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文=降矢聡
マーク・ローレンスは自身の監督作でいつも、いままでとは異なった、より強く言うならば正反対の環境に身を投じることになる人物を描いてきた。『トゥー・ウィークス・ノーティス』では、社会奉仕活動に熱心で、歴史ある建物を経済的な効率だけで壊すことに反対する弁護士が、かたき相手である大手不動産会社の顧問弁護士になるところから映画は始まる。『ラブソングができるまで』は、学生時代のトラウマによってペンを持つことすらままならない植木のお世話係の女性が、シンガーソングライターとして抜擢され、『噂のモーガン夫妻』では、ニューヨークから一歩も出たくないマンハッタンの不動産女王がワイオミング州の田舎町へと住処を移さねばならぬという事態がそれに当たるだろう。
また、その全ての映画でいわゆるダメ男と形容されるような男を演じるヒュー・グラントが醸し出すユーモアが映画の微温的な旋律となり、そこに、慌ただしげに振る舞えば振る舞う程に輝きを増していく女優陣(サンドラ・ブロックにドリュー・バリモア、サラ・ジェシカ・パーカー)が、言葉を、身振りを添えていく。
一本の映画を撮るのに必要なのは、この旋律と言葉(Music and Lyricsとは『ラブソングが出来るまで』の原題だ)であるようだ。脚本家出身特有の律儀さと、俳優陣を大らかに肯定する演出によって、MusicとLyricsという異なる二つのものが一つの歌となるときに映画は完結するだろう。例えば、歴史ある公民館と最新の高層タワーという異なるものが併設された様子を、観光名所の絵はがきで示し、文字通りに一体となって閉じられる『トゥー・ウィークス・ノーティス』を思い出してもいい。この映画の劇中で、ヨナガンダの言葉として引用されるセリフ「正反対のものこそが、自分を完全にしてくれる」(あるいは「正反対のものこそが、映画を完全にしてくれる」?)、これがマーク・ローレンスの物語の構造だ。
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