今週2本目の映画川は『ハドソン川の奇跡』(クリント・イーストウッド監督)を取り上げます。事故発生からハドソン川への不時着まで208秒、近くを航行していたフェリーが着水現場に到着するまで4分20秒――。短時間で起こった事件を題材としたこの作品が私たち観客に示すものは何か、樋口泰人が考察します。
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手の中の秘密の35秒


文=樋口泰人


 驚くのはいきなりクライマックスであるということだ。たとえばいったんそれを見せておいて、そこからそれ以前を振り返るのではなく、クライマックスが延々と続くのではないかと思わされてしまう奇妙な昂揚感。すべての事態が終了してしまったにもかかわらずすべてが続いていて、しかしもう後戻りのできないという感覚が続く。そんな場所に踏み入れてしまったことが冒頭から示される。残念ながら具体的なシーンの指摘ができない。ぼんやりとしているが確かな記憶だけが残っている。とにかくこの映画はもはや、飛行機が落ちるか落ちないか、あるいは落ちないようにパイロットたちがどのように対処したか、そのプロの手さばきと知恵と戸惑いと決断を観るための映画ではないことが、冒頭から伝わってくる。

 『ハドソン川の奇跡』と題されたこの映画を前にしたとき、わたしたちは例えば『アポロ13』(ロン・ハワード監督/1995年)のような、限られた時間の中で丸いものと四角いものを隙間なくつなげて空気を確保しなければならない飛行士たちの瞬時の決断と、それを遠く離れた地球から見守ることしかできない家族の胸の痛みとを、驚嘆と共感とともに観るようなことを許されない。もはやそのような場所は、わたしたちには残されてはいない。映画は常にいくつもの場所を見晴らすことのできるひとつの視線を提供することで世界中の多くの人の娯楽を提供してきたが、今や映画は、ひとつの場所を観ることしか許されないひとつの視線と、そのひとつひとつの視線の集合体としての不確かな場所を提供することしかできないのだとでも言うかのように、この映画では、飛行機の不時着シーンが視線を変えて何度か繰り返される。

 しかしその1度目の冒頭のシーンからそのことがあからさまに伝わってくるような気がするのはいったいどうしてなのだろうか。タイトル通りの「その後」を生きる人々の幽かすぎるつながりと世界との薄すぎる関係を描いた『ヒア アフター』(クリント・イーストウッド監督/2010年)を観てしまっているからだろうか。あるいは無人島に不時着した挙句誰にも見つけられず数年が過ぎ、ようやく帰還した男の帰還までのあれこれだけではなく、帰還後の曖昧な茫然感がわたしたちを別の場所へと連れ去る『キャスト・アウェイ』(ロバート・ゼメキス監督/2000年)が示す「その後」の停滞する時間を知っているからだろうか。あるいは映像がひとつの視線しかもたらしえないことが最新のデジタル技術を駆使して語られる『デジャヴ』(トニー・スコット監督/2006年)の、繰り返されるが決して前回の経験値が反映されるわけではない「体験」の希薄さが身に染みているからだろうか。あるいはまた、『キャスト・アウェイ』の監督が『デジャヴ』の主人公を使って作った、どこか『ハドソン川の奇跡』にも似た物語を持つ『フライト』(ロバート・ゼメキス監督/2012年)の最後の主人公の曖昧な表情に、そのまま『キャスト・アウェイ』の主人公の最後のぼんやりとした微笑みを重ねてしまう妄想の力によるものだろうか。


 いずれにしても繰り返される不時着シーンとその検証の中で、結果的にわたしたちに示されるのは人間が自分の周りに起こった事態を把握して決断を下すには、最低30秒だったか35秒だったかが必要だという事実である。あとは自動的に道筋が出来上がる。人間の力が及ばない範囲と言ったらいいか、人間の力を鍛えることでどうにでもなる範囲とも言ったらいいか。人間が機械のように動ける範囲であり、人間でも機械でも同じことができる、非人間的な範囲である。逆に言えば、人間が人間として戸惑い迷い痛みを感じ何かを決めるあくまでも人間的な時間は、われわれにはたったの35秒しか残されていないということである。この映画はその35秒だけのためにあると言ってもいい。パイロットの決断が本当に正しかったのかどうか、結局はその35秒がなければ何もわからないということが、あらゆる検証の確かさの末に語られるのである。冒頭の不時着シーンですでに、ひとつの視線がひとつの場所しか示さないことが伝わってくるのは、その時の機長のしぐさにもはや迷いや困惑がどこにもない、あまりに的確すぎる行動が示されるからだろう。その時はすでに、人間的な時間が終わり、「その後」が映されていただけなのである。その後に映されるシミュレーション・マシンを使っての着陸の映像と、それは変わらない。

 そのことが示すのは、ひとつの視線がひとつの事実しか示さなくなったのは世界のシステム化がそこまで進んでしまったからだ、ということだ。映画にも曖昧さは残され得ない。『インターステラー』が示すのも、そのようなことではなかったか。本棚の裏側の異次元から、父親が娘に向かって本を落としていくほんのちょっとの時間。われわれは残された最後の35秒で勝負しなければならない。映画の時間は35秒。それ以上は誰が作っても同じものしかできない。自主製作だろうがハリウッド大作だろうが同じである。シミュレーション・マシンは何度やっても同じ結果を出すだろう。『アポロ13』では、宇宙船の中で悪戦苦闘する同僚たちのために、地球に残った飛行士がシミュレーション・マシンに乗って、現実の宇宙船の中の仲間たちとともに、次への決断を探ることができた。しかし『ハドソン川の奇跡』ではそれは可能性に向けて使われるのではなく、必然への道筋の確認のために使われるに過ぎない。道は閉ざされてはいないが、ひとつしかない。どこかの政党が選挙の際にそんなポスターを作っていなかったか?

 だが私たちには35秒があるのだ。その中にすべての人生が凝縮する。わたしたちはそこで、正しい決断も間違った決断もすることができる。どちらでもいいのだ。『ハドソン川の奇跡』の主人公は、正しい判断をしたからわたしたちを感動させたのではない。ただひたすら私たちには35秒が残されていることを主張して、その不確定さへの信頼ゆえにその他では徹底して機械的に動いたからだし、そしてその35秒はあくまでも小さな個人の手の中にあるもので、大勢で共有できるものではないことを示したからだ。わたしだけの秘密の35秒が、わたしの手の中にある。あくまでもその小ささを全力で生きたからだ。この映画の原題は主人公の名前「SULLY」なのだが、それは彼自身のことでもあり、彼の手の中の秘密の35秒のことでもあるだろう。

 わたしたちの目の前には秘密の35秒の後の風景が広がっている。常にそれだけが目の前にある。35秒を握りしめながらその後を生きると言った方がいいだろうか。映画はその後しか映すことはできない。ひとつの視線とひとつの場所がそれらを構成する。もはや世界中のだれがどうやっても大した違いはないひとつの視線とひとつの場所だが、そのどこかに秘密の35秒がある。それだけでいい。

ハドソン川の奇跡 SULLY
2016年 / アメリカ / 96分 / ワーナー・ブラザース映画配給 / 監督:クリント・イーストウッド / 脚本:トッド・コマーニキ / 出演:トム・ハンクス、アーロン・エッカート、ローラ・リニー
大ヒット公開中
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樋口泰人(ひぐち・やすひと)
映画批評家、boid主宰。現在、『地獄の黙示録』『地球に落ちて来た男』が公開中(各劇場の上映スケジュールはリンク先の公式サイトでご確認ください)。12月6日(火)、「アナログばか一代 〜アラン・トゥーサンとニューオーリンズ vol.2〜」を湯浅学さんと直枝政広さんを迎えて開催。来春公開予定の映画『PARKS パークス』のフリーペーパーを不定期で発行中(リンク先よりダウンロードできます)。