
『チャイナ・ゲイト』
文=結城秀勇
「サミュエル・フラーは正義の味方だ」と安井豊作は言った。それに付け加えるべきことはほとんどない。
今回上映される作品だけを挙げてみても、『チャイナ・ゲイト』では人種差別と植民地主義を、『裸のキッス』では娼婦や障害児を、『ショック集団』では精神病患者の処遇(とその他もろもろ)を、ためらいのない筆致で描き出すのを目にすれば、なんの疑いもなくその言葉の正しさを認めうるだろう。しかしそうした社会的弱者やマイノリティをスクリーンの上に描き出すという程度の意味での社会正義、あるいはポリティカル・コレクトネスについてここで述べたいわけではない。見る者の立場によってどちらへでも転ぶような正義、特定の時代や風俗・社会によってのみ規定されるような正義と、フラーの正義は無縁だ。したがってサミュエル・フラーは、現代のわれわれならば容易に指摘できるような不正を時代に先駆けて告発したのでもないし、逆にいまのわれわれが言い淀んでしまうような偽善を時代の要請によって暴きたてたのでもない。
そもそもフラーの正義はいかなる集団にも属さない。軍隊であれジャーナリズムであれギャングであれ、いかなる国家であれいかなる主義であれ、いかなる社会的マイノリティの集団であれ、別にそこに所属している者が所属していない者よりもマシだったりすることは決してない。『チャイナ・ゲイト』で混血の女性を演じるアンジー・ディキンソンはこう言い放つだろう。「国籍なんてあってないようなものよ。あんたたちも共産党も勝手に戦ってればいいわ」。フラーの正義とは、社会的契約とも集団内の道徳とも一切関係なく、個人が選択すべきアクションの問題である。
彼女の言葉が示す通り、フラー的な正義の第一層をなすのは、ある種の公平さでありフェアネスである。「われわれはみんな平等であり、軍隊用語でいえば"下の下"なのであった」(『サミュエル・フラー自伝』)。『ホワイト・ドッグ』の序盤、主人公の女性が山道で轢いてしまった白い犬の持ち主が見つからないことを彼氏に相談すると、前から犬を欲しがってたんだから自分で飼えばいい、と彼氏はアドバイスする。それに対して彼女はこう答える。「それは犬にとっても私にとってもフェアじゃないわ」。
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