今回の映画川は1月21日(土)から日本での上映が始まった『沈黙-サイレンス-』を取り上げます。マーティン・スコセッシ監督が今から28年前に遠藤周作の原作を読んで以降、長らく映画化を望んできたという本作は、江戸時代の長崎を舞台に幕府によって行なわれたキリシタンの弾圧を1人のポルトガル宣教師の目を通して描いた作品です。本作に登場する「死なずに生きようとしている人」の姿について、ライターの鍵和田啓介さんが考察します。
※こちらの記事は読者登録されていない方でもご覧いただけます






文=鍵和田啓介


 死ぬ気で頑張る。死ぬほど好き。死に物狂い。このように、死を極限の比喩とする表現は枚挙にいとまがない。しかし、本当にそうだろうか。死ぬことはそんなに難しいことだろうか。どうしてもそうは思えない。死ぬことほど簡単なことはない。本当に難しいのは、死なずに生きることである。だからというべきか、死なずに生きようとしている人の生き様は問答無用に美しいのである。『沈黙-サイレンス-』を見て、改めてそんなことを思った。
 『沈黙-サイレンス-』は、江戸時代の日本における幕府のキリシタン弾圧の有様を、ロドリゴという1人の若きポルトガル人司祭の視点から描いている。幕府がキリタンに問うているのは、「生きるか、死ぬか」である。より詳しく言うなら、「信仰を捨てて生きるか、信仰を全うして死ぬか」である。信者にとっては、この問いは自分自身の問題に帰する。そして、多くの信者は信仰を全うして死を選ぶ。しかし、この問いは、ロドリゴにとっては、自分自身だけの問題とはならない。幕府が、「お前が棄教しないと信者を殺す」と脅しをかけてくるからだ。本作はこの二者択一に引き裂かれ続けるロドリゴのドキュメントである。
 しかし、たった1人だけこの二者択一を拒否する存在がいる。キチジローという男である。キチジローには踏み絵を踏んだ過去がある。踏んだにもかかわらず、ロドリゴに懺悔し再び洗礼を乞う。しかし、幕府に要求されれば、再び踏み絵を踏み唾まで吐きかける。挙句の果てには、ロドリゴを幕府に売り渡しさえする。そんな仕方でキチジローは二者択一を拒否する。信仰を捨てずに生きる道を選ぶ(言うまでもないだろうが、彼は踏み絵を踏んだが信仰を捨てたわけではない。踏み絵を踏んだくらいで捨てられる信仰など信仰ではない)。
 ロドリゴはそんな彼の行動を侮蔑する。「弱虫」だと非難する。しかし、私には彼の行動を否定することなどできないし、強いとも思う。むしろ相手の提示してきた二者択一に引き裂かれているロドリゴの方が弱いと思うし、彼こそキチジローのように立ち居振舞うべきだったと思う。もっというなら、ロドリゴよりもキチジローの方が信仰のなんたるかを分かっていたと思う。信仰とはもっとも簡単に言うなら、この世界をそのまま信じることである。水面に映った自分の顔をイエスのそれとして見てしまうロドリゴと、常に地上を這い蹲り泥まみれになっているキチジローを比べてみれば、どちらがこの世界をそのまま信じているのかは自ずと明らかだろう。
 繰り返す。死なずに生きることは難しい。であるがゆえに、死なずに生きようとしている人の生き様は問答無用に美しい。したがって、キチジローは美しい。


付記:本作の環境音は凄まじかった。特に始終鳴き続ける蝉の音。原作でも「蝉の声」の描写はしつこいくらい書かれているので、その忠実な再現ではあるものの、おそらく蝉の音を聞き慣れてない西洋の観客は、この音によって音響的にも日本に迷い込むことになるのだろう。とかなんとか思いながら見て(聞いて)いたら、エンドロールも蝉の音(だけではないが、音楽なしの環境音だけ。いわゆる現代映画ではよく見かける手法だが、ハリウッド映画では初めて見たような)。


沈黙-サイレンス-  Silence
2016年 / アメリカ、メキシコ、台湾 / 161分 / 配給:KADOKAWA / 監督:マーティン・スコセッシ / 脚本:ジェイ・コックス / 原作:遠藤周作 / 出演:アンドリュー・ガーフィールド、リーアム・ニーソン、アダム・ドライバー、窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形、塚本晋也、小松菜奈、加瀬亮、笈田ヨシ
2017年1月21日(土)全国ロードショー
公式サイト




鍵和田啓介(かぎわだ・けいすけ)
ライター、編集者。「POPEYE」「BRUTUS」「Numero」を始め、雑誌を中心に執筆を行っている。「イラストレーター・長場雄さんとの共著『みんなの映画100選』(オークラ出版)が発売中。JRAが運営する競馬サイト「Umabi」で「馬と映画」を連載中。