
文=川口敦子
欧亜混血の妻が産んだ東洋人の顔した息子。「つり目」だから醜いと、その子を拒絶する。そんな最低男をあくまで最低な男として描き切る。その点ひとつをとってみても『チャイナ・ゲイト』は人を視る眼の容赦のなさでうならせるサミュエル・フラーの戦争映画の美徳をみごとに全うしている。
1954年、インドシナ。様々な背景を匂わせるひとくせありの面々が吹き溜まったフランス外人部隊を束ね国境地帯の物資集積所破壊工作にあたる特務班の長ブロック。やはりフラーの下、『四十挺の拳銃』で演じた3人兄弟の二男、はたまた60年代に日本でも人気を博したテレビ・シリーズ「バークに任せろ!」できめた運転手つきのロールス・ロイスで出勤するLA市警の刑事にしても”色男”の領分にすんなりはまったジーン・バリーがここでは情状酌量の余地のない人種差別主義者ブロック役でまた別の顔をみせている。それにしても混血の女が西洋人に見える、だから愛せる――という主人公の半端でなく偏狭で歪んだ性根はどうだろう。どこからも文句が出ない"正しさ”ばかりを配慮する現代の映画界では成立し難いとことんの人非人だ。そんなひとりを主役として押し通すフラーの肝っ玉のすわり方もとことん痛快だ。このびくともしないキャラクター設定があるからこそ、息子のため工作隊の先導役を引きうけたヒロインが隊長ブロックの出現と同時にくらわす痛烈な平手打ちの清々しさも生きる。あっちもこっちも"いい人”にする中途半端を退けた作劇のモラルに圧倒される。醜いと父に一蹴された子のアジアの顔を真正面から大写しにして差別に抗する真実を睨む目を観客個々に要請するショットの天晴れな挑発性も見逃せない。どこまでも容赦なく人の真相に迫る覚悟に裏打ちされてこそ、偽善の腐臭を免れたヒューマニズムがフラーの映画を、とりわけ自らの歩兵としての体験を背骨にした戦争映画を輝かせるのだろう。
読者コメント