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2015年05月号 vol.1

サミュエル・フラー自叙伝抄 第2回 (遠山純生)

2015年09月06日 03:20 by boid
2015年09月06日 03:20 by boid
boidでは12月に、遠山純生さんの翻訳による映画監督サミュエル・フラーの自伝『サミュエル・フラー自伝 わたしはいかに書き、闘い、映画をつくってきたか』(原題”A Third Face:MyTale Of Writing, Fighting, And Filmmaking”)を刊行予定です。そのイントロダクションとして、先月から5回に渡ってその自叙伝の一部をboidマガジンの読者の方だけに先行公開しています。第1章に続き、今回は、「頭から先に飛び込む」と題された第2章を公開!
【お知らせ】今年のぴあフィルムフェスティバルにてサミュエル・フラーの特集上映が行われます。併せてご期待ください。


※各回へのリンクはこちら↓
【第1回】 【第3回】 【第4回】 【第5回前編】 【第5回後編】





著=サミュエル・フラー
訳=遠山純生


 以下に訳出するのは、2004年に原著が刊行されたサミュエル・フラーの自叙伝”A Third Face:My Tale Of Writing, Fighting, And Filmmaking”第2章の全文。1910年代前半に生まれて人生の大半を20世紀と並走したこと、十代で新聞記者となったこと、自身の真実探求志向、物語作りに対する情熱、映画界での経験、民主主義への敬意および反民主主義者への軽蔑などが一見脈絡なく、だが面白おかしく語られる。「失敗を恐れず頭から飛び込むこと」を繰り返した生涯を猛スピードで回顧し、何かに挑もうとする読者へ向けて力強い励ましの言葉をかける章。(訳者)




第2章
頭から先に飛び込む


 わたしは1912年8月12日、マサチューセッツ州ウースターに、ポーランド出身のレベッカ・バウムとロシア出身のベンジャミン・ラビノヴィッチの息子サミュエル・マイケル・フラーとして生まれた。このときわたしの両親は、すでに自分たちの名字をラビノヴィッチからもっとアメリカ風に聞こえるフラーに変えていた。たぶん、1620年にメイフラワー号に乗ってやって来たベンジャミン・フラー医師から思いついた名なのだろう[訳注]。17世紀といえば、まだ医師たちが患者の病を治すには瀉血するのが良いと考えていた時代だ。名字を拝借するにあたってわが両親に示唆を与えたはずの、もっと洗練された同時代の"フラー”たちがほかにも大勢いたというのに。とはいえ母は、つらいニューイングランドの冬がもたらす苦難を耐え抜いてプリマス植民地を創設したあの101人のピルグリムたち──アメリカに定住した最初のヨーロッパ人たちだ──のことをすさまじいばかりに賞賛していた。おそらくレベッカは、自分のことを現代のピルグリムだと考えていたのだろう。彼女は自分の子どもたちに、アメリカン・ドリームのなかにしっかりと埋め込まれた姓を名乗らせたかったのだ。わたしが大の歴史好きになったのも、母のおかげである。
 わたしが生まれた年、帝政ロシア皇帝ニコライ2世の過酷な支配下にあった父の故国では、大量の血が流された。彼の息子で王位継承者アレクセイは、血友病と診断されていた。ニコライとその妻アレクサンドラ皇后は息子の治療法を見つけ出そうとむなしい試みを繰り返すうち、にせ医者やら宗教的狂信者、特にシベリアの祈祷僧グリゴーリィ・イフィーマヴィチュ・ラスプーチンのえじきとなった。1912年、中国が共和国[中華民国]となり、合衆国がニューメキシコとアリゾナを連邦に編入し、タイタニックが沈み、ロバート・ファルコン・スコットが南極に到達し、ルートヴィヒ・ボルハルトがエジプトの霊廟で不朽の素晴らしさを誇るネフェルティティ王妃の彩色された石灰岩製頭像を発見し[実際には彫刻家トトメスの仕事場から発見された]、アイザック・K・ファンク博士とアダム・W・ワグナルズ博士が最初の『ファンク&ワグナルズ標準百科事典』を刊行した。
 "映画(ムーヴィー)”なる言葉が表現するがごとく、人間たちはものごとを動かす(ムーヴ)。そう信じながらわたしは育った。映画(ムーヴィング・ピクチャー)のように、世の中は前進している(ムーヴィング・フォワード)、と。わたしも前進したかった。わがはやる心と俊足に負けないぐらいのスピードで。それにまた、わたしは真実の存在を信じながら大きくなった──"真実”という言葉そのものを信じていただけではない。真実に到達することはひとつの崇高な目的だと深く確信していたのだ。いつだって相手に本当のことを言わずにはいられなかった。そうすることで、彼らが侮辱されたように感じたとしても。相手のことを気にかけるあまり、うそをつけないのだ。彼らが本当のことを言われて感情を害したとしても、わたしがそのことを気にして時間を無駄にする必要はなかろう。若い映画監督が自作脚本に関する助言を求めてわたしのところにやってきたときにも、何ら手心は加えない。とりわけその脚本が、書かれ過ぎの場合には。「きみの脚本はペチャクチャしゃべり過ぎだ」と言ってやる。「頼むからアクションを見せてくれ。アクションを描写するんじゃあなくて! きみが作っているのは映画(モーション・ピクチャー)であって、ラジオショーではないんだからな。感情(エモーション)を伴った映画(モーション・ピクチャー)なんだから、登場人物が心から話をしているようにダイアローグを書くんだ」と。
 「でもサム、予算のことが心配なんです」と青二才。
 「脚本を執筆するときにはカネのことなど気にするな。そんなもの後から心配すればいい」。
 わたしは本当のことを言うのがなにより大事だと考える世代に属している。人間の正直さをめぐっては、自分はいまだにかなり無邪気だなと思う。ジェイムズ・キャグニーがその主演映画の一本で口にした言葉「握手しながら相手の目をまっすぐに見つめれば、万事うまくいく」をいまだに信じているのだ。
 自分の人生を物語るとはすなわち、真実を直視することだ。晩年に入ったというのに、どうしてわたしはわざわざそんなことをしようとするのか? 勝算はどうあれ、ほかの人々に自分の夢を追う希望と勇気をもたらすことができればと思えばこそである。人生は危険だ。映画産業みたいなものなのだ。美酒もあれば毒もあるし、狡猾でもあれば貪欲でもあり、理想主義と裏切りと友愛と重労働が一つに混じりあっている。大当たりを取ることもあれば、失敗することもある。成功する保証などないけれども、人生においても映画作りにおいても、元気と忍耐力とユーモアのセンスがあれば困難にめげずがんばり続けることができる。
 わが生涯の物語は、とりわけ若き映画作家たちを励ますことになると固く信じている。人を食い物にするサメのような連中がはびこる映画産業でなんとか生き延びようと、懸命になっている彼らのことを。こうしたサメどもですら、映画作家を取り巻いている何人かの偽善者や寄生虫どもよりはまだしも尊敬に値するのだが。真の創作者たちを搾取しだましているくせに、高尚な理想と芸術的感受性を看板にする連中がうようよしている産業なのだ。映画産業を堕落させたのは、大予算である。アメリカにおいては、"芸術家(アーティスト)”という言葉は決して映画作家に帰せられることがない。彼あるいは彼女の最新作が、切符売り場でとてつもない数の入場券を売りさばかない限りは。そうなったら"A”級監督になれるわけだが、その頭文字は"芸術(アート)”とはなんの関係もない。カネに関わりがあるだけだ。
 とはいえ、いつもこんな調子だったわけでもない。ロバート・リッパート製作で『地獄への挑戦』(49)を作ったとき、われわれは握手して取引をまとめた。リッパートはわたしが作った物語を気に入ってくれたからだ。映画製作は徹底した商売ではあるのだが、大きな収益をあげることだけがその動機となっていたわけではない。ようやく自分の契約書を目にしたのは、それから半年後のことだ。『地獄への挑戦』がリッパートに予期せぬ儲けをもたらしたので、わたしは彼のことを思って嬉しかった。リッパートはかつて合意に達した条件通りに、収益をわたしと分け合った。経済的に成功したおかげで、彼はわたしやほかの監督たちともっと多くの映画を製作することができるようになったのだ。
 いろいろと障害があったとしても、情熱的で立派な芸術家ならいつだって良いストーリーを優れた映画にすることができる。何人かの若い連中──新世代の脚本家兼監督たち──と近づきになった。マーティン・スコセッシ、ジョナサン・デミ、ピーター・ボグダノヴィッチ、カーティス・ハンソン、ヴィム・ヴェンダース、ミカ・カウリスマキ、アレクサンダー・ロックウェル、ティム・ロビンス、クエンティン・タランティーノ、ジム・ジャームッシュ等々といった連中と。かつて脚本執筆に関するわたしの助言を聞いて、ジャームッシュが爆笑したことがあった。ただしわたしは大真面目だったのだが。「最初の二場面か三場面で勃起できないようなストーリーなら、ごみ箱に捨てちまえ」というものだ。陳腐な言いぐさではあるけれども、こうした若い映画作家たちのことみんなを愛しているし、彼らが成功し続けることを願っている。
 不況時代であっても、わたしは物語を書くことをやめなかった。物語執筆に取り組んでいると心底興奮してきて、つらい思いをしたり憂鬱になったりしないで済んだ。ちくしょう、あと100年生き続けてオリジナルのお話をたっぷり考えだし、それが映画になった暁にはまだまだ観客のきんたまをひっつかんでやれそうだぞ!
 わたしの話しぶりを面白がる者もいれば、困惑する者もいる。ウースター出身であるおかげで、鼻にかかった声を出すうえにニューイングランド訛りがあるのだ。ニューヨークにおけるわが形成期が、すべてを変えてしまった。わたしはティーンエイジャーの頃に葉巻を吹かし始めた。だから、口の端に葉巻を休みなく咥えている状態で言葉をはっきりと発音できるようになる必要があったのだ。その頃わたしはいわゆる"安物(トゥーファー)”を吹かしていた。2本5セントで買える[1本ぶんの値段で2本買える]から、こう呼ばれていたのだ。ジーン・ファウラーやデイモン・ラニアン、リング・ラードナーといった年季の入ったジャーナリストたちはわたしのことを気に入って、時々ハバナ葉巻をそっと渡してくれた。そしてそれと気づかぬうちに、彼らが使う大都会特有の率直な俗語を身に着けてしまったのだった。生まれつきせっかちなわたしは、この口早な土地言葉を使えば時間の節約になることに気づいた。それに、ニューヨークの非情な街なかでしょっちゅう交際していたおまわりや消防士、ポン引きや売春婦、バーテンダーやノミ屋や地下鉄の両替屋に自分のしゃべっていることを理解させるには、こうした言葉を使うしかなかったのだ。信じてもらいたいのだが、われわれはバルザックをめぐって討論していたわけではない。
 書くことは常に、わたしにとって第一の天職であり続けた。子どもの頃から、印刷された言葉の持つ力に魅了されてきたのだ。わたしは故国のいしずえ──独立宣言と合衆国憲法──を賛美してやまない者である。というのも何よりもまず、この二つの文書は実によく書けているからだ。パンチの効いた散文を書く能力とニュースに対する嗅覚のおかげで、わたしは騒々しくあふれるような活気を呈する1920年代のマンハッタンで十代にして新聞記者の職を得た。自由契約の記者として勤めた後、わたしは1930年代にカリフォルニアへ出て、試しに映画向けのストーリーを執筆してみることにした。名匠たち──トウェイン、ドストエフスキー、ディケンズ、ゾラ──から霊感を受けて、わたしもフィクション執筆の腕試しに乗り出し、長年かけて全部で10冊ほどの本を書き上げた。
 アメリカ人たちが新聞、雑誌、書物を通じて自国について学んでいた時代に、わたしはジャーナリズムの世界に足を踏み入れた。テレビがその公平なる即時性をひっさげて到来し、われらが社会のあらゆる局面にとてつもない影響を与えた。その影響は、残念ながら予期されたほどには民主主義に恩恵をもたらさなかったように思う。元イスラエル首相シモン・ペレス[その後2007年から2014年にかけて同国大統領に就任]は、テレビの良い面は独裁制を不可能にすることで、悪い面は民主主義を耐えがたいものにすることにある、と言った。コンピュータが可能にした最新式高速コミュニケーションは、その本当の価値をたった一つのことを通じて判定される。民主主義に貢献できるかどうか、だ。
 ほかの何を差し置いても、わたしは民主主義者だ。民主主義こそは、この地球上において人々が従って生きていくには最高のシステムなのだと固く信じている。わたしは民主主義のために闘ってきたし、反=民主主義者ども──いんちき愛国者だろうが、人種差別主義者だろうが、暴力団員だろうが、ファシストだろうが──の欠点を暴く映画を作ってきた。わたしの映画の一本『パーク・ロウ』は、19世紀末に現代アメリカのジャーナリズムが誕生する様子を描いている。出版の自由こそは、民主主義──どのようなかたちのものであれ──の本質的構成要素である。出版の自由は憲法修正第一条で守られているのだが、この国のいたるところにいる勤勉な新聞記者や新聞編集者のおかげで息づいているのだ。
 わが長きにわたる人生は、何人かの忘れられない人物やきわめて重大な激変の数々と相交わりながら、20世紀の大半と並走している。同僚のアメリカ人たちが、最高の状態にあるときも最悪の状態にあるときも目にしてきた。彼らの意気込み、勇気、利口さもそうだが、業界全体がまったくもって驚くべきものだった。とはいえ、わたしが生きてきた時代には、破壊的な二つの世界大戦、貧困と無知、人種と富に基づく社会的亀裂、クー・クラックス・クラン[KKK]のような精神病質的で憎悪に満ちた集団、政治的魔女狩りをする連中や宗教的狂信者たちが編み込まれている。わたしにとって、偏見や憎悪をかき立てる連中であるとか反動主義者の類は、最も忌まわしい人間であり、偉大なる民主主義の目に刺さった棘に等しい存在だ。こういう手合いは世代に関係なくいる。こいつらと闘い、打ち負かしてやらなくてはならない。
 歴史とそれが与えてくれる啓示に対する情熱は、決して失ったことがない。それに、楽観主義を見失ったことも決してない。長らくハリウッドの端っこで生き続けながら、わたしは物理的にも精神的にも今日にいたるまでよそ者(アウトサイダー)のままだ。人生に関してはどうだったかといえば、わたしはいつだって失敗を恐れず頭から飛び込むことを繰り返してきた。
 わが個人史を物語る理由が一つあるとするなら、自分の人生経験を通じて、読者諸氏よ、若きあなた方あるいは気が若いあなた方をなんらかのかたちで鼓舞することができればと思うからだ。そうなることで、あなた方が成し遂げたいと思っていることを全身全霊かけてやり通す励みになればと思うのである──あなた方の夢が、他人の目にはどれほど狂ったものに映ろうと。そんなことできっこないなどと抜かす懐疑的な連中やいやな奴らに、あなた方は打ち勝つことができるだろう。本当だ。


訳注
1620年に北米大陸の地を踏んだピルグリムの一員で、病気に罹った入植者に出血による治療を施した(教会)執事兼医師の名は、実際には「ベンジャミン・フラー」ではなくまさしく「サミュエル・フラー」である。






サミュエル・フラー Samuel FULLER
1912年8月12日、マサチューセッツ州ウースター生まれ。本名はSamuel Michael Fuller。新聞記者、小説家、映画脚本家などを経て、1949年に『地獄への挑戦』で監督デビュー。ジャーナリスティックな感性や第二次大戦従軍経験を活かし、常に脚本も兼任した監督作がとりわけフランスを中心に高く評価された。代表作に、『鬼軍曹ザック』(51)、『東京暗黒街・竹の家』(55)、『四十挺の拳銃』(57)、『ショック集団』(63)、『裸のキッス』(64)、『最前線物語』(80)、『ホワイト・ドッグ』(82)、『ストリート・オブ・ノーリターン』(89)などがある。パルプ小説的物語に、強烈な暴力描写・登場人物の心理探究・社会的不正に対する抗議を織り込んだ独特の低予算娯楽作品を数多く手がけている。『気狂いピエロ』(ジャン=リュック・ゴダール、65)、『ラストムービー』(デニス・ホッパー、71)、『アメリカの友人』(ヴィム・ヴェンダース、77)、『1941』(スティーヴン・スピルバーグ、79)など、俳優としての仕事も多い。1997年10月30日死去。


遠山純生(とおやま・すみお)
1969年愛知県生まれ。映画評論家・編集者。代表的な編著作に『紀伊國屋映画叢書① イエジー・スコリモフスキ』『紀伊國屋映画叢書③ ヌーヴェル・ヴァーグの時代』(以上、紀伊國屋書店)、『ロバート・オルドリッチ読本①』『マイケル・チミノ読本』『イエジー・スコリモフスキ読本』(以上、boid)などがある。また翻訳書に『私のハリウッド交友録』(ピーター・ボグダノヴィッチ著、エスクァイア マガジン ジャパン)、『ティム・バートン』(マーク・ソールズベリー編、フィルムアート社)、『ジョン・カサヴェテスは語る』(レイ・カーニー編、幻冬舎/都筑はじめとの共訳)など。自身のHP『mozi』にて、映画をめぐる諸論考を発表。


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