GEORAMA2014と『コンシューミング・スピリッツ』 

文=土居伸彰


 

 なぜ自分はアニメーションがとりわけ好きではないのにある種の作品には異様なまでに惹かれてしまうのか? アニメーションを愛しているとはとても言えないのに、本当に偶然のように、人生の節目でこの身を賭けてでも擁護したい作品にどうしても出会ってしまうのだ。音楽や映画や野球は心から好きといえるし普段から楽しもうと思えるが、義務感以外では別に進んで観ようとはしないアニメーションからは、他の好きなものからは感じることのできない衝撃を、ときおりモロに喰らってしまう……かくしていつのまにか上映企画を立てるようになったり、今ここでこんな文章を書くような人間になったり、フェスティバルを始めるようになったりしている……。

 

 そんなわけで、「THE LAST BAUS」に先駆けて、4月12日から吉祥寺バウスシアターにて「GEORAMA2014」がスタートする。2010年、アニメーション作家の仲間たちとともに、短編アニメーション作品をプロモートする目的で、インディペンデント・レーベルCALFを始めた。CALFはここ4年間で数々の上映企画や劇場配給をやってきたわけだが(現在は「ワンダー・フル!!」 「変態(メタモルフォーゼ)アニメーションナイト」の2つが全国を回っている)、 「GEORAMA」は、そのCALFが始める新しいアニメーション・フェスティバルだ。2015年にコンペティション上映付きの第1回大会をやる予定で、 「GEORAMA2014」はそのプレイベント。お世話になりつづけてきたバウスと最後に何かをやりたいと思った、その結果でもある。

 

 でも、なぜフェスティバルなど始めてしまったのか……たぶん、納得がいかなかったのだ、単純に。 だって、いま、「 アニメーション 」という言葉が抱かせるイメージは、自分を貫いた作品を想起させることがないから。 爆音映画祭について語る樋口さんが、昔、「義憤」という言葉を使っていたことがあった。 この言葉が僕自身のモチベーションと一番近いかもしれない。知られるべきものが知られていないことへの憤り。

 

 その感情のもと、僕はGEORAMA2014のためにプログラム選定を担当したわけだが、そのコンセプトは2つ。日本の他のイベントや映画祭には持ち得ない視点で世界からアニメーション作品を集めて、アニメーションの概念を広げようとすること。そして、アニメーション以外の他ジャンルとのコラボレーションを行うことによって、アニメーションという概念自体をはみだそうとすること。つまり、アニメーションの拡張と逸脱。でも、義憤なんてわざわざ感じなければよかったのかもしれない……かくして平穏な日々はさよなら、付随する諸々にヘロヘロになるところまで樋口さんを真似てしまうことになる……。

 

 GEORAMA2014のメインプログラムは「国内未公開長編アニメーションショーケース」。日本での海外アニメーション長編への冷遇は目に余るものがあって、秀作・傑作が未だ紹介されぬまま。このプログラムでは7本の長編を一挙に上映する。

 

 今回は、そこで上映する『コンシューミング・スピリッツ』について書こうと思う。この作品は、アメリカのアニメーション作家クリス・サリバンが、構想3年、制作12年をかけてようやく完成させた2時間を超えるアニメーション長編で、手法としては切り絵が中心だが、ドローイング、立体ジオラマも適宜組みあわせて使われる。アニメーション語りに技法についての言及はつきものだ。個人的にはそういう切り口は本質的な話とはあまり関係ないと思っているが(技術的なことはよくわからないし…)、『コンシューミング・スピリッツ』の場合は、それが特別な意味を持ってくる。メインの手法となる切り絵のアニメーションは、(作品タイトルをもじっていえば、)「魂(スピリッツ)」の存在を目の当たりにさせるようなものとなっているからだ。

 

 『コンシューミング・スピリッツ』の舞台はアメリカの片田舎。地元のラジオ局でガーデニングのコーナーを担当する60代のアール・グレイと、その娘で新聞局に勤める中年独身女性ジェンシャン・バイオレット、そして、彼女と交際する同僚のビクター・ブルー。物語の中心となる「色」とりどりの3人は(灰色と紫と青だから、なんとまあ地味な色たちだが)、寂寥感漂う小さなアメリカの田舎町で生きている。滞留した雰囲気漂うその場所こそが、彼らにとって唯一の世界だ。バイオレットだけは繰り返しそこから出たいと語るが、実際のところそれは夢の国に行ってみたいと言うようなもの。その町はまるでジオラマのよう。外部にも世界が広がっていることが、とても想像がつかない。その町は太古の昔から遥か未来までこの姿のままで永遠にこの場所に留まりつづけているようにも見える。何も変わらぬまま、ただ埃や疲労感だけを蓄積させていくだけで。バイオレットがある晩修道院の尼僧を轢いてしまったとき彼らの物語は大きく動きはじめるのだが、でもやはり、あらゆる激動は彼らの手の届く範囲内でしか起こらない。彼らには、彼らの範囲にある運命、彼らの範囲にある物語を生きる以外の選択肢は許されていない。

 

 彼らは彼らの生態系に自足する生物のようだ。『コンシューミング・スピリッツ 』は切り絵、立体、ドローイングと多彩な手法を組みあわせるが、「ハイブリッド」という言葉は似合わない。 それは、 彼らの住む世界のバイオリズムの内側におさまるグラデーションにすぎない。『コンシューミング・スピリッツ 』は音楽が本当に素晴らしくて、「ダニー・ボーイ」をはじめとする民謡やカントリー、フォークがたどたどしい歌われ方でかすれた録音で響き渡る。だが、それらの曲が歌う感情は、やはり、多彩というよりは悲しみや切望のバリエーションにすぎない。グレイ、ブルー、バイオレット……登場人物たちの色も薄暗いカラースケールにハマりこみ、彼ら自身も血縁/非血縁の一家族へとおさまる。これもまた、ひとつのもののバリエーション。

 

 だから『コンシューミング・スピリッツ』の登場人物たちは独立した個性の持ち主には思えない。でも一方で、短編アニメーションが得意とするような、記号化され匿名化された一様の人間像というわけでもない。そのあいまにある、もっと茫漠とした、揺れ動くなにかのように思える。たぶん、彼らは人間というよりもそのなかに潜む魂なのだ。人間としての可能性を老いや醜さに食い尽くされ、弱々しい光を貧しく放つ、痩せ細り、震える魂にまで削り取られてしまった状態の。

 

 『コンシューミング・スピリッツ 』のかすれた手描き ・手塗りのゆらめきや16㎜フィルムの撮影に由来する画面のざわめき、アナログ録音のブレやノイズ、それらすべての寄る辺なさは、拠り所のなくなった、でもその場で漂うしかない、彷徨う魂のための居場所をつくる。  『コンシューミング・スピリッツ』は物語的には実写でもよさそうなものなのだが、俳優ではなくて切り絵を用いる。たぶん、実在する人間、 とりわけ俳優は、 あまりにもその存在自体が強すぎて、 私たちはそのなかに魂の微弱な光を感じることができないからだ。太い輪郭線のドローイングでもダメだろう。 この映画が描く、か細くて今にも消滅しそうな存在感の人々には、ふとしたきっかけでバラバラになり存在をストップさせる切り絵こそが必要なのだ。

 

 そんな手法でクリス・サリバンが語るのは、弱々しい光を放つ魂にも、語るべき物語があるということだ。ただしその物語は他の誰をも巻き込まず、ただ彼らによって語られ、ただ彼らによって耳にされるのみ。彼らが何をしても、彼らがいてもいなくても世界はまったく変化しないし、世界のほうも彼らに関与するヒマはない。それでも、彼らは存在している。『コンシューミング・スピリッツ』のくすんだ色の世界には停留する雰囲気が漂っていて、ひとつの衝撃は、底に沈殿していた澱のようなものを舞いあげるだけだ。でも、いつかまたすべてが沈殿してしまうにせよ、元に戻るまでのそのゆったりとした時間は、グレイたちが自らの過去を再発見することを許す。彼らに許されているのは、自分たちの小さな物語を自分たちでできる範囲にかき集めて、それを生きる決意をすること。それが何か意味のあることなのかはわからないが、弱々しい光を放ち揺れ動く魂としての彼らは、『コンシューミング・スピリッツ』のラストでは、少なくとも自分で、自分の物語に納得することには成功するのだ。

 

 自分を納得させるための、小さな、自分だけのものでしかない物語。思えばそれは、アニメーションとは関係ないと思っていた自分の人生が大きく変わるきっかけとなったユーリー・ノルシュテインの 『話の話』の根本にある魂とも近いのかもしれない。 思えばあの作品も切り絵を使っているのだった。この連載はその時々に出会ったアニメーションの魂との触発や交流を、ときおり作家へのインタビューも交えながら、記していくものとなる。ノルシュテインとは6月にザグレブ国際アニメーション映画祭で場をともにすることになるだろうから、詳しくはそのときに。

 

※『コンシューミング・スピリッツ』予告編映像はコチラ

土居伸彰(どい・のぶあき)

短編・インディペンデント作品を中心に、数々のアニメーション作品の研究や評論を手掛ける。2010年に映像作家たちとレーベル「CALF」を設立し、上映活動やソフト製作も。4月12日(土)~25日(金)、アニメーション・フェスティバル「GEORAMA」のプレイベント「GEORAMA2014東京」が吉祥寺バウスシアターで開催。詳細は公式サイトで。