boidマガジン

2016年08月号 vol.2

大音海の岸辺 第29回 前編 (湯浅学)

2016年08月13日 22:17 by boid
大著作集『大音海』の編纂を兼ね、湯浅学さんの過去の原稿に書き下ろしの解説を加えて掲載していく「大音海の岸辺」第29回は、前2回に引き続きまだまだやります、プリンス特集。オランダ・ロッテルダムで行われた1990年の「ヌード・ツアー」初日&2日目のライヴを、それまでのプリンスの変遷を振りかえりながらレポートした1万字を越える長文記事を再録します。もちろん湯浅さんが当時のことを振り返って書き下ろした解説付き。プリンスという唯一無二の音楽家の偉大さを再確認できる文章です。

「ヌード・ツアー」2日目のライヴ音源が収録された『NUDE TOUR IN ROTTERDAM』



裸の王子


文=湯浅学


雨のロッテルダム

 開演2時間前から雨が降り出した。
 1990年6月2日。ロッテルダムは昼過ぎから淀んだ雲に覆われていた。午後3時を過ぎるころには冷気をともなった風が吹き始めた。街を流れる運河は静かに揺れていた。市街の南東部にあるサッカー場=フェイノード・スタジアムには、その日の早朝から観客の長い列があった。フィールド部分のオール・スタンディングの客席は早い者順だったのだ。怪しげな雲行きを考慮して雨具の用意を怠らなかった者の数は知れていた。それどころではない。今日こそがプリンスの90年代最初のツアー、その幕開けの日なのだ。濡れそぼったままスタジアムの内といわず外といわず、うろつきまわるやつらがうようよしている。
 大粒の雨だった。
 スタジアム正面ゲート周辺はゴミだらけだった。長時間開場を待っていた人々のアリバイだ。会場の内と外にあふれるざわめきを雨が消してゆく。しかしずぶ濡れの観客たちは自主的に会場一丸となって拍手と雄叫びのウェーヴでこれに対抗する。ウェーヴは何度も何度も湧き起こる。
 祈りは通じる。雲が流れ、雨足がまばらになる。
 オープニング・アクトのジェニー・モリスのステージが終わった午後8時ごろには、初夏のオランダの遅い夕暮れを告げる西陽がうっすらと差しさえした。セット・チェンジ。「パレード・ツアー」のときのようなステージを遮蔽する大きな幕はない。雨避けのシートが取りはらわれ楽器群が現われる。両側にスロープがついているが、金色のフェンスが唯一の装飾といえる黒い階段状の簡素なセット。円型でもなければセリ上がりもなく、ブランコもバスケット・ボールのゴールもベッドもない。下手のスロープの上にある青いグランド・ピアノがひときわ光彩を放っている。おもむろにスタッフが動きまわっている様が、奇妙なほどほのぼのして見える。時の流れが遅く感じられてしかたがない。
 午後の9時をまわったころ再びスタジアムは黒い雲に覆われた。冷たい風とともに雨は観客のヒートアップした頭上に今度は細い霧雨となって降りそそぐ。しかし一方的に歓声は高まる。むしろこの雨を恵みと感じでいるかのように。ステージ上からスタッフが消える。スモークが矢場にあふれる。何度体験してもこの人のステージの開始直前には、強い緊張感にみまわれる。
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