boid社長の樋口泰人が日々妄想している企画などを記す連載「幻聴繁盛記」です。先月まで上映していた『ラジウム・シティ』のトークショーで大澤真幸さんと廣瀬純さんが口にした言葉、そして9月に監督作『ヒューマン・ハイウェイ』が公開されるニール・ヤングの自伝から考えたのは、不法入国者のように生きることについて。

『ヒューマン・ハイウェイ』



文=樋口泰人


 『ラジウム・シティ』の上映時、いくつかのトークもセッティングした。上映時にトークをつけるというやり方はできるだけ避けてきたのだが、その理由はトークのお知らせのチラシにも書いたし、公式HPにも「トークへのお誘い」として載っているのでそちらを読んでみてほしい。とにかく何回か行なったそのトークの中で、社会学者の大澤真幸氏の回のこと。いつものように冷静な口調で話す大澤氏から、「勇気」という言葉が出た。世界で起こっているさまざまな事象をあくまでも言葉によって説明するはずの社会学者の口から「勇気」という言葉が出たことに、わたしは驚いた。「勇気」というのは、説明不能な部分がどうしても貼りつく曖昧な言葉であるからだ。だが大澤氏は今は「勇気」が必要なのだと言う。

 その数日前、京都でのトークの時、その日のゲスト、廣瀬純氏から出たキーワードは「命がけの覚悟」という言葉だった。ひとりの人間が本当に命を懸ければ案外簡単に国家を動揺させることはできる。そのことを証明したのが9.11のテロで、あれは、現実的にはほんの数人が命がけで行ったことなのだと言えるのではないかと。その時もちろん廣瀬氏はテロを勧めていたわけではなく、行動を示す言葉としては「移住」をキーワードにして、それを解説した。移住を思い立ったとき、家族がいたら家族はどうするか、それから仕事はどうするか、果たして生活はできるのか、さまざまな問題が湧き出してくる。それらを解決できるのか、あるいは解決できないまま移住するのか、いずれにしてもそこにはそれまでの暮らしを一気に変える覚悟と勇気がいるのである。

『ラジウム・シティ―文字盤と放射線・知らされなかった少女たち―』


 「キコクノススメ」という本が出ていると、妻が言う。『帰国の勧め』なのかと思ったら『棄国ノススメ』という本だった。新聞に書評が載っていたのだそうだ。単に移民するということではなく、「国」という考え方をいったん棄ててみる。そうすると何が見えてくるか。そんなことが書かれている本ではないかと思った。わたしたちは当たり前のように日本人としてこの土地で暮らしているが、いったんそれを棄ててみる。国も土地も身分も。その覚悟と勇気を持つなら、どんなに自由で豊かな暮しができるか。果たして「国」というものが今の時代にどれだけ役に立っているのか。単に政治家と金持のためのシステムなのではないか?

 6月の末、急きょニール・ヤングの本を作ることになった。9月12日公開の『ヒューマン・ハイウェイ』に合わせての出版である。スケジュールを立てると、7月中にほぼすべての原稿が上がっていなければ間に合わない。ギリギリでも8月10日が限界。ムック本なので久々に雑誌を作っているような態勢になった。すべてが同時進行。企画を立てながら原稿を依頼して、依頼しながら出てきた問題に合わせてさらに企画を修正しつつ原稿を依頼。その繰り返し。猶予はない。もちろん自分もまた、さまざまな準備をしなければならない。その準備として『ニール・ヤング自伝』を読み直している。


 その中であらためて驚かされたのが、ニール・ヤングは当初不法入国者としてアメリカに滞在していたということだ。自伝には何度もその話が出てくる。いまだにアメリカに住むカナダ人でありアメリカでの選挙権がない、という話は聞いていて、その話を聞いた時もちょっとドキッとしたのだが、そういうことは頭では分かっていても普段は忘れていて、不意の事故のように再認識してそのたびに驚かされる。とにかくニール・ヤングはバンドのメンバーとともに、アメリカに観光や一時的なライヴのために入国したのではなく、あくまでもそこでミュージシャンとして生計を立て、暮らすためにアメリカに入ったというわけだ。すでにヒットも飛ばし知名度も上がったうえで招かれたのではない。なんとなく居ついてしまったのとも、どうやら違う。

 不法入国者という生き方。国を棄てるというときに日本から海外に移民しても、移民先の国に所属するわけだから、日本という国は捨てても「国」を棄てることにはならない。つまり我々が普通に移住しても移動しても、「国」を棄てることはできない。ならばどうするか。『ターミナル』のトム・ハンクスのように空港で暮らし続けるか、あるいは不法入国者となるか。もちろん現実的にそんなことをしたら本当に「命がけ」になってしまってその後につながることは何もないのだが、ではそれは一体どういうことなのか。

 具体的に何をするのかどうなるのかはよくわからない。だが自分は不法入国者であると、とりあえず宣言してみる。何ができるだろうか? もちろんいくら宣言しても認められるわけはないので、税金は取られるし年金も支払わなければならないしNHKの受信料は取られるし事業所のごみ処理券は買わされるし、選挙権もある。何も変わらないかもしれない。でもとにかく強引に、自分は不法入国者であると宣言してみる。boidも違法な会社であると。そんなことをすると単に銀行は金を貸してくれなくなるし、助成金ももらえなくなるし、取引してくれない企業も出てくるだろうし、もしかするといつか現れるかもしれない爆音上映のスポンサーも現れなくなるだろう。

 でもそこからスタートする。しつこく何度でも、自分は不法入国者であると宣言する。たとえばそこから始まる経済、経営というものを考えられないだろうか。あるいはまた、不法入国者としての対外的な交渉能力を鍛えることはできないだろうか。果たして不法入国者として生きる生き方がいいのかどうかもわからない。でもとりあえずやってみる。わたしが困るだけだ。周りには少し迷惑をかけるかもしれないが、その迷惑で縁が切れるならそういう縁だったと思うことにしよう。とにかくまず、「国」という考え方を棄てることから、すべてが始まる。「ストーリーを観る」という映画の見方を台無しにすることから爆音上映が始まったように。

 ニール・ヤングは自伝の中で、こんなことを書いている。「ロックの殿堂」に迎え入れられた人たちの受賞のあいさつについての一文である。

「最初の数年は、殿堂に迎え入れられた人々の受諾スピーチからエネルギーを感じ取れた。刺激的だった。それは自分たちの考えを表明するチャンス、自分たちの声を聞かせ、本音をぶつけるための時間だった。だれもが心をこめてしゃべり、時にはとんでもないことを口走った。まったく予想がつかなかった。その瞬間を捉えていたのは、数台のヴィデオ・カメラだけ。彼らはその場の思いつきか、短いメモをもとにしゃべっていた。彼らは泣き、笑い、遺恨を晴らした。大勢の人々がその場で遺恨を晴らした。なかにはいいたいことが山ほどある人々もいて、これはそんな彼らにとって、またとないチャンスとなった」

 それがあるときからTVショーとなってしまい、時間を制限され、受諾者たちの思う存分のスピーチは聞けなくなり、テレビの時間に管理されるようになってしまったと。

 不法入国者として生きるということはつまり、初期の頃のロックの殿堂入りの受諾者たちのスピーチのように生きるということでもあるだろう。それまでの人間関係、社会関係、立場、しがらみをいったん抜けて、たとえばロックから命を授かった独立した人間としてまったく予想がつかない人生を生きる、というような。そして一方で、どんなきっかけによってでもいとも簡単に逮捕されてしまう不法入国者は、どこまでも注意深く生きる必要がある。注意深く、配慮を怠らず、しかし心をこめて、自分の考えと生き方を表明する。

 爆音上映とは生き方の問題だと思っている。それはパンクはアティテュードだと言うのと同じような意味で。とはいえ東京ではライヴハウス以外の爆音上映はまったくできない状況である。それどころか『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の爆音上映問題で(映画の宣伝のための一般試写が「爆音上映」で行われるという告知がboidにはまったく連絡もなくなされた)、結局は映画があまりに面白かったためにもはや当たり前のように「爆音上映」が行われていて、ああもうこれなら無理して爆音上映をやる必要はないなあと思い始めているところでもある。いや、だれもが盛り上がり面白がれるような爆音上映はだれにでもできる。それをあえてboidがやる必要はない、ということになるだろうか。「爆音上映」は条件さえそろえばだれにでもできるのだ。

 音を大きくすると、音のそれぞれの表情が手に取るようにわかるようになる。大きな音だけではなく、それまではストーリーの背後に隠れていた小さな音が不意に顔を出す。それをいかに受取るかが爆音上映のひとつの醍醐味だと思っている。流通するように作られた映画のストーリーから離れ、細部に耳を澄まし、その小さな声を聞く。そして小さな声のハーモニーが語り始める物語を聞く。注意深く繊細に、それらの声を表に出す。大きな物語の裏側でひそかに語られていた小さな物語を、時間をかけて表明する。映画に人生のすべてが詰め込まれているとするなら、じっとしていたら聞こえてこない物語もまた、そこには詰め込まれているはずだ。パッケージされることのない物語のざわめきを聞き、それとともに生きる。自分の観たいものを観るのではない。音量を上げたときに不意に表情を変え動き出す音たちのざわめきを体内に注入し、その変化とともに映画を観る。それができるかどうか。

 boidの爆音上映は、その1点において決定的に違う。それはニール・ヤングの開発したハイレゾのポータブルプレイヤー「PONO」が、その他のハイレゾプレーヤと決定的に違うように違う。「PONO」もまた、生き方の問題がそこに大きくかかわってくる。単に、圧縮されない音を原音に近い状態で出すことができればそれでいいのではない。それまでは聞こえなかった細部や音の関係、変化をいかに注意深く、配慮して出すことができるのか。そしてそれがどんな意味を持っているのか。「PONO」というプレイヤーがあることで、作り手たちの意識も変わる。そして聞き手の意識も。その循環の回路から湧き上がってくる音を「PONO」と言ってもいいのかもしれない。ハードであると同時にソフトでもある在り方。これもまた不法入国者として生きる生き方と同じだと言えないだろうか。





樋口泰人(ひぐち・やすひと)

boid主宰。映画批評家。7月23日(木)まで神戸アートビレッジセンターで「爆音映画祭 in 神戸 2015」を開催中。7月23日(木)、下北沢の風知空知で「アナログばかは音壁ばか。盤聴きフィル・スペクター膝栗毛 Vol.3」開催。『ファスビンダー、ファスビンダーを語る 第2巻・第3巻』(明石政紀訳)の先行予約受付中