
鏡よ鏡、現代を最もよく表現できるメディアって何?
文=大寺眞輔
インタラクィブ・ムービーというのは、手垢の付いた、古びた、そして結局のところ間違った概念である。なぜなら、映画はインタラクティブではないからだ。かつて、百年を超える映画の歴史を刷新し、新たな可能性や魅力をそこに付け加えようと様々な試みが行われた。例えば、観客の選択や投票によってストーリー進行を左右させることで映画にインタラクティブ性を持ち込もうとする企画は既にお馴染みのものであるだろう。あるいは逆に、インタラクティブ性にその強みのあるコンピューターゲームにおいて、ハードウェア進化に伴うビジュアル的訴求力強化の必要性から映画的演出や動画を使用する試みも繰り返されている。すなわち、インタラクティブとムービー双方の側からお互い熱烈なアプローチが繰り返されてきたのである。だが、この結婚は決して幸せなものとならない。なぜならば、繰り返そう、映画はインタラクティブではないからだ。
映画鑑賞という体験の根元には、しばしばインテグレーションへの欲求が認められる。物語への欲求と言っても良い。それは、通常の意味での映画の物語から、作品を支配しその体験の厚みと質を保証する映画作家という物語に至るまで、私たちの一回性を伴った体験の貴重さを支える何らかの物語を私たちは必要としているのだ。つまり私たちは、映画を見るとき、何か大きなものに巻き込まれ、打ちのめされることを望んでいる。そして、であるからこそ、その統合性に逆らう批評的見方が一方で支持され顕揚されることにも繋がるのだ。だが、映画は批評を必要とするが、映画そのものは概して批評的なメディアではない。批評性や客観性、分析性、分散性、明晰さ、拡散する思考の多方向的拡がりは決して映画の本質とは認識されていない。そこから映画的な楽しみは生まれにくい。単純に言って、私たちは映画にインタラクティブ性を望んでいないのだ。
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