前編に引き続きサミュエル・フラーの自叙伝の第5章をお送りします。ニューヨーク・イヴニング・ジャーナル紙の編集長アーサー・ブリズベーン専属の原稿運び係になり、新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストにまで会ったフラー少年が、一刻も早く事件記者になるために下した決断とは――




著=サミュエル・フラー
訳=遠山純生


 ブリズベーンのおかげで、ハーストは報道関係者の間で威信を獲得できた。さらにジャーナル紙は、新聞人のなかでも粒ぞろいの人材を獲得することができた。『市民ケーン』に登場する大規模なパーティの場面で、ケーンが新聞の売り上げ向上をほめたたえつつ、金で買える最高のジャーナリストを商売がたきから奪い取って雇ったと公表するくだりがある。これは、ブリズベーンがジャーナル紙に参加するに際し、ハーストがやってのけたこととほぼ同じだった。『市民ケーン』のなかでケーンがやってみせたように、ハーストがずらりと一列に並んだコーラスガールと一緒に歌い踊ったとはとうてい思えないけれども!
 たびたびピューリツァーとぶつかったこともあって、ブリズベーンはワールド紙に不満を抱くようになった。ピューリツァーはキャリア末期に盲目となり、リヴィエラのどこかの波止場に着けた自家用ヨット"リバティ号”で生活していた。にも関わらず、依然として彼がボスだったのだ。ピューリツァーはパーク・ロウで偶像視され、その高潔ぶりは伝説化していた。ワールド紙を読むと、人は安心感をもつことができた。紙面に書かれたありとあらゆる文が、裏づけのある事実に基づいていたからだ。ピューリツァーは生涯、扇情主義(センセーショナリズム)に対して嫌悪を抱いていた。
 この国にやって来た移民たちの御多分にもれず、ジョゼフ・ピューリツァーはヨーロッパから船に乗ってやって来た。1864年に、エリス島目指して航海してきた船である。身分証明書の類など持ち合わせず、入国管理当局に送り返されることを恐れた彼は、ニューヨークの港で逃亡した。そして何マイルも泳いだ果てに、軍の巡視船に救助された。英語を一言もしゃべることができないまま、ピューリツァーは南北戦争中に初めてこの国で仕事にありついた。第1ニューヨーク騎兵隊の、馬屋清掃の仕事である。この卑しい駆け出し時代に始まって、彼は国内で最も尊敬を集める新聞発行人へとのし上がったのだった。誰かが映画化すべき、どえらい物語がここにあるぞ!
 ピューリツァーの下で7年間勤めた後、ブリズベーンはうんざりした。新聞界の巨頭二人の仲違いにつけ込んだのが、ハーストである。ジャーナル紙で、ブリズベーンは第1面に掲載される社説でもっとのびのびと自説を開陳することができただけでなく、国内にいるどの編集者より高給を受け取ることもできたのだった。
 1952年、わたしはアメリカのジャーナリズムの起源、および出版の自由に対する情熱を描いた映画を作る機会を得た。その映画『パーク・ロウ』は、わたしが自腹を切って製作した唯一の作品だ。自腹といえど、作らずにはいられなかったのだ。たとえ愛してやまなかったあの通りをめぐる、若き日の思い出に敬意を表するという理由だけであの映画を作ったのだとしても。今日に至るまで、パーク・ロウを作り上げ支え続けたあのひたむきなジャーナリストたちに、とてつもない恩義を感じている。彼らはわたしにとってなくてはならない教師だったし、わが心にその美点を刻み込んでくれたのだった。ほら、『市民ケーン』は帝国建設を描いた映画であって、ジャーナリズムを描いた映画ではなかったではないか。ニューヨークで発行されるさまざまな新聞の中枢を占めていた、往時の記者や編集者のいろいろと興味深い生活を描いた白黒映画を作りたかったのだ。
 『市民ケーン』を観てひとついらいらさせられたのは、ウェルズがマリオン・デイヴィス──映画のなかではスーザン・アレクサンダーとして優美さを欠くかたちで描かれていた──を扱うやり方だった。わたしはハーストのアパートで、何回かマリオン・デイヴィスを目にしたことがあったのだ。ケーンの頭が空っぽなスーザンとは逆に、マリオンは当意即妙で感じがよく、愉快な人だった。いつ会っても、彼女はとても親切にしてくれた。ハーストはいつでもマリオンをうやうやしく扱っていたし、彼女の方は──10代だったわたしの目にすら──ハーストのことをとても深く愛しているように見えた。コロンブス・サークルに近い57丁目にあるコスモポリタン劇場に、マリオンの出演映画をいろいろと観に行ったことを覚えている。この劇場はハーストが買い取ったものであったため、MGMはマリオン・デイヴィスの出演作をいろいろと上映していたのだ。
 ニューヨーク州知事および合衆国大統領に立候補して落選したハーストとは逆に、ブリズベーンには政治的野心がなかった。大立者(タイクーン)になることにも、興味を持たなかったのだ。編集者として働くことが、彼の人生だった。ブリズベーンは傑出した一族の出身であった。父親のアルバートは合衆国における最初の社会主義者の一人で、ジョージ・バーナード・ショウと共にフェビアン協会を設立した人物だ。多岐にわたる分野の指導者たちに敬われる相談相手であったアーサー・ブリズベーンの見解は、1920年代において広く注目を集めていた。走り回る大きなリンカーンの前部座席に座っているときに、わたしは振り返って彼が後部座席で複雑な問題をバーナード・バルーク、チャールズ・シュワッブ、J・P・モーガンといった同輩たちと討議している様子を見守ったものだ。ブリズベーンと二人きりでリンカーンに乗れるときは、最高に嬉しかった。そうなると、わたしは青臭い質問をこれでもかと彼にぶつけるのだった。ブリズベーンは根掘り葉掘り聞くことを奨励しつつ、わが激しい好奇心に実に辛抱強くつき合ってくれたうえに、いつも反応を示してくれた。
 「ディクタフォンを発明したのは誰ですか?」とわたしは尋ねた。
 「チャールズ・サムナー・テンターだ」とブリズベーン。
 「いつです?」
 「1886年」
 「ニューヨーク・ヘラルド紙を始めたのは?」
 「ジェイムズ・ゴードン・ベネット」
 「いつのことです?」
 「1835年。自宅の地下室で。資本金500ドルでな。外国通信員を使い、記事に挿絵を入れ、ウォール街の経済情報を印刷した、初の新聞だった」
 ブリズベーンの該博な記憶力には、いつも驚かされた。馬鹿馬鹿しいことこのうえない質問に対してさえも、彼は決して見下したような態度を取ることはなかった。そしてその返答は、魅力的な物語の数々へと変わってゆくのだった。ブリズベーンは多種多様な問題についてたっぷりと説明してくれた。スポーツ──たとえばイングランドでのボストン・ストロング・ボーイ対チャーリー・ミッチェル戦を取材した話──から、哲学──たとえば万物の調和を獲得するべく"四つの法則”を唱えて反響を巻き起こしたフランスの空想社会改良家シャルル・フーリエ──まで。フーリエの話をする際には、さまざまな社会主義者たちや、彼自身の父親およびブルックファーム[合衆国の超絶主義者たちがマサチューセッツ州ウェスト・ロックスベリーに建設した空想社会主義による実験的共同体(1841年~1847年)]にも言及された。
 ブリズベーンの大型車で遠出したあるときのこと、われわれは南北戦争──学校で習ったなかで、わが気に入りの題目の一つ──について話し始めた。わたしの横に座っていたのは、1864年12月12日に生まれた男であった。この日に、テネシー州ビーン・ステーションからヴァージニア州ソルトヴィルにかけて、"ストーンマンの襲撃”[南部連合国支持者の戦争努力にとって有益な基幹施設粉砕を目的とした、北軍少将ジョージ・ストーンマン・ジュニア(1822年~1894年)率いる騎兵部隊による襲撃]がおこなわれたのだった。ブリズベーンはジョージ・ストーンマンについてあらゆることを知り尽くしており、あのとき車に乗っていた間に、南北戦争をめぐって学校で何ヶ月もかけて学んだよりもずっと多くのことを教えてくれた。彼は旧友について話すかのようにして将軍や政治家の名をさりげなく口にし、まるで昨日起こったことのようにさまざまな戦闘を描写するのだった。ブリズベーンには、聞き手に彼の語る多彩な物語の一部と化したかのごとく感じさせる才能があった。物語を話すこと(ストーリーテリング)に関して、ブリズベーンからはとてつもなく多くのことを学んだ。いちばん大事なことは、ブリズベーンがこの世のありとあらゆることを懸命に学ぼうとする意気込みをわたしに植えつけてくれたことであった。
 別の機会にオフィスで、ブリズベーンから誕生日はいつかと尋ねられた。日づけを話すと、彼は1912年8月をめぐる思い出を語り始めた。メキシコでディアス政府に楯突いて、パンチョ・ヴィヤがしかけた戦いを取材した際の思い出だ。わたしがまだ4歳だった頃には、ブリズベーンはニューメキシコ州コロンバスにいて、そこで起こったヴィヤの襲撃──16名におよぶアメリカ人が殺された──についての記事を書いていたのだ。直接の経験に基づいてヴィヤ、ディアス、マデロ、ウエルタのことを説明しながら、彼は刺激的なお話を紡いでみせた。おかげでわたしは椅子の端まで身を乗り出し、両の目玉は眼窩から飛び出しそうだった。
 ある土曜日の晩、日曜版の校正刷りに関してブリズベーンの承認をもらわなければならなかった。彼はリヴァーサイドドライヴにある、ハーストのアパートにいた。アパートではおりしも仮装舞踏会が催されているところであった。出席者は誰もが仮装していた。執事はベンジャミン・フランクリンめいた扮装。彼に連れられて廊下を通り抜け、キッチンへ行った。わたしは邸内でのできごとをちらっと見た。ハースト家のやかましくてタバコの煙が充満した居間では、楽団がワルツを演奏し、伯爵やカウボーイや道化の扮装をした人々──なかには当時最高の名士が何人かいた──が飲み騒いでいた。
 ハースト家のキッチンは、それまでに目にしたどんなキッチンにも似ていなかった。モダンな白いタイル張りの部屋で、ステンレススチール製のテーブル以外には、ほとんど何も置かれていなかったのだ。シェフとそのアシスタントたちは、休憩中だった。大きな白い帽子とエプロンを身に着け、シェフの仮装をしたブリズベーンが現われた。その姿はたいそう滑稽に見えたが、笑う勇気はなかった。彼は校正刷りを熟読すると"AB”と頭文字で署名し、本物のシェフにこの子が家に持ち帰るためのチキンを用意してやってくれと頼んだ。ボタンが押されると、あらゆる調理用具──こんろまで──が壁からすべり出てきた。ローストチキンがところせましと載せられた盛り皿が、オーヴンから取り出された。ブリズベーン自身が、チキンの一つをパラフィン紙に包んだ。グレイビーソースがガラス製の容器に入れられて、チキンとは別の袋に収められた。
 「ほら、サミュエル」と、二つの袋をわたしに手渡しながらブリズベーンが言った。「これで服を汚すことはないだろう。それから、このことをオフィスにいる連中にしゃべってはだめだぞ」と。
 「承知しました。ありがとうございます!」
 ジャーナルに急いで校正刷りを戻しに行き、次いでチキンとグレイビーソースを家族のもとに持って行った。翌日、ニック・ケニーという記者としゃべっているときにどうしても我慢できず、ハーストのすてきな個人用キッチンでブリズベーンから直々にローストチキンをもらった件に触れてしまった。こんな自慢話をしたのは愚かだった。ブリズベーンの命令に逆らいたがる、生意気なティーンエイジャー的衝動だったのだ。
 「サミー、君は本当にボスと親しいんだな」とケニーは言った。「ブリズベーンにケニーはすごく優秀な新聞記者だと言ってくれれば、100ドルやろう」
 わたしはその100ドルを受け取った。わが家にとっては大金だったからだ。数日後、ブリズベーンにケニーのことを称賛する機会を持つことができた。
 「誉めたら奴はいくらくれると言った?」とブリズベーン。
 「100ドルです」とわたし。
 「それでは足りないと言ってやれ」と、ブリズベーンはにやっと笑った。
 ことの顛末を話したところ、ニック・ケニーは激怒した。この若手記者に罵られ、ぶん殴ってやると脅されながら、編集室中を追いかけ回されるはめになったのだ。
 われわれが最も敬意を払っていたスポーツ記者の一人であるビル・ファーンズワースも、わたしに詰め寄ってブリズベーン絡みの質問をいろいろと浴びせかけた。ボスはスポーツ欄や漫画やコラムを読んで皮肉を言ったことはあるか? わたしは肩をすくめた。
 「スポーツ部について彼が何か言うのを耳にしたら、何でもいいから教えてくれ」と、マディソン・スクエア・ガーデンでおこなわれる大試合のチケットを2枚そっとこちらに渡しながら、ファーンズワースは言った。その頃には、わたしは192丁目にある大きくてモダンなジョージ・ワシントン・ハイスクールに通っていた。ニューヨーク初の、人種混合学校である。けれども学校に行く気にはなれなかった。わが心は事件記者になってやろうと燃え立っていたのだし、母を喜ばせるためにお義理に登校していたにすぎない。ある日のこと、わが傑出したボスに、ジャーナル紙に掲載する犯罪記事を街で取材させてもらいたいと嘆願した。
 「なあ、君はまだ若すぎるんだよ」とブリズベーンは言った。「その種の仕事をするには、せめて21歳にはなっていなければ。警察の分署内をうろつかせたり、刑務所にいる犯罪者たちに取材しに行かせるわけにはいかないんだ。サミュエル、犯罪報道は一筋縄ではいかない仕事だ。君はまだ、この仕事をするにはあまりに若すぎる」
 「でもぼくは記者たちについて回って、殺人現場や死体保管所に行ったことがありますよ。記者たちが警察や目撃者と話しているところを注意して見ていたし、彼らがどうやって記事を書くかも観察しました。ブリズベーンさん、ぼくの足の速さはご存知でしょう。仕事を身につけることはできます。今から始める用意はできているんです。お願いします!」
 彼が心変わりすることはなかった。それでもわたしは、事件記者になる夢をあきらめるつもりはなかった。アーサー・ブリズベーンといえど、あきらめさせることはできなかったのだ。
 その後、ジャーナル紙の記者たちともぐり酒場へ出かける途中で、わたしはニューヨーク・イヴニング・グラフィック紙の編集長エミール・アンリ・ゴヴローに会った。同紙は、1924年に発刊された日刊紙である。ゴヴローは背が低くて元気のよい男で、自分が驚くほどナポレオンに似ていることを誇らしく思っていた。彼はボナパルトと同じように髪をくしでとかしていたので、両者の類似はいっそう明白であった。ゴヴローはハートフォード・カラント紙[コネティカット州ハートフォードで発行されている朝刊紙]からニューヨークにやって来たのだった。
 「フラー、君のことは何から何まで知っているぞ」とゴヴロー。「ブリズベーンの原稿運び係だろう。週に14ドル稼ぐ。ジャーナルの参考資料室で働いていることも聞いた。サミー、わたしのためにグラフィック紙に働きに来てくれないか。週18ドルで、われわれの参考資料室のボスを務めてもらうのはどうだい?」
 「ぼくは記者になりたいんです、ゴヴローさん」とわたしは言った。「事件記者に」
 「事件記者になるにはちょいと若すぎやしないかい、サミー? われわれの参考資料室をしっかりしたものにするために、君みたいな頭のいい子を使えるといいんだが」
 「ぼくのことを本物の新聞人にしてもらえるのでない限り、ブリズベーンとジャーナル紙を離れる気はありません。事件担当として雇ってもらわない限りは」
 「いいかサミー、今は1928年なんだぞ」とゴヴロー。「われわれは禁酒法、無政府主義者(アナキスト)、ファシスト、アル・カポネ、暗黒街の殺し、そのほか諸々と闘わなくてはならないというのに、君は新聞記者になりたいときた。16歳でそんなことをさせるわけにはいかん」
 「16歳半です!」とわたしは訂正した。とはいえそんな訂正をしたとてなんにもならないこともわかっていたので、取り引きを提案した。「ゴヴローさん、半年後に17歳になったら、ぼくを記者にしてください。そうしてもらえるなら、今すぐにでもあなたのところの参考資料室に働きに行きます」と。
 「これで話は決まったな」と彼。
 われわれは合意のしるしに握手した。
 アーサー・ブリズベーンに、彼およびジャーナル紙から去るつもりだとは、なかなか言い出しにくかった。たぶん、これほど立ち向かうのに困難な試練を経験したことはなかったはずだ。二人でリンカーンの後部座席に座っているときに、グラフィック紙で働くためにゴヴローと交わした取り決めについて説明をした。ブリズベーンは黙ったまま隣に腰を下ろしていた。永遠に続くかと思われる瞬間の一つであった。泣き出さないよう、唇を噛まなくてはならなかった。ブリズベーンは、謹厳な表情を浮かべていた。動揺していても、そのことを表には出さなかったのだ。
 「サミュエル、グラフィック紙は長続きしないよ」と彼。「一生の仕事として何をやりたいのかね?」
 「ジャーナル紙のような大新聞の編集長になりたいんです!」
 「グラフィック紙で働いたって、編集長として雇ってくれる新聞社なぞどこにもないぞ」
 「そうかもしれませんね、ブリズベーンさん」とわたし。「でもこのチャンスをつかみたいんです。記者になりたいし、なれるものなら早ければ早いほどいいですから」
 「では記者になりに行くがいい」とブリズベーン。
 2年半にわたってアーサー・ブリズベーン個人の原稿運び係を務めた経験は、これからも消えることなく身体の一部に沁みついたままだろう。ブリズベーンはわたしにとって、きわめて重要な父親的存在となったのだった。さて、別の職場に移らなくてはならぬときがきた。彼の大型車から降りるのも、これが最後だ。開いた窓を通じて握手した。ブリズベーンは、力添えが必要なときにはいつでも訪ねてきていいよと言ってくれた。わたしは申し出に感謝した。結局、その言葉に甘えたことは一度もなかったけれども。
 それから20年後にカット。1936年のクリスマスの朝。カリフォルニア州ハリウッド。ハリウッド・アンド・ヴァインの一角。その日の朝刊版で、アーサー・ブリズベーンが亡くなったことを知った。わたしはその場に立ち尽くして、恥も外聞もなく声をあげて泣いたのだった。先ほどわたしが新聞を求めた売り子に、医者を呼ぼうかと尋ねられた。悲しみのせいで具合が悪いのだから、医者は助けにならないと応じた。
 「さあ新聞を売るんだ」と悲嘆に暮れながらわたしは言った。「そのために印刷されているんだからな」




サミュエル・フラー Samuel FULLER
1912年8月12日、マサチューセッツ州ウースター生まれ。本名はSamuel Michael Fuller。新聞記者、小説家、映画脚本家などを経て、1949年に『地獄への挑戦』で監督デビュー。ジャーナリスティックな感性や第二次大戦従軍経験を活かし、常に脚本も兼任した監督作がとりわけフランスを中心に高く評価された。代表作に、『鬼軍曹ザック』(51)、『東京暗黒街・竹の家』(55)、『四十挺の拳銃』(57)、『ショック集団』(63)、『裸のキッス』(64)、『最前線物語』(80)、『ホワイト・ドッグ』(82)、『ストリート・オブ・ノーリターン』(89)などがある。パルプ小説的物語に、強烈な暴力描写・登場人物の心理探究・社会的不正に対する抗議を織り込んだ独特の低予算娯楽作品を数多く手がけている。『気狂いピエロ』(ジャン=リュック・ゴダール、65)、『ラストムービー』(デニス・ホッパー、71)、『アメリカの友人』(ヴィム・ヴェンダース、77)、『1941』(スティーヴン・スピルバーグ、79)など、俳優としての仕事も多い。1997年10月30日死去。


遠山純生(とおやま・すみお)
1969年愛知県生まれ。映画評論家・編集者。代表的な編著作に『紀伊國屋映画叢書① イエジー・スコリモフスキ』『紀伊國屋映画叢書③ ヌーヴェル・ヴァーグの時代』(以上、紀伊國屋書店)、『ロバート・オルドリッチ読本①』『マイケル・チミノ読本』『イエジー・スコリモフスキ読本』(以上、boid)などがある。また翻訳書に『私のハリウッド交友録』(ピーター・ボグダノヴィッチ著、エスクァイア マガジン ジャパン)、『ティム・バートン』(マーク・ソールズベリー編、フィルムアート社)、『ジョン・カサヴェテスは語る』(レイ・カーニー編、幻冬舎/都筑はじめとの共訳)など。自身のHP『mozi』にて、映画をめぐる諸論考を発表。




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