
文=五所純子
あたしは思春期の存在に驚く。思春期の顔は毎日変わる。それはときどき生理的な嫌悪感をもよおすほど生々しく感じられる。何が生々しいかといえば、変化の渦中であるということを顔面に牛乳をぶちまけられるみたいに見せつけられる感じがするからだ。成長過程のまっただ中で先行きが見えない。その不安定さが肉体的に露出している。どぎつい生命感だ。その時期は自分でも鏡を覗くのが厭わしかった。昨日は一重まぶただった右目が今日は二重まぶたになっていたり、同じ場所からニキビがくりかえし吹き出したり、急激に肉付きがよくなったり、肉体的な手に負えなさがそのまま未知なるものへの精神的な不安に直結しているようで困惑した。しかしそれは前途洋々たる若者の特権のように言われる。大人は思春期を眩しがる。思春期まっただ中だった頃の困惑や不安や動揺などやすやすと忘れて、君たちには無限の可能性があるなどと平気で子どもに鞭を打つ。不老不死でも億万長者でも宇宙遊泳でもあるまいし、どの口が無限だなどと言えるのだろうと思うが、しかし大人をはっきり健忘させてしまう力を思春期の存在はもっている。それがやはり生命感というもので、ごてごてと着飾らずともTシャツとジーンズだけで輝く年頃が思春期である。この溌剌さは、身にまとっている最中よりも、失ってからのほうが輝いて見える。だから大人は思春期に無限性を求め、青春の季節を引き延ばそうとする。これもひとつのサウダージだろう。
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