
収容所を動き回るカメラは「『カポ』のトラヴェリング」か?
文=荻野洋一
タル・ベーラの助監督をつとめたハンガリーの新人監督ネメシュ・ラースローが完成させた長編デビュー作『サウルの息子』が、アウシュヴィッツの隣村にある第2収容所、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所を大胆にあつかって、ヨーロッパの映画界に大きな衝撃を与えているところである。収容所の内実を、そしてガス室での殺戮をこれほど赤裸々に写した作品は、今日までなかっただろう。そしてその理由は、ユダヤ虐殺の内実を描きたくなかったためではなく、その逆で、生半可な描写を許さなかったためである。記念碑的大作『ショア』(1985)の映画作家クロード・ランズマンが示した「表象の不可能性」という考え方は、深く長く映画界の倫理観を律してきた。ランズマンがスピルバーグの『シンドラーのリスト』を厳しく否定したとき、その「表象の不可能性」は侵犯せざるべき戒律と化したのである。
しかしネメシュは、みずからが敬愛するランズマンのテーゼに真正面から挑戦することになる。ところで彼の名を縮めて姓だけで呼ぶ場合、「ネメシュ」と呼ぶべきである。ハンガリー人の人名はヨーロッパで一般的な「名‐姓」の語順ではなく、われわれ東アジアと同じく「姓‐名」の語順で書かれるためである。もし彼について「ラースローの作品は…」と書いた場合、フィリップ・ガレルについて「ガレルの作品は」と言わずに「フィリップの作品は」とまるで友人について書いてしまうのと同じになってしまうのである。
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