boidマガジン

2016年01月号 vol.3

映画川『アメリカン・スリープオーバー』 (樋口泰人)

2016年01月23日 13:57 by boid
今週2本目の映画川は、現在『イット・フォローズ』(同作は以前本サイトでも大寺眞輔さんにご紹介いただいています)が公開中のデヴィッド・ロバート・ミッチェル監督の長編処女作『アメリカン・スリープオーバー』について。
この作品は日本では劇場未公開ですが、2014年3月に東京藝術大学大学院映像研究科とGucchi's Free School共催のイベント「OPEN THEATER vol.3」で上映されました。その際に制作されたパンフレットに樋口泰人が寄稿した文章を、『イット・フォローズ』公開記念ということで再録します。ミッチェル監督曰く、『イット・フォローズ』は「『アメリカン・スリープオーバー』のキャラクターに感じていた純粋さはそのままにして、僕が大切に思うキャラクターたちをホラーの中で描きたい」と思って作った作品とのことです(『イット・フォローズ』公式HPより)。
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永遠の1日


文=樋口泰人


 9月から新学期が始まる国々では、夏の終わりと新学期の始まりが重なり合いながらやってくる。例えばその季節が映画の中で描かれたとき、新しい人生の始まりが黄昏の季節への入口にあるという、期待感と淋しさの混ざり合った感情の複雑さを、私たちはそこに観ることになる。冬が終わり、光の季節に向けての始まりと新学期とが重なる日本のシステムに慣れた身にとって、それは生きるということに対するスタンスの違いを、もはやどうにも代え難い形で決定的に、そして悲しみと喜びと戸惑いと憧れとともに静かに受け入れる、ひとつの儀式のようなものではないかと思う。その中で私たちは、そこに描かれる若者たちの経験する複雑さを無意識のうちに身体に染み込ませ、別の季節感を獲得していくわけだ。

 もちろん9月新学期の国の若者たちにとっても、その感覚自体はあらかじめ身に付けたものではないはずだ。期待感と淋しさとが混ざり合うその季節が何度も繰り返されることによって、若者たちは次第に複雑さを獲得していく。まるで私たちが似たような映画を何度も何度も観て、その季節と空気と匂いと温度と湿度と速度とを、この身体の中に溜め込んでいくように。

 この映画の舞台となるのはアメリカの北部、デトロイトの郊外である。8月の終わりの、ほぼ1日の物語。北部なので、ロサンゼルスのような解放感はないし、ニューオーリンズやフロリダのようなジメッとした暑苦しさもない。ヨーロッパの映画にも似た、どこか淋しげでさっぱりとしない空と、何となく涼しげで時に肌寒ささえ感じてしまうような空気が、画面を覆う。すべての面において可能性の塊のようなハイスクールの生徒たちとその卒業生たちの1日は、これから始まる彼らの人生のあらゆる方向へと、その時間を解き放っているようにも見える。

 この映画を観るだけではそれがいつの時代なのか、よくわからない。携帯が出て来ないし、74年生まれという監督の年齢から推測すると、おそらく90年代半ばくらいの時代設定なのだろう。もちろんだからどうだという話ではない。いつの時代を生きているのか分からない、いつの時代のどこにいても不思議ではない解放された時間の中にいる若者たちが、次第に自分の時間を獲得していく物語、というふうに言えるのかもしれない。自分の目の前の時間の広がりに怯えるばかりの人間が、次第にその時間の中にひとつの筋を描いていく。そこにおいて彼らは始まりと終わりとの重なり合う複雑さを獲得し、同時にその複雑さを体内に収めるための強固な輪郭を持つようになる。

 そんな人間の成長の物語の兆しを、この映画に見ることは難しいことではない。主人公のマギーはその後一体誰と本気で付き合いどんな人生を送るのだろうか。スーパーマーケットで見かけた金髪の少女に心惹かれたボブの視線は、その後一体誰の上に注がれるのだろうか。そしてマギーを見つめるベスやボブを見つめるマーカスの視線に込められた悲しみの色は、一体何を意味するのだろうか。そんな思いが湧き上がっては消え、その残滓が静かにゆっくりと胸の底に降り積もっていく。その繰り返しの中で、私たちは『アメリカン・スリープオーバー』という映画を観ているのではなく、自分の胸に降り積もる可能性の残滓の堆積を観ているのではないかという思いに捕われることになるだろう。

 1本の映画を作るということは、そこに入るかもしれなかった数限りない可能性のほとんどを捨て去ることだ。もしかすると撮影されるかもしれなかった幾多のショット、あるいは撮影されたのに使われなかったさまざまなテイクは世に出ることもなく、製作者たち以外の誰にも知られないまま、どこかに消えていく。だがそれらは確実にそこにあった。例えば、この映画を観る私たちの多くが、世界中の誰からも知られずに生きて知られずに死んでいくように。そしてもちろん映画は、そんな私たちに観られることによって初めて、その映画としてそこに存在するようになる。

 この映画が数多くの青春群像劇とどこか違っているのは、その部分においてだろう。主人公たちは未だ何ものでもない。それを既に何ものかになってしまったもののおそらくは誰からも振り返られず、そして誰にも知られず生きて死んでいく者たち(もちろん、知人や親族たちによっては振り返られ、知られてはいるのだが)によって観られることで、彼らが彼らとなる。そのことへの熱い視線によって作られている映画。カメラの視線はただ単に目の前にいる彼らを見つめているだけではなくて、カメラが見つめることで彼らを生み出している、まさにこの映画を観る私たちの視線で彼らを見ていると言ったらいいのか。つまりカメラの前には何もないのだ。カメラはレンズの前にあるものしか写さないなんて自分は信じないと、この映画の監督はどこかでつぶやいているに違いない。

 いつの時代なのか分からないのではなく、時代などないのだ。時間は前に進まない、広がり続けるだけだ。そんな時間の中に、何もしなければそこになかったのと同じ、ぼんやりとした風景と空気を持つ街がある。そこにカメラが置かれる。置かれることでようやくそこに時間が流れ始め、街が作られ始める。そのカメラがスーパーの中を歩く少年をとらえる。何かを見つけたのか、その目に力が入り、ある方向を見つめる。カメラがとらえたただそれだけのショットが、この映画にはあるだけだ。それ以降は妄想、夢想。それらがふと、形になったりならなかったりするだけで、そこにいるひとりひとりのその後を、この映画は指し示すわけではない。それどころか彼らの行動を観ているうちに、私たちは更にもやっとした霞の中に入って行く気配を感じるだろう。

 彼らは何かになるのではない。あらゆるものになる可能性が、たまたま彼らという姿をとってそこに現れただけなのだ。その意味で、彼らではなくこの映画自体が私たち自身でもあるのだと言えるだろうか。私たちの内側に広がり続ける可能性は、一方でそうなれなかった現在の自分を照らし出すものとして「空虚」とも言えるのだが、この映画の物語はその「空虚」に降り積もる。ロバート・ゼメキスの『コンタクト』では、地球から発信された信号を遥か宇宙の彼方で受け取った宇宙人たちが地球にメッセージを送り、それに従って主人公が超光速宇宙船で宇宙の果てに向かい、そこで自分の過去を目にする。その時間の広がりが、この映画を作り上げる。この映画のデトロイト郊外の街は、実はアメリカにあるのではなく、『コンタクト』の宇宙人たちが受け取った映像なのである。あるいは『ゼロ・グラビティ』の主人公が還り着いた地球の、しかし人の声だけが聞こえて実はそこには人の姿が誰もない場所の映像と言ってもいいかもしれない。実際、あの映画の中で主人公が最後にたどり着いた場所は、本当に地球だったのだろうか? あれは単なる主人公の妄想で、彼女は自分の作り出す時間の膨らみの中の果てしない旅を続けているだけではないのか?

 その意味でこの映画では、AがA'やBになるのではなく、Aはそのまま何かになる可能性だけをひたすら膨らませ続ける。いや、ひたすら膨らませ続けることによって初めてAとなるはずの、敢えて言えば自分は((((((A))))))であってそうでしかないことをその身体に染み込ませていく。登場人物たちは、彼らの膨らみの部分「(((((( ))))))」でオーヴァーラップして重なり合う。時に彼らは同じ人物ではないかとさえ思えるときがある。まさにその重なりの部分をこそ、この映画は見せようとしているようにも思える。私の足元はこの足元にはなく、その足元にあるのだ。膨張した輪郭の中に朧げに見える地表にそっと着地する、その不安と期待と危うさとそれ故の優しさが、更にその輪郭を膨張させる。そして同時に、その足元の感覚を研ぎすまさせる。カメラを通してものを観るとは、こういうことなのだと思う。映画はここから始まる。

アメリカン・スリープオーバー The Myth of the American Sleepover
2010年 / アメリカ / 97分 / 監督・脚本:デヴィッド・ロバート・ミッチェル / 出演:クレア・スロマ、マーロン・モートン、アマンダ・バウアー、ブレッド・ジェイコブソン



樋口泰人(ひぐち・やすひと)
boid主宰。映画批評家。1月29日(金)、30日(土)に札幌プラザ2・5 メッセホールで「札幌爆音上映 vol.3」開催。31日(日)には同所で『サミュエル・フラー自伝 わたしはいかに書き、闘い、映画をつくってきたか』刊行を記念し、『チャイナ・ゲイト』『ショック集団』『裸のキッス』を上映。フラー作品の連続上映は2月下旬より渋谷ユーロスペース他、全国順次実施。

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