boidマガジン

2015年07月号 vol.1

サミュエル・フラー自叙伝抄 第4回 (遠山純生)

2015年09月06日 03:27 by boid
2015年09月06日 03:27 by boid
boidでは12月に、遠山純生さんの翻訳による映画監督サミュエル・フラーの自伝『サミュエル・フラー自伝 わたしはいかに書き、闘い、映画をつくってきたか』(原題”A Third Face:MyTale Of Writing, Fighting, And Filmmaking”)を刊行予定です。そのイントロダクションとしてその自伝の一部をboidマガジンの読者の方だけに先行公開。今回は「マンハッタンの探検家」と題された第4章をお届けします。

※各回へのリンクはこちら↓
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著=サミュエル・フラー
訳=遠山純生


第4章
マンハッタンの探検家



 1920年代初頭のニューヨーク市は、11歳だったわたしの眼には人間版"蜂の巣”みたいに映った。街にいるといたるところで精力的にせわしく動く人々に駆り立てられたし、果物や野菜の露店がぎっしり並んだ歩道では多数の異なる言語が話されていたし、行商人たちが叫んでいたし、玉石を敷いた通りではタクシーや2階建てバスや荷馬車が有利な場所を占めようと画策していたし、足もとでは地下鉄がうなり、頭上では高架線列車が行き交っていたのだ。初めてのニューヨーク探検は、刺激的であると共に不安に満ちたものだった。あたかも自分が異国の土地を発見するヴァスコ・ダ・ガマであるかのようにして、街のさまざまな場所をあちこちぶらついた。そして、さんざん道に迷った。ある警官が、ストリートには番号がふってあるし、アヴェニューは南北を走っているのだから迷いようがないのだと教えてくれるまでは。ニューヨークは、わが頭を期待でくらくらさせた。
 一家は、母が見つけたアパートへと移り住んだ。ハドソン川からほど遠からぬ場所にある、アッパー・ウェスト・サイド──172丁目──の質素な地域にあるアパートだ。自分の役割を果たして家族を援助するべく、われわれはみんな仕事を見つけた。ヴィングはある新聞社のアシスタント・デザイナーとして働いた。女の子たちは、掃除婦や子守り。トムは服地屋でレジ係を務めた。わたしはまず、それほど大きくないホテルで毎週末ベルボーイとして働いた。この宿泊施設の評判はあまり芳しいものではなく、得意客は地方回りのセールスマン、休暇中の船乗り、一発当ててやろうと街に滞在する賭博師、殿方の友人と過ごすために部屋を数時間借りたご婦人であった。母にはホテルでのできごとや、その多彩な顧客に関する詳細を話すのを控えた。あの仕事に就いたことは、驚くべき経験であった。
 それ以前には、さまざまな社会階層の存在を意識したことなどなかった。ところが突然、その社会階層に顔をピシャリと打たれたのだった。われわれ一家は、ハドソン川を望むなかなか優雅なアパートから数ブロック離れたところに住んでいた。そのアパートの屋根つき玄関の前には昼夜を問わずドアマンたちが立っていて、立派な服を着た人々が彼らの大きな車にすべるように乗り降りするのを手伝っていた。その光景を目にして、初めてガツンとやられたような感じになった。優雅なアパートの住人たちは、安ホテルの部屋を借りる連中や、ほかの労働者階級の人々と一緒に職場へ急ぐわが兄弟姉妹の住む世界とは、違う世界に生きる人間であることに衝撃を受けたのだ。
 学校からの帰り道で雨が降っていた場合、自宅アパート近くの地下鉄駅を出たところで大きな傘を携えて待ち、通勤者たちにその傘を差しかけて彼らの玄関先まで随行することで副収入を得た。ちくしょう、傘はわたしより大きかったのだ。玄関到着時に、その人たちは数セント(ペニーズ)をくれた。場合によっては5セント白銅貨(ニッケル)をくれることもあった。帰宅すると、わたしは得意になって自分の稼ぎをすべて母に手渡したのだった。1セントに至るまで、一家がやりくりする助けになった。
 あの頃はありとあらゆる年齢の子どもたちが、繁華街で新聞の売り子をやっていた。この商売に関しては、すでにウースター時代にいくらか経験を積んでいたので、街なかである少年に尋ねてみた。売り子になって"新聞売り子(ニュースボーイ)”と記された公認の木製バッジを手に入れるには、どこに行けばいいのか、と。
 「パーク・ロウ[訳注1]さ」とその子は言った。
 その場所については耳にしたことがなかったけれども、「パーク・ロウ」の名称が頭のなかで響きわたった。翌日の午後に学校が終わった後、中心街で地下鉄に乗った。パーク・ロウ近くの駅で降りると、頭上にそびえ立つ巨大なウルワース・ビル[訳注2]を見上げた。光り輝く尖塔、到達不可能な絶頂を。キャス・ギルバート設計による、ゴシック調装飾を施した屋根を備えるこの優美な高層建築は、それまでにお目にかかったなかで最も美しい建造物であった。わたしは道を尋ねるために文房具店に入った。
 店内で売られている各種新聞を眺めながら、店員に「ニューヨークでは毎日何種類の新聞が刊行されているんですか?」と聞いてみた。
 「11紙だよ」と店員。
 「11紙か」畏敬の念を覚えながらわたしは繰り返した。
 「しかもそれぞれの新聞が数種類の版を出している」と彼は誇らしげにつけ加えた。
 わたしはパーク・ロウ──ブルックリン橋からそう遠くないところにある、マンハッタンにおける新聞ビジネスの中心地──へ行くことができた。ひとつの場所にいちどきに、あれほど数多くの新聞紙が積み重ねられているのを目にしたことはなかった。子どもたちがいたるところにいて、自分に割り当てられた数の夕刊を取ると、街へと売りに出る。すっかりくつろいだ気分になった。ある男がわたしと雇用契約を結び、木製の"新聞売り子”バッジのひとつをくれた。ポケットに持っていた小銭を使って、わたしは1部1セントで日刊紙を5部買った。地下鉄で戻って、グランドセントラル駅近くの街角を売り場に決める。何が起こったのかと思う間もなく、新聞は1部2セントで全部売れてしまった。そのとき以来、毎日午後に学校が終わるとパーク・ロウへ向かうべく中心街へと急ぎ、ショルダーバッグのなかに運べる限りの日刊紙を入れた。街角ならどこであっても、新聞を売るにはもってこいの場所だったものだ。売り切れると家に駆け戻って母に売り上げを手渡し、夕食をとって、兄弟たちと一緒に寝ているベッドへと倒れこんだ。  ある日のこと、パーク・ロウで働いている子から、タイムズ・スクエアの中心である42丁目とブロードウェイの街角で新聞を売ってみたらどうかと提案された。彼が言うには、君ならすぐに新聞を売り尽くしてしまうだろうとのことだったが、なんとその通りになった! カネを受け取るのが間に合わないぐらいだった。みんなあまりに素早く小銭を投げてよこすので、最初はびっくりしてしまったのだ。突然誰かに尻をいやというほど強く蹴り上げられたときには、びっくりどころの騒ぎではなかった。
 「このクソガキが!」と木の義足をした男が叫んだ。「自分のやっていることがわかってんのか? ここは俺の縄張りだぞ!」と。
 その片脚の男は、街角で世界中の新聞を扱う本物の新聞売店を開いていたのである。自分はこの商売に参入したばかりなのだ、とわたしは彼に話した。間もなくわたしに対する男の腹立ちは収まった。彼の名はホッピー・ファウラー。マンハッタンにおけるわが最初の師となった男だ。ホッピーはわたしに説明してくれた。俺は市にどえらい大金を支払って新聞販売の許可を得たのであって、自分が新聞を売る場所では誰であれ勝手に商売させるわけにはいかん、と。その後の数年間を通じて、ホッピーとは何度も顔を合わせた。彼はタイムズ・スクエアとこの場所が備えているさまざまな特徴をめぐって、素晴らしい話の数々を語ってくれたものだ。ニュージャージー通勤族が車で連絡船に乗り込む波止場で新聞を売ってみろ、と助言してくれたのはホッピーであった。ホッピーに言われた通りにやった。すると、とんでもなくうまくいったのだ。毎晩必ず交通渋滞となり、みんな車のなかで走り出せるようになるのを待っていた。わたしは数ヶ月間にわたってさまざまな波止場で過ごし、ショルダーバッグのなかの日刊紙をすべて売り尽くした。
 「新聞! 新聞! 新聞なら何だってあるよ!」と叫びながら、アイドリング中の車の行列の間を行ったり来たりしたものだ。
 その年の秋、母はわたしを[マンハッタンのハミルトン・ハイツにある]第186公立学校に入学させた。わたしは身体こそ小さかったが、けんかっぱやかった。教室の窓台に、鉛筆削りがいくつか置いてあった。ある日わたしが鉛筆を削りに行くと、アロイシアス・ポープという名の背の高い黒人の子に手荒くわきへ押しやられた。そんなことをされて頭にきたあまり、力いっぱい彼を押し返した。彼がクラスのいじめっ子であることを、わたしは知らなかったのだ。その小さな暴君に、放課後に学校の裏庭に来いと命じられると、ためらうことなくわたしは承知した。
 前述の一件の後、その日はずっとわが間違った英雄的行為(ヒロイズム)を後悔するはめになった。自分が学校の裏庭で死んでしまったら家族はどう思うだろうか、と思ったことを覚えている。どうして図体のでかいガキ大将の挑戦を受けてたってしまったのだろう? この窮状をなんとか打開する方法を見つけ出すことに専念した。まず、アロイシアスより背が低いことの利点──ゆえに奴より身軽である──があった。そのうえわたしは、リング・ラードナーが新聞のスポーツ欄に寄せた記事を愛読することで、当時のボクシング・チャンピオン──ジョー・ルイス、ルー・テンドラー、ジャック・デンプシー、キッド・チョコレート──を大勢知っていた。ラードナーは、みぞおちを殴られる男たちをめぐって大量の記事を書いていたのだ。わたしはといえば、実際には誰のことも殴ったことはなかったので、みぞおちがどこにあるかもよく知らなかった。けれどもとにかく、スポーツ関連の知識が多少あることで身を護ることできるかもしれないではないか。
 なんとも恐ろしいことに、アロイシアス・ポープは放課後にわたしのことを待ち構えていた。わたしは黙って彼のことを見つめた。次いで頭を下げると、全速力で相手めがけて走り寄った。そしてアロイシアスの胃を直撃して、息を詰まらせてやった。奴はしばらくの間気を失っていたので、おかげで街なかへ逃げてゆくことができた。わたしは懸命に走ってわが家を目指した。母にこの話をして聞かせると、彼女はかんかんになって怒った。けんかが大嫌いな母は、人の胃を強打するのはとても危険なことなのだとわたしに説いたのだった。おかげでアロイシアスをわが家へ招いて、母手製のブルーベリーパイをひと切れ振る舞うはめになってしまった。彼女はその後もパイを作り続けていたのだ。ブルーベリーは街角の市で買うようになっていたけれども。翌日、わたしは学校の廊下に佇んでいるアロイシアスにつかつかと歩み寄った。彼はみぞおちへの強打を生き延びていた。顔を見合わせて互いに微笑み合った。その日はアロイシアスを連れて帰宅した。母のブルーベリーパイを味わうためにである。われわれは親友同士になった。
 ある日のこと、パーク・ロウで忘れられないできごとがあった。わたしはニューヨーク・イヴニング・ジャーナル紙の積み荷場をぶらぶらしながら、自分の担当分が到着するのを待っていた。建物の地下室からは、いつもすさまじい轟きが鳴り響いてきて、足下で地面が揺れていた。あたかもどっと逃げ出した象の群れが、ウィリアム通りをやって来たかのように。積み荷場にいた男に、この振動の原因は何なのかと尋ねてみた。彼は笑った。視力は良いけれども片方の目しか見えず、片耳しか聞こえない男だった。自分が話しかけているのが新聞社の印刷所長トム・フォーリーだなんて、思いもよらなかった。それに、彼がジャーナル紙でどれほど重要な人物であるかにも、思いおよばなかった。
 「こっちへ来な、坊主」と、その力強い手を差し伸べながら彼は言った。「見せてやろう」と。
 フォーリーの手をひっつかむと、彼はわたしのことを羽毛みたいに軽々と抱え上げ、鋼鉄製のプラットホーム上に引き上げた。そして、騒音の原因たる地下の印刷室へと連れて行ってくれた。印刷室は広大で、やかましい機械群が常時作動しており、新聞の山を吐き出していた。激しく回る歯車たちの間を出入りする、巨大な回転ローラー群を見守っているのは、汗ばんだ印刷工の一団であった。彼らはインクで汚れたショートパンツを履き、新聞用紙で作った紙製帽子を被っていた。口をあんぐりと開けながら、わたしは刷り上がった新聞が部屋の向こう側へと飛んでいき、分類され折り畳まれる流れ作業列を見渡した。ほかの働き手たちは、配分用に新聞を束ねていた。わたしはすっかり夢中になってしまった。
 「こんなのはまだまだ序の口だぞ」とフォーリーは言った。「来い」と。
 彼はわたしをエレベーターへ連れて行くと、湿った口ひげをたくわえたビルという男に、6階へやってくれと言った。ビルの口ひげは、タバコの噛み汁で湿っているのがわかった。噛みタバコを部屋の片隅にあるバケツにペッと吐き出すときに、汁がひげについてしまうのだ。ビルが太いひもを引くと、エレベーターのエンジンがかかってあえぐような音を出しながら動きだした。エレベーターは6階より1フィート高い位置で止まり、おかげでわれわれはこの珍妙な機械からぴょんと飛び降りなくてはならなかった。
 ライノタイプ[行単位で植鋳する鋳造植字機]群、この大きくて騒々しくて煙っている機械たちを眺めるに、各々の機械でオペレーターがキーボードを叩き、一定の間隔をおいて頭上に吊るされた鎖に手を伸ばしているようだった。ライノタイプは、地下の印刷機用に文字を彫ったプレートを作成するため、記事や見出しを鉛の活字に変換する装置だ。オペレーターたちが鎖をぐいと引っぱると、大きな鉛の棒が溶解した金属入りの高温タンクのなかへと降りてゆき、次いで個々の文字列へと改鋳されるのだとフォーリーが説明してくれた。ガンとかシューとかすてきな音をたてながら、ライノタイプたちは熱い鉛の活字を整然と並んだ金属管へと吐き出した。
 こうした大わらわの製造過程に、圧倒されてしまった。建物の内部で神経を張りつめた作業がおこなわれているとも知らずに、何度もウィリアム通り沿いにあるジャーナル紙のビルのそばを歩いていたわけだから、なおのことだ。あの作業風景は、楽園としか言いようがなかった! フォーリーは、自らが属している歴史も承知していた。この建物は、まさに旧ラインランダー・シュガー・ハウス[訳注3]──革命戦争時に英国人が刑務所として使った建物──だった場所だと説明してくれたのだ。彼は誇らしげに、ジャーナル紙とアメリカン紙──国内でいちばん有力な二つの新聞──はまさにここで発行されていたのだし、毎日四つの版が出て、各版は125万部売れるのだと語った。つまり、24時間ごとに500万部の新聞が吐き出されていることになる。どうりで歩道が揺れているわけだ! この2紙のオーナーは、ウィリアム・ランドルフ・ハーストだとフォーリーは説いた。ジャーナル紙は、合衆国各都市に散らばる、ハースト所有による30以上におよぶ新聞チェーンの本社だった。フォーリーは、わたしの男の子らしい熱狂に感化されたに違いない。「ではこれから、新聞社の心臓部、内臓器官を見せてやろう」と彼。「ここなしではな、坊主、お前が売る新聞は生まれてこないんだ」。
 われわれは、7階にあるニュース編集室へ上がっていった。大勢の男女がひとつの広い事務所のなかでずらりと並んだ机に着き、タイプしたり、電話口でしゃべったり、古い新聞を読んだり、大声で活発に質問し合ったりしながら仕事をしていた。至るところに気送管があって、ガラス製シリンダーが行ったり来たりしていた。通信社から送られてきたさまざまな電送記事を吐き出すテレタイプ機器が、絶えず"タタタタタ”と音を立てていた。何よりも目をひかれたのは、椅子に浅く腰かけて呼ばれるのを待っている10代の少年の一団だった。
 「原稿だ!」とある記者が叫んだ。
 即座に少年の一人が立ち上がって急行し、記者が差し伸ばした手から1枚の紙をひったくると、それを配達するためにどこかへ駆け去った。少年たちは机の間や出入口の向こうをあちこち勢いよく走り回った後、再び席に戻って次の呼び出しを待つのだった。
 「ここで新聞を書くんですか?」と尋ねてみた。
 「そう、ここで書くんだ」とフォーリー。「あそこにいる男が見えるか?」と、彼は大きな机に着いているがっしりした紳士を指さした。「社会部長だ。編集部のなかでいちばん偉い人物さ。何を新聞に掲載し、何を掲載しないかは、彼が決める」
 「あの人たちの仕事は何ですか?」と、わたしはそこいら中を活発に動き回っている少年たちを指さして尋ねた。
 「原稿運び係(コピーボーイズ)さ」と彼。
 「この部屋で働きたいんですが」とすぐさまフォーリーに告げた。「ここで、原稿運び係として。どうすれば仕事に就けますか?」
 「あわてるな、坊主」とフォーリー。「編集主幹はジョゼフ・V・マルカーイーで、ここの採用担当は彼だ」
 ガラスで囲まれたマルカーイーのオフィスに、送り届けてもらった。このマルカーイーは、権力者(ツァーリ)であった。そのずんぐりした首はボタンをはずしたシャツとゆるめたネクタイからはみ出ており、なんだか火でも吐けそうに見えた。
 「原稿運び係になりたいんです」とマルカーイーに話した。
 「へえ、そうか」とマルカーイー。
 「はい」とわたし。「自信があります」
 「名前は、坊や?」
 「サミー。サミー・フラーです」
 「いくつかね?」
 「もうすぐ13歳です」
 「"もうすぐ”って、どれぐらいで?」
 「たぶんあと4~5ヶ月でしょうか」
 「俺には"たぶん”なんて言うな、坊や」とマルカーイー。「ここでは正確を期してもらわないとな」
 「あと6ヶ月で、13歳になります」と白状した。
 「この国には、児童労働に関する法律がある。せめて14歳になっていないと働けないんだ。法律上な」
 わたしの顔に、落胆の色がみるみる広がった。
 「じゃあこれを見るんだ、サミー」と、紙切れに名前と住所を書きつけながらマルカーイーは続けた。「この男に会いに行け。市庁舎の近くにあるオフィスにいるから。そこで労働許可証を出してくれる。きみのために、彼に一本電話を入れておこう。けれども頼むから、14歳だと言ってくれ。許可証さえもらえば、新聞社の就職口を世話することができるから」
 マルカーイーの後ろ盾とわたしの年齢詐称のおかげで、許可証が手に入った。しかし待てど暮らせど、新聞社からは何も言われない。だから希望を失いかけていた。やがてある日のこと、フォーリーがパーク・ロウで自分の担当分の新聞をかかえ上げているわたしを見つけた。そして、マルカーイーがオフィスでお前と話したがっているぞ、と言われたのだった。切望していた、ジャーナル紙の原稿運び係の仕事に就けたわけだ。その晩わたしは、この大ニュースを得意になって母に告げた。「母さん、ウィリアム・ランドルフ・ハーストさんのところで働くことになったよ!」と。

訳注1
マンハッタンのシヴィック・センター地区の聖ポール教会からシティ・ホール・パークの縁に沿って市庁舎に至る道路。19世紀には上流人士が最も愛好した散策路で、多くの新聞社がこの通りに事務所を持っていたので「ニュースペーパー・ロウ」とも呼ばれた。

訳注2
ブロードウェイの官庁街にある、雑貨店チェーン「ウルワース社」の本社ビル。1913年建造の高層建築で、1930年にクライスラー・ビルが完成するまで世界で最も高いビルだった。

訳注3
もともとは、砂糖関連のビジネスで成功した商人ウィリアム・ラインランダーが、砂糖および糖蜜を貯蔵するための倉庫として、1763年に自宅の隣に作った五階建て煉瓦造りの建物。


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