なぜか体調が悪いとより筆が進むというboid樋口泰人の妄想映画日記。今回は11月26日~12月2日までの日記をお届けします。この期間に観た3本の新作映画のほか、ディスクユニオンで行われた「アナログユニオンばか一代」の模様や、今月末で閉館になってしまう札幌の映画館・蠍座のこと、そして久しぶりに聴いた中山ラビさんの歌について――。

『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』




文=樋口泰人


11月26日(水)
アンドレイ・ズビャギンツェフ『エレナの惑い』

「戸惑い」かと思ったら「惑い」だった。オロオロするのではなく、もっとゆったりとしたというか、生きることの根底からやって来る迷いのようなもの。これまでも常にそれとともに生きて来たはずなのにいつも無意識の領域に追いやられていて、でもあるときもはや避けがたい重さをともなって、意識の上にせり出してくる。その惑いに対する答えは、もちろんない。主人公の夫婦の年齢が語られることはないが、60代半ばといったところだろうか。わたしより10歳ほど上の世代。何かを始めるにはもう遅すぎると誰もが思い、それどころかもうすぐやって来る死とどう向き合うかを考えざるを得ない年齢である。だからこその惑い。ああこれからもっとひどいことがやって来るんだなあと、映画というより単に自分の人生と比べて、ひたすら胸を痛める。その痛みが、この映画のロシアの風景に焼き付けられているということなのだろうか。だが映画の中の主人公たちより自分の実人生の方が悲惨だし激しすぎるほど貧乏だし、しかもこれだけ激しく働いた上でそんな状態で酒も飲めず荒くれることもできず胸と胃を痛めるだけ、という現実を目の当たりにしているところなので、感情移入はできない。20代の人たちが観たらどんな感想を持つのだろう?



11月27日(木)
フレデリック・ワイズマン『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』

観る、ということについての3時間。最初の1時間は、1枚の絵が抱えている歴史、物語について語られる。次の1時間は絵の表層と背後について。絵の修復とは何か、そしてその過程で見えてくる、絵の背後に隠されているものについて。そして最後の1時間は実際に絵を展示して見せるということについて。全編の底に流れているのは、それを支える資本について。あくまでもナショナル・ギャラリーで働く学芸員たちの解説や、訪れた人たちの表情を通してのみ、それらは語られていく。
ある学芸員は、その絵が訴えかける物語を、来訪者たちに語る。もちろんあくまでもそれはその学芸員が絵から受け取った物語に過ぎないのだが、しかし綿密な調査や研究の果てにたどり着いた物語でもある。1枚の絵の細部が語る声を丁寧に聴き(調査、研究)、そしてそれをひとりの人間がまとめることで物語が生まれる。それはほんとうにその絵が語っているように思えるし、まったく違う意図の元に描かれたものなのかもしれないとも思える。
別の学芸員は、絵画の修復について、上塗りされたワニスについて語る。それが修復のために過去に塗られたものなのか、オリジナル製作の際に塗られたものなのか、それによって修復のやり方も変わるし、判断がつかないこともある。それがあくまでも「オリジナル」の修復である以上、彼らはそれが描かれた事実関係や、置かれた場所、目的について考察し、それを元に修復のやり方を決める。また、ワニスを塗った上に修復を施した場合、次の修復のときワニスを落とす際に、今回の修復はすべて消えてしまう。そんな儚さについて。そして、1枚の絵をレントゲン撮影した際に現れてきた、その絵の奥に隠れていた絵がある。その秘密について語る。
あるいはまた、絵をどこに置くか、どんな絵とまとめて展示するか、展示場所の光をどうするか。それらによっても1枚の絵の見え方、受け取り方が違ってくる。まとめてみせることが大切なのだとひとりの学芸員は語る。展示された絵と絵が共鳴してそこに新たな物語が生まれるのだと言う。だからまとめ方や展示場所を変えると常に新しい発見があると。 この徹底した「観る」ことの追求は、それが「創造」であることも語る。もはやそこにいない人、失われたものを、彼らが生み出している。考古学者たちの遺跡の発掘作業と似ているともいえるが、更にその先に踏み込んでいるとも言える。事実だけではなく、その絵と作者と鑑賞者との関係の中で生まれて来る何かをも、彼らは扱っているのが分かる。もの凄く慎重に。わたしは当然のように、爆音上映のやり方と比べながら観ていた。



11月28日(金)
夜はアナログばか一代。今回はレコードストアデイのイヴェントの一環として、ディスクユニオンの主催。ユニオンで買ったレコードをわたしと湯浅さんが持ち寄って聴き、話すという趣向である。湯浅さん、このためにと言うかたまたまなのだが、2日ほど前に池袋のユニオンで40枚以上のシングル盤を購入。先ずはそれを次々に聴いていくという、買ってきたばかりのレコードを聴くのが嬉しくて仕方がない中学生状態。湯浅さんも、買ってから初めて聞くレコードがほとんどだが、もちろんそれらはかつて聴き馴染んだものたち。中学の時の記憶、高校の時の記憶、大学の時の記憶、そして卒業後の記憶など、とにかくそれらの音楽とともに無意識のそこに貼り付いていたいろんな記憶が蘇って身体中に充満する。歳をとるってこういうことだと実感はするものの、それがどうした。身体の表層に浮上した記憶とともに生きることの充実感は、他に替え難い。身体の中の時間が何倍にも膨れ上がる気分と言ったらいいか。わたしは今ここにいるだけでなくかつてのあそこにもこれからのどこかにもいる。そんないくつもの人生と一緒に生きている。そしてさまざまな場所や時間の中で生きているわたしの記憶の流入とともに、例えばそのときわたしが飼っていた猫や犬や、あるいは共に生きた人々の記憶も流入する。音楽を聴くとは、そんなさまざまな記憶や歴史を身体の中にいれることだと思う。アナログばか一代、改めて面白いなあと思った。来場されていた方たちは、あの3時間、どんな気分だっただろうか。



11月30日(日)
再び体調を崩す。うんざりであるが、とにかく食べ物を受け付けないのだから仕方がない。いろんなプロジェクトが動いている割に、爆音以外のどのプロジェクトも一向に稼いでくれないことのストレスでもある。まあ、相変わらず、ということでもある。でももう無理なので、とりあえずやめられるものからどんどんやめていくことにする。いずれ、爆音とそれに伴う配給とあとはboidマガジン、そしてアナログばかだけでなんとかという、大人気ない妄想が、いつものように噴出する。いずれにしても今決まっているもの以外の「モノ」はもう作らない。


12月1日(月)

菅原文太死す。映画の中で何度も殺されてきた人が本当に死んでしまった。わたしにとっては何故か、3.11以降の文太さんの姿の方が、映画の中の姿より強く心に刻み付けられている。主演映画はわたしにしては相当見たと思う。どれも大好きだった。でも、今は、最後の3年間。もちろんその3年間の姿に、映画の中の姿が2重3重に焼き付けられている、ということなのだが。
同時に札幌の蠍座閉館の知らせ。10年以上行っていなかった札幌に、今年は2回も行って新しい爆音劇場開設の準備をしていた。その時に挨拶に行こうと思いつつ、行きそびれたわたしの人間嫌いが恨めしいが、今更どうにもならない。何かの終わりは悲しみではなく怒りに満ちていると、以前何かの原稿で書いたことがある。自分がやってきた店や場所を閉じるということは、もの凄い決断のいることである。あっさり辞められる人はいない。そのとき、そうせざるを得なかったことに対する怒りのようなものが沸々と湧き上がる。そのエネルギーによってようやくそこを終わりにできると言ってもいいかもしれない。送られてきた閉館の挨拶を読んで、改めてそのことを思い出した。今年2回行っただけでこんなことを言うのはあまりに軽率かもしれないが、しかし2回行っただけでも分かるくらい、札幌での映画館経営は大変だ。とにかくもう、人が集まる所にしか集まっていなくて、その他の場所はすっかすか。その抜けた感じがわたしは好きで、ようやくここから何かが始まるのではと、変な希望さえ持つほど、荒涼とした印象を受けた。荒野に移った開拓民のような心境になった。しかし自ら進んで移り住む方はいいが、元々そこで暮らしていた人たちはたまったものではない。この何年かで、市内の映画館がいくつも閉館に追い込まれたと、そんな話も聞いた。
札幌の爆音は、今は札幌プラザ2.5という名称になっている3年前に閉館した映画館を使わせてもらう。近所のライヴハウスが閉鎖になり、それが丸ごとこの映画館に移り、しかも映画館の機材などはそのまま。上映もできる音も出せる、映写機とライヴハウスの機材をうまく繋げられれば爆音が行ける。こんな条件は他にない。という単純ゆえに強い理由でとにかくここで爆音を、と思い立ったのである。とは言え、とにかくまだいろんなことが未知数。ただすべての条件が整うことなどあり得ない。いつものように、まあ、やれば何とかなるという勢いで、決断してしまった。苦難の開拓が始まる。3年前に閉じた映画館ともうすぐ閉館する映画館と、その他閉館に追い込まれたいくつもの映画館の記憶とともに、爆音を響かせる、そんな荒野での爆音上映を。



12月2日(火)
ユッカ・カルッカイネン&J-P・パッシ『パンク・シンドローム』

一体どうして彼らはパンクバンドを結成したのか、始まりが語られることはない。だから終わりもない。知的障害者のバンドのドキュメンタリーということだが、楽器も演奏できるし、自分の考えもはっきり言えるし、人前でのパフォーマンスも堂々とできるし、すべてがわたしより上に見えてきて嫉妬する。彼らを支えているスタッフや家族とのやり取りをほとんど映さず(ひとりだけ、家族との対話のシーンがある)、基本的にバンド内の世界だけを映す、その選択がそんなことを思わせるのだろうか。彼らのすべてが当たり前に見えてくる。バンドの音は、通常わたしたちがパンクと認識する音楽より、少しだけ遅い。その遅さが、速さが落としてしまうものを拾い上げて、逆に風通しを良くする。バンドの音の遅さが語るものを捕らえたドキュメンタリーと言ったらいいか。ほんの少しゆっくり歩く、ほんの少しよそ見する、ほんの少し余計なことを言う。



深夜にちょっとした偶然で、本当に久々に中山ラビに出会う。いや、YouTubeで。中学の終わりから高校時代は、彼女のおかげで多くの音楽に出会った。彼女がカヴァーした曲や影響を受けた曲が彼女の歌から競り上がってきて、後に原曲に出会った時も遠い昔に共に生きた懐かしい人と再会した、奇妙な喜びを感じた。そして今夜は逆に、彼女と再会した。時間が歪む。遠い未来、またこんなふうに出会って、お互いのやってきたことを確認し合う。もちろん互いに面識はないまま。とりあえず、今の彼女。高校の時の愛聴曲ふたつの今。

「人は少しずつ変わる」


「昔の知恵は今滅びてく」




エレナの惑い Elena
2011年 / ロシア / 109分 / 配給:アイ・ヴィー・シー / 監督・脚本:アンドレイ・ズビャギンツェフ / 脚本:オレグ・ネギン / 出演:ナジェジダ・マルキナ、アンドレイ・スミルノフ、エレナ・リャドワ
12月20日(土)、ユーロスペースほかにて公開 全国順次ロードショー



ナショナル・ギャラリー 英国の至宝 National Gallery
2014年 / アメリカ、フランス / 181分 / 配給:セテラ・インターナショナル / 監督・編集・録音:フレデリック・ワイズマン / 出演:ナショナル・ギャラリーのスタッフ、エドワード・ワトソン、リアン・ベンジャミン
2015年1月17日(土)よりBunkamuraル・シネマほか全国順次公開



パンク・シンドローム Kovasikajuttu
2012年 / フィンランド、ノルウェー、スウェーデン / 88分 / 配給:エスパース・サロウ / 監督:ユッカ・カルッカイネン、J-P・パッシ / 出演:ペルッティ・クリカン・ニミパイヴァト(ペルッティ・クリッカ、カリ・アールト、サミ・ヘッレ、トニ・ヴァリタロ)
2015年1月、シアター・イメージフォーラムほか、全国順次公開



樋口泰人(ひぐち・やすひと)
boid主宰。映画批評家。12月19日(金)~23日(火・祝)に爆音映画祭in 福岡を福岡市・天神の西鉄ホールで開催。来年1月12日(月・祝)には静岡Freakyshow で『ストップ・メイキング・センス』の爆音上映。また1月16、17日(金、土)に広島クラブクアトロで、23、24日(金、土)に札幌プラザ2・5 で『皆殺しのバラード』『バイオフィリア・ライヴ』『ストップ・メイキング・センス』の爆音スクリーニングも。