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2016年01月号 vol.3

映画川『白鯨との闘い』 (降矢聡)

2016年01月23日 00:47 by boid
2016年01月23日 00:47 by boid
今週の映画川、1本目は現在公開中の『白鯨との闘い』(ロン・ハワード監督)を取り上げます。19世紀のアメリカ文学を代表する小説『白鯨』(ハーマン・メルヴィル)のモデルともなった、1981年の捕鯨船エセックス号の海難事故を描く本作。ライターの降矢聡さんが、これまでロン・ハワード監督が実話を元に撮った作品を踏まえながら、この作品の主題、そしてその主題とも関わってくる同監督の"事実”の捉え方について、詳細に分析してくれています。
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文=降矢聡


 目前の出来事に対して、流れるような身のこなしと平行して瞬時に的確な決断をほどこすプロフェッショナルな人々の姿を見るとき、今映し出されている人々は確かに存在すること、そして私たちが彼らの専門分野からほど遠い生活をしていればしているほどに、驚きと共に世界はこんなにも豊かなものだと心を奪われる。そして、翻ってそれは、私たちの身の回りにもいつでもどこでもプロフェッショナルな細部があることを教えてくれる。それこそがロン・ハワードの映画の大きな魅力の一つだ。
 『白鯨との闘い』においては、鯨油を取りにエセックス号が今まさに大海原へ打って出ようとする際、一等航海士のオーウェン・チェイス(クリス・ヘムズワース)の号令と共に、船員たちが一斉に動きだし帆を張る場面。あるいは見張り役クルーの「潮を吹いたぞ!」という合図をきっかけに、猛然と鯨に迫り、一瞬見えた鯨の大きさに即座に樽50個分の油が取れると喝破するときが、その瞬間だ。ロン・ハワード初の3Dである本作は、嵐によって荒れ狂う波の中を軋みを立てながらも全速力で進む捕鯨船やボートの迫真性が豪快に画面を活気づかせているのは確かである。だがなによりも、これらプロフェッショナルな行為を通して描き出される人々と世界の存在感というロン・ハワード映画の根幹が今までの映画と変わらず私たちを魅了する、とまずは言っておきたい。

 「どうのように未知のものを知ることが出来るだろうか」という問いが、深海を映し出した映像にかぶさるところから『白鯨との闘い』は幕を開ける。そうしてキャメラが深海の奥へと進んでいくと、目の前に巨大な鯨が通り過ぎていくのだから、ここで言われる「未知のもの」とは巨大な鯨=白鯨のことだとひとまず了解する。と同時に、映画の一つのウリである白鯨の姿を冒頭すぐに映し出してしまうことに幾ばくかの据わりの悪さも覚えることになるだろう。
 次に私たちが未知のもの=白鯨の姿を見ることになるのは、映画のちょうど半ばに差し掛かったところだ。白鯨に襲われ捕鯨船は炎上する。こうして海洋パニックものとしてのスペクタクルのピークを早くも迎えることになるだろう。一つの山場が通過したこの映画が次に描くのは、白鯨から辛くも生き延びた船員たちが漂着する無人島のシーンだ。この島を境にこの映画は、海洋パニックものの装いから、もう一つの顔を見せることになるのだが、興味深いのは映画の前半と後半の中継に置かれたこの無人島で行われるジョージ・ポラード船長(ベンジャミン・ウォーカー)とチェイスのやり取りだ。ベテランだが船長になれなかったチェイスと、経験が浅いにも関わらず船長となったポラードという二人のライバル関係、対立といった人間ドラマを引っぱる求心的な要素は、このときいささかあっけなく解消される。船が鯨に襲われ漂流することになったのは自分のミスだと認めるチェイスに対して、ポラードが「全ての責任は船長の私にある」と返答するのだ。  いささかあっけなく、と書いたのは、ここで描かれる二人の関係性こそ、実話映画化を手掛ける際の極めてロン・ハワード的な主題であったからだ。それは、なにが正しく、なにが誤りであったのかという正/誤を巡る事実に関する主題だ。チェイスとポラードはともに誤りを犯した敗者である。ロン・ハワードはいつだって、失敗した者、敗北した者を通して事実と言われるものを探求/棄却する。

 実話を映画化した5作品全てで、敗れること、失敗すること、より正確には成功/失敗、勝者/敗者がともに同じ事柄であるかのように描かれているのは注目に値しよう。月面着陸を果たすことが出来なかった「輝かしい失敗」を描く『アポロ13』に、天才と狂気が併存する数学者の『ビューティフル・マインド』、勝つことと負けることがともに死に近づくことでもある大恐慌時代のボクサーを描く『シンデレラマン』、そして極めつけは「どれほど成功しようと我々は敗者のようだ」という言葉がニクソンから発せられる『フロスト×ニクソン』と、ほとんど同じことの裏面であると思うのだが、ジェームズ・ハントとニキ・ラウダが「お互い世界王者だ」と認め合う『ラッシュ/プライドと友情』。勝負はどちらが勝ったのか、あるいは敗れたのか。歴史は勝者が作るものであるならば、勝者は一体だれなのか。それとも語られることのない敗者の歴史をロン・ハワードは敗者に代わって語ろうとしているのだろうか。

 これらの実話を元にしたロン・ハワードの映画が描くのは、成功か失敗か、勝者か敗者かという歴史に記された(あるいは埋もれてしまった)事実とはまた違う層にある。  例えば、言葉に窮する表情をクロースアップで捉えられることによってニクソンは敗北したという事実がある。そして「このクロースアップこそがテレビの力だ」と『フロスト×ニクソン』は言う。しかし、テレビの力よるニクソンの敗北の事実を語る一方で、『フロスト×ニクソン』の映画自体は、テレビでは決して写されることのないフロストとニクソンの間こそを写していたはずだ。あるいは『アポロ13』で、宇宙にいるトム・ハンクスとテレビを介して見守るしかなかった自宅にいる妻キャスリーン・クラインの超遠大に離れた二人が、2つのショットで密やかに繋がれる瞬間。そこには、ミッションの失敗、宇宙からの生還という事実(それは歓喜の表情のクロースアップで大々的に捉えられるだろう)とは別の層が描き出されてはいなかったか。
 ロン・ハワードはほとんど繋がるはずもない様々な思惑や期待や祈りの表情を、ショットとショットを繰り返し紡ぐことで丹念に交流させる。そしてそれら様々な表情は幾層にも積み重なる。その層と層の間隙にこそロン・ハワードが描こうとする真実が隠されていたはずだ。

 『白鯨との闘い』において、この敗者同士のやり取りが映画の前半で行われてしまうのは、実はチェイスとポラードという敗者のほかに、もう一人の敗者の物語があるからだろう(それが描かれるのが無人島を後にして、心もとない装備で航海に出る映画の後半部分ということになる)。
 もう一人の敗者とはエセックス号の生存者トマス・ニッカーソンのことである。何十年も前に自分を襲った悲劇について未だ語ることが出来ず、大きな闇を抱えているニッカーソンに、作家ハーマン・メルヴィルが『白鯨』執筆のため、話を聞きに来るという構成が映画『白鯨との闘い』ではなされている。しかし、この映画の原作である『復讐する海 捕鯨船エセックス号の悲劇』を読めばわかる通り、メルヴィルがニッカーソンに実際に会い、そこでの会話を元に『白鯨』を書いたという事実はない。
 事実をねじ曲げてさえ会合させた二人の人物、ニッカーソンとメルヴィルとの間でなされるものこそが、ロン・ハワードが『白鯨との闘い』で描き出そうとしたものであるのかもしれない。

 メルヴィルがニッカーソンにエセックス号の悲劇を語らせ、それを元に小説を書くという二層構造。さらに言えば、現にこの映画を見る私たちがメルヴィルの『白鯨』はもちろん、『白鯨』では描き出されてなかった事の真相を書き綴っている『復讐する海 捕鯨船エセックス号の悲劇』の存在も知っていることを考えれば、三層、四層と幾層にも積み重ねるロン・ハワードは一体なにをしようとしているのだろうか。
 ニッカーソンの長い回想がもうすぐ終わりを告げようとするとき、白鯨に襲われた事実を隠蔽するよう持ちかける船主は、それは嘘だと言うチェイスに向かって「現実的(pragmatic)になれ」と要求する(そしてチェイスはそれを拒否する)。この映画を手掛けたロン・ハワードは、この船主と同じように、体の良い嘘をつき「現実的な」選択で一本の映画を作り上げたということなのか。映画を作りあげる様々な決断に対する自己弁護のシークエンスが船主とチェイスのやり取りなのか。
 おそらく嘘でもあり「現実的」でもある選択を積み重ねることで生まれるものが、フィクションと呼ばれるものなのだ。衝撃の事実、事実に隠された真相、真実(それらは全てロン・ハワードにとっては同じことだ)といった言葉では言い表すことが出来ないなにかが、ロン・ハワードがこの映画の語ろうとしたフィクションの姿である。
 ニッカーソンの語る悲劇の真相を聞き終わり、すべてを書くのかと聞かれたメルヴィルが答える「私が書くのは真実(truth)にインスパイアされたフィクションです」という台詞は、そのままロン・ハワードの言葉のようだ(『ダ・ヴィンチ・コード』公開の際に、「話は事実ではない」というキャプションを挿入せよという要求を、映画がフィクションであることを理由に拒否したことが思い出される)。そしてその真実にインスパイアされたフィクションは、正/誤の関心を超えて、人々を畏怖させ、魅了し、不幸にもさせ、救いもするなにものかになるだろう。『白鯨との闘い』の冒頭で響いていた「未知のもの」は、こうしてようやくその片鱗を表すのだ。

 ところで、この映画はその「未知のもの」に一つの目に見える形をあたえる。メルヴィルが真実の対価と引き換えに渡す金銭のことだ。もちろんニッカーソンとメルヴィルの間で取り交わされたなにものかは、金銭という形あるものに取り替え不可能なものであるだろう。だからニッカーソンはそれを拒否することになる。今までのロン・ハワードの映画ではそこで終わっていたと思うのだが(あるいは後日談として一応語られる程度のはずだが)、この映画は、その金銭をニッカーソンの妻が回収するまでを映し出す。彼女のその冗談めかした言動を見る私たちは、今までのシリアスな雰囲気から解放されてクスっと笑みさえこぼすだろう。それは現実に対するフィクションの恩恵のようなものだ。あるいはフィクションとは(嘘や現実的な選択というよりも)、この冗談のようなものかもしれない。しかしその恩恵=冗談に気持ちよく身を沈めようとするも束の間、鯨油の時代の終焉と石油の時代の到来という(それは現在我々を支配している強靭な地層だ)、またしても勝者なしの泥沼の現実が顔を出して幕を下ろすとき、先ほどの笑みはもうどこかに消えてしまった。


(C) 2015 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC ALL RIGHTS RESERVED.

白鯨との闘い In the Heart of the Sea
2015年 / アメリカ / 122分 / 配給:ワーナー・ブラザース映画 / 監督:ロン・ハワード / 脚本:チャールズ・レビット / 原作:ナサニエル・フィルブリック / 出演:クリス・ヘムズワース、ベンジャミン・ウォーカー、キリアン・マーフィー、ベン・ウィショー、トム・ホランド
2016年1月16日(土)、新宿ピカデリー他、全国2D/3D同時公開
公式サイト



降矢聡(ふるや・さとし)
映画ライター、シナリオライター。未公開映画紹介サイトGUCCHI'S FREE SCHOOL共同運営。水戸芸術館で開催中の『3.11以後の建築』にて、岡啓輔設計「蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)」の映像『RC』(久保田誠氏と共作)が公開中(1/31まで)。

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