今回の映画川はライターの降矢聡さんが、今週末から公開される『トゥモローランド』(ブラッド・バード監督)について書いてくれました。ディズニーランドのテーマエリアとしても知られる「トゥモローランド」、この映画でそれは"すべてが可能になる場所”として描かれます。そんな場所の存在を登場人物たちに、そして彼らの姿を通して私たち観客に信じさせるためにどのような方法が取られているのでしょうか。
※この記事は読者登録されていない方もご覧いただけます




文=降矢聡


 世界を救うには未来への憧れ、夢、希望を持つことだ、と謳い揚げるディズニー製作の『トゥモローランド』の鍵はずばり、"すべて”が可能となる理想都市トゥモローランドの存在を登場人物はもとより、映画を見る私たちにも信じさせることが出来るかどうかに掛かっている。
 『トゥモローランド』は現在の時点からジョージ・クルーニー(子供時代はトーマス・ロビンソン)演じるフランク・ウォーカーと、ブリット・ロバートソン演じるケイシー・ニュートンの二人が、理想都市トゥモローランドの体験について語るという形で展開する。父と娘ほど年代が離れた二人によって物語られることで、テクノロジーに対する時代の感受性の差が見えてくる趣向だ。
 フランクがトゥモローランドを訪れることになるのは1964年、ニューヨーク万博でのこと。テクノロジーの発展が希望に満ちていた時代だ。フランク少年は、自作のジェットパック(個人用の空飛ぶ装置)を携えて万博会場で開催される発明コンテストにやってくるが、まだ未完成で上手く空を飛ぶことができない代物ではコンテストの参加は認められない。しかしフランク少年を気に入った謎の少女に導かれるようにして、彼はトゥモローランドへと訪れることになる。その"すべて”が可能となる理想都市では、地面を擦りながら水平方向にしか動かなかった未完成のジェットパックが見事垂直方向に一気に舞い上がる。もとの世界とトゥモローランドの違いをジェットパックの"運動”で表していることは映画的で鮮やかな解決方法だ。
 "すべて”を表現するためには事象の総和ではなく、飛躍が存在しなければならないだろう。一つ一つの事象をどれほど重ねても決して"すべて”には至らないからだ。0°から90°への思い切りの転換がここでの飛躍だ。どれほど伸ばしても決して交わることのない水平と垂直という両極。そこに広がる無限の間隙を一挙に踏破する様を"運動”として可視化させることが、"すべて”に到達させる飛躍になることをブラッド・バード監督は心得ている。水平から垂直へ。もっとも単純だが最大限の振れ幅を持つアクションが炸裂する光景に目を奪われるとき、私たちはジェットパックを身につけて縦横無尽に駆け巡るフランク少年とともに、彼と同じ興奮を抱きながら「トゥモローランドでは"すべて”が可能となる」と一息に感得するだろう。それは、トゥモローランドの造形をあたかもすべてが可能となるような超ハイテク都市として見せるより、私たちにトゥモローランドの存在を強烈に信じさせる。

 しかし世界はトゥモローランドのようにはならなかった。キノコ雲が落書きされた壁が映し出されるショットから始まるもう一人の語り手、ケイシーの舞台は21世紀の現代だ。いまやテロリズム、環境破壊、経済危機など世界の終末を喧伝するビジョンが日常に溢れ返っている。NASAの宇宙探査の打ち上げも終わりを迎え、解体作業が進行中だ。そんな現在にあっても希望を捨てないケイシーは、謎の少女から知らぬ間にからトゥモローランドの鍵となるピンバッチを渡される。そのバッチに触れると、一瞬にして景色が一変する。そしてケイシーは突如彼方にトゥモローランドが聳える小麦畑に降り立つことになる。
 面白いのは、ケイシーとトゥモローランドの奇妙な描かれ方である。ケイシーはその光景の中に存在しているようでありながら、しかしトゥモローランドへと瞬間移動したわけではなく、ケイシーの身体はあくまで現実世界にいるのだ。その光景には壁がなくとも、現実世界に壁があるところでは頭をぶつけ、階段があるところでは、地面を踏み外し転げ落ちてしまうという具合に。ここでのトゥモローランドは、あくまで現実に投射されたイメージでしかないように描かれている。現実世界に超高性能マッピングされたトゥモローランドが重なり合う。現代における世界とテクノロジーの融合だ。しかし、世界は二重化されながらその有り様を同時に感知することができない。つまり二つの世界に対して視点、視界は一つしかないと言ってみてもよい。
 現実の空間に阻まれ、なかなかトゥモローランド(のイメージ)へと到達できないケイシーは、もとの世界に戻って自転車に乗り飛ばし、だだっ広い原っぱまで来てようやくトゥモローランドに入り込むだろう。

 こうしてケイシーとともに私たちが訪れる二度目のトゥモローランドは、フランク少年と訪れた体験とは異なる感覚を味わわせることになる。人々が空を飛び、画面の上下左右、手前に奥に伸びるレールの上を未来的な乗り物が様々に行き交う様子を念入りに作り込む画面には、理想都市の躍動が十全に表現されているといってよい。そしてその地を歩くケイシーは、都市のあらゆることに目と耳を奪われる。フレーム外からの音に敏感に反応し、ふいに音の鳴る方向を向くケイシーの視線の先をフォローするように、カメラがケイシーの身体と連動する。ケイシーはゲート、ドア、トンネルと様々な境界をくぐり抜ける。それら境界を継ぎ目なくワンカットで撮りきることで描き出されるシームレスな空間の自由さは、現実の空間に阻まれていた先ほどの不自由さによってより強調されるだろう。二重の空間を一つの視点で歩むことの困難さは完全に消え去り、空間と視点がぴたりと歩調を合わせることで、どこまでも流麗なケイシーの足取り。
 その歩みが行き着く先はスペースポートだ。ケイシーの夢である宇宙までをもシームレスに繋げていくのだ、と思った矢先、ケイシーの足取りは突如重くなる。そしてトゥモローランドの光景は宇宙船に乗り込む直前に消え去ると、そこは現実世界の泥沼だ。イメージに魅入られ導かれたケイシーの姿が、あたかも入水自殺を思わせる姿に切り替わるのだ。
 ここに至るまでの複雑な空間把握とその表現技術の達成は見事なものだ。しかし、その見事さゆえに、あまりにも計算されつくされた空間と動きゆえに、トゥモローランドを信じる、というより信じ込まされた、という印象がどこかつきまとうだろう。ケイシーの"運動”は、あくまで"視線”を誘導するもの、あるいは逆に"視線”に踊らされた"運動”でしかなかったとも言えるかもしれない。そのことを突然トゥモローランドの光景が泥沼へと変わり、"運動”が鈍くなることで視界が変わる、これまた見事な展開によって気付かされる。極めてクリティカルな瞬間だ。

 この見方によってはあまりにも精巧で不吉なイメージを、この映画はあえて「CM」と素っ気なく言い表すことも忘れないだろう。にもかかわらずケイシーはこれらの出来事をどこまでも夢の体験とポジティブに捉え、イメージを信じ、実際のトゥモローランドを目指すことになる。
 トゥモローランドを信じ込む一方で、終末的ビジョンを日々見せつけられているために、本当に世界がそのように進行してしまっている現状を、ケイシーはのちに「洗脳」という言葉を持って糾弾する。落書きされたキノコ雲の光景は、ほどなく実現するだろう。反トゥモローランドの現代に対するこの「洗脳」という言葉は、しかしケイシーの夢のような体験とほとんど同一の事柄だ。見事な達成ゆえに、信じる/信じ込まされていることの二重化された泥沼の迷宮に、この映画そのものがはまり込んでいる。
 そこで『トゥモローランド』は、泥沼からの脱出法を「プルス・ウルトラ(もっと先へ)」と謳う。夢みること、信じることに賭けていく。それはつまり、信じる/信じ込まされているという泥沼の領域を、信じる内容(夢を信じるか、終末論を信じるか)へと巧みに変奏する。泥沼の中でズブズブになっていく多くの(誠実な?)思考を尻目に、「プルス・ウルトラ(もっと先へ)」という魔法の言葉は、泥沼を再度さらりと黄金色の小麦畑へと変えるだろう。
 映画はイメージに魅入る人物たちを執拗に描いてきた。数え上げれば切りがないが、例えば二つの世界を同時に見ることを描いた『デジャヴ』がある。『トゥモローランド』は、その系列に属する最新バージョンであり、近年でいえば『アメリカン・スナイパー』や『さらば、愛の言葉よ』へと連なる(二重化された)世界の、魅惑的で不吉なディズニー式ビジョンだ。


トゥモローランド Tomorrowland
2015年 / アメリカ / 130分 / 配給:ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン / 監督:ブラッド・バード / 脚本:デイモン・リンデロフ、ブラッド・バード / 出演:ジョージ・クルーニー、ブリット・ロバートソン、ヒュー・ローリー、ラフィー・キャシディ
© 2015 Disney Enterprise,inc. All Rights Reserved.
6月6日(土)、全国ロードショー



降矢聡(ふるや・さとし)
早稲田大学芸術学校非常勤講師、映画ライター、シナリオライター。未公開映画紹介サイト GUCCHI'S FREE SCHOOL 共同運営。