『ダーティ・マインド』
文=湯浅学
プリンス『ダーティ・マインド』
すでに、ごく一般的なダンス・ナンバーでスマッシュ・ヒットも生んでいたのに、プリンスはこのアルバムで、より攻撃的な方向をあえて選択した。一部ではリック・ジェイムスのライヴァルとして、パンク・ファンクの先鋭と呼ばれさえした。性愛表現の過剰さと、露悪的ともとれるコスチューム。しかしそれは、スキャンダラスなイメージ戦略などという表層的なものではなかった。前2作のアルバムでは、自分の中の多様な表現欲を持てあましぎみだったが、この"問題作”の完成によってプリンスは、サウンド面でも歌詞の内容面でもヴィジュアル面でも、いわゆる業界に巣食うしがらみをふっきることに成功した。それは最大公約数との決別でもあった。
ディスコ旋風以後の硬直化した状況を打開するために、あえて鬼っ子として自らを位置づけるしかなかった。ジェイムス・ブラウンやスライ、ジミ・ヘンドリックスらと同等にサンタナやジョニ・ミッチェルから多くを学んだ、というプリンスならではの統括である。
このアルバムもやはりセルフ・レコーディング/セルフ・プロデュースであるが、自家撞着に陥る危険性を十分承知のうえで内向している。『戦慄の貴公子』から『1999』へと、このアルバムの中の問題提起は発展していくが、結局、世の中の良識とやらは、これら3作を水増ししダイジェストしたが如き『パープル・レイン』によって、やっと少しばかり突き動かされる。プリンスは、そのちょっとした成功を利用して、さらに広範で奔放な表現世界へと至るわけではあるが。
(『レコード・コレクターズ』1990年3月号)
プリンス『サイン・オブ・ザ・タイムズ』
マイルドでドライ、そいつが今日的洗練の極普遍的キーワードである。それゆえにちょっと突っ込んだだけで重いだの暗いだの言われ、少々粘っただけでしぶといだのしつこいだの言い出すバカが後を絶たない。
聴く側の変化とは、聴き方の変化によってもかなり左右される。15年前はウォークマンはなかったし、カーステレオだってもっとチープだった。なにしろCDなんて夢のかけらですらなかったのだ。聴く側のニーズに応えるという場合、そのほとんどは、最大公約数的支持、または今後その約数となりうる可能性を内包した嗜好、そのどちらかに対する快感の提供ということを意味するものである。有名ということと裕福ということがイコールだという幻想がゆきとどいた今となっては、株を買ったり土地を転がしたりすることは才能とか趣味ではなく、サバイバルのための自衛手段として、それこそ最大公約数的に認知されている。
ひとつの道をきわめるとか、自己探求に没入するとか、そういうことはさっぱりカッコよさとは縁がないようにさえ思われる。しかもたちの悪いことには、そういた探究心で我が道をすすんでいる人の多くが、没入することと視野を狭めることとを等号で結んでいるかのようにトゲトゲしく排他的な姿勢で世間に対している。自分を信じることが他人を否定することでしかない奴らがうにょうにょと、うつむきながら世間に吐きかけるツバをゴクリと飲み込んで鬱屈している。オタクが危険といわれがちなのは、単に他人を小馬鹿にしつつ自分が現実や真理から逃避している存在にすぎないということすら無自覚でいすぎる奴が多すぎるからだ。自己探求や、研究のための集中的資料収集とは、真理に至るために現世利益を捨てることである。しかし現実を否定することではない。実は現実などとるに足らぬもの、あるいは偶然という名の必然によって予定の立たぬもの、とでも思うことである。いじけたオタクなんて、ただ思うにまかせず自分のカラの中でエラそうな繰り言を吐いているだけ。自分を変えることができないからって他人にすがっているだけなのに。それでいて結局求めているものが〝人なみの幸福な生活〟だったりするなんてちゃんちゃらおかしい。覚悟を決めたオタクとは、一般的社会生活によってもたらされる充足感などとはまったく無関係に生きているのだ。それだけに世間の眼などどうってことないものなのだ。
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