ。3Dテレビもほぼ消え失せた。だが、それに変わって今や最も騒がしいのはVR周辺である。アン・トンプソンもTwitterで関心を表明したOculus Riftパーマー・ラッキーのフェアリー・テールがその代表だろう。映像体験が変容する。感性も変容する。そして何より、作品という概念そのものが変容しつつある。

 フォードのロングショット、 ブレッソンの厳格さ。 こうした映画的体験を支える感性に共通するのは、ある距離の感覚である。フィルムやスクリーンという物理的に厄介な存在が担保する距離の感覚。それに対し、デジタルは本質的に自らの内部へとユーザーを誘う。アナログ的な距離感は、もはや時代遅れな贅沢品か古典芸術の気取りを示すに過ぎないかも知れないのだ。更新された新たな作品概念は、私たちを自在にその内部へと取り込み、私たちを作品の一部として、あるいは作品を私たちの一部として、複数の潜在的バージョンを同時に顕在化させていくだろう。取り敢えず映画として提示された一つの視聴覚体験のそばには、複数の二次創作(ブログ、Twitter、YouTube、別の映像作品)が近接し、お互いがお互いの一部として、 あるいは全てが全ての二次創作の二次創作として、 映像と音響とソーシャルと個人の呟きの全てがないまぜになった無限の全体、ないしはそこからの有意義な切断を形成していく。その最良の例の一つを、 私たちはシェーン・カルースがこれまでに撮った2本の長編、『プライマー』『アップストリーム・カラー』に見ることができるだろう。

 ソフトウェア・エンジニアから映画作家へと転身したカルースは、2004年に最初の長編『プライマー』を発表した。製作・監督・脚本・音楽・編集・出演などあらゆる映画作り作業を自ら手がけ、わずか70万円の予算で撮影されたこの作品は、その後2年間かけてminiDVで編集された。タイムトラベルというサイエンスフィクションを複雑に多重化されたタイムラインの中で処理したこの個人映画は、一度見ただけでは殆ど何も分からないほど難解なものだ。にも関わらず、『プライマー』は世界的に大きな話題を呼び、大成功を収めた。そして何より、その複雑きわまりない物語解釈にチャレンジするブログ記事をかつてない規模で大量に生み出していったのだ。誰もがその謎に挑もうとしたのは、それが単に難解であるからではない。ユニークで刺激的で新しい映画体験がそこにあったからだ。トマス・ピンチョンにも似たシャープでクールでエッジの効いた作品世界。ロジカルな思考が視聴覚的感性と一体に高みへと向かうヒプノティックなドライブ感覚。実際、ハリウッドから声をかけられたカルースは、スティーヴン・ソダーバーグやデヴィッド・フィンチャーらによるプロデュースの元、数十億円もの予算をかけたSF大作の製作準備にその後没頭することとなる。

 不幸にして十分な製作資金に恵まれなかったこの企画は、しかし別の形でカルースの次作へと繋がっていく。それが、『アップストリーム・カラー』だ。ハリウッドから遠く離れ、そしてアメリカ映画のメイン・ストリームから遠く離れ、新たな時代の新たな映画のエコシステムを自ら生み出そうとする野心と冒険心に満ちたこの作品について書くためには、新たに長い長い論考が必要となるだろう。いや、普通物書きがこうした文章を書く時、それはその長い論考を書かないことの言い訳であるのが殆どなのだが、私は既に実際誰にも頼まれないまま書き上げてしまった。pdfでアップしてあるので、そちら(※)を参照して欲しい。そして、その結論として私が言いたいのは、こういうことだ。つまり、既にファウンド・フッテージがあった。バイラル・マーケティングがあった。私たちの現実はその延長上にある。私たちの罪もそこにある。映画は変容した。作品概念は変容した。私たちもまた、自らその変容の一部としてコミットしていることを自覚しなければならない。変われと言うのではない。変わってしまったのだ。後は、それに気づくかどうかなのだ。


※「上流の色彩は常に咲きほこる」(『アップストリーム・カラー』評)大寺眞輔


©erbp

 

Upstream Color アップストリーム・カラー

2013年 / アメリカ / 96分 / 監督・製作・脚本・撮影・音楽・出演:シェーン・カルース、出演:エイミー・サイメッツ、アンドリュー・センセニング、ティアゴ・マルティンス


大寺眞輔(おおでら・しんすけ)

映画批評家。ジョアン・ペドロ・ロドリゲス・レトロスペクティヴを実現したDotDashやアンスティチュ・フランセ横浜でのシネクラブなど精力的な上映活動も行っている。著書/共著として『現代映画講義』(青土社)『黒沢清の映画術』(新潮社)など。