boidマガジン

2017年03月号 vol.4

映画川 『PARKS パークス』 (土居伸彰)

2017年03月31日 17:22 by boid
今週号2本目の映画川は、4月22日公開の映画『PARKS パークス』(瀬田なつき監督)を取り上げます。先月号の川口敦子さんに続き、井の頭公園と吉祥寺を舞台に50年前に作られた歌を完成させようとする若者たちの姿を描いたこの作品について、土居伸彰さんが書いてくれました。本作のクライマックスともいえるミュージカルシーンを起点に、この映画と主人公たちの物語=生がいかに紡がれているかを考えます。
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同じようで無数に違う私達の物語 『PARKS パークス』


文=土居伸彰


 『PARKS パークス』でとにかく心を揺さぶられるのは、終盤に訪れるミュージカルシーンだ。正確に言えばその少し前、それまで盤石の絆であったような主人公たちの関係性に変化が訪れて、作品のリアリティ自体が少しずつ揺らぎはじめるころから。それらがまるで兆しのようにして少しずつそれまでの世界の姿にヒビのようなものを入れるなか、あのミュージカルシーンによって、何かの諦めというか、何かが明らめられる。それまでの世界の見え方はひとつの錯覚のようなものであって、主人公たちが本当に生きている場所というものが、大きく開けて見えてくる、そんな感覚がある。それが語っているのは、簡単に言えば皆は結局一人ずつで生きているということなのだけれども、それほど単純なことでもなく、それ以上の何かを潜ませている。
 半径数メートルの小ささや密室感もなく、かといって公園や吉祥寺の街全体を巻き込むような巨大なものでもなく、カメラが捉えうるくらいの「中くらい」のあのミュージカルシーン。そのシーンの中心にいるのは主人公の純である。『PARKS パークス』は、主人公の純が自分自身の人生から逃げてきたことを直視せざるをえなくなり、最終的には自分自身の生を生きはじめるまでの物語だと要約できる。だがやはり、これもそこまで単純なことではない。なんというか、自分自身を見いだすことに、それほどカタルシスがあるわけでもなく、どちらかといえばあっさりとしていて、人によってはそっけないとさえ感じられるかもしれないというその語り口が気になる。いま「自分自身の生」と言ったけれども、そのささやかさゆえに、「生」という言葉は大げさすぎて似合わない。自分自身の「生活」……いや、一番しっくりくるのはおそらく「物語」だろう。そして生と物語はイコールで結んでよいはずだ。純が自分自身の物語=生を紡ぎはじめるのが、『PARKS パークス』である。でもやはり、純の物語であるとは言い切れず、他の何かでもある。



 ミュージカルシーンのあと、物語は純の元で収束していこうとするが、それだけでもない。この映画を観たとき、観客はおそらく一番に、「ハルとは誰なのだろう?」とは思うことになるだろう。井の頭公園に、吉祥寺に、突如として飛び込んできて、そもそもの住人である純やトキオたちに過去を探らせ、そのあいだにつながりを見出させる存在だ。でも、本当のところは、純のほうがより存在が不明瞭なのだ。トキオはハルによって自分自身のおばあちゃんの過去を探ることになる。だが、純にとっては? 彼女にとって、過去の音源を探るこの物語は、血縁という意味での自分自身のルーツとは関係ない。あくまで卒業論文を書き、単位をもらい、就職をするためというきわめて「現実的な」理由でしかない。もちろん、物語が進むなかでは、彼女の過去自体が少しずつ浮き上がってくることにはなるけれども、それはとても些細なものだ。それらの過去のエピソードは、浮島のようにぷかりと浮かんでくるようであって、果たしていま眼の前にいるこの純にとって、本当の過去なのかどうか、いまいち確信がもてない。
 『PARKS パークス』自体がそもそもそのような不思議なかたちで浮遊するような歴史感覚を持っている。たとえば、100年前から続く公園の物語を語るように思えて、いま現在の公園・吉祥寺の物語であるような感覚が強い。それは純の過去の薄さがそうさせるのだろうし(彼女はおそらく大学のために吉祥寺に住んでいるだけだ)、それに、ハルが探す父親晋平も、その元彼女でトキオのおばあちゃんでもある佐知子も死んでしまっている。二人は登場したとしても、純たちの同年代の頃の姿でのみ現れる。大人といえるような存在は、佐知子と晋平を知る「寺田さん」というおじいさんと、佐野史郎演じる大学の教授くらい。彼らは直接的に物語に関与するというよりは、少し距離・次元・時間を置いたところから若者たちを見守っている。すべては、今ここの井の頭公園と、純たちがその存在を受信してようやく姿を魅せる程度の、浮島のような距離感と物量の過去だけだ。
 その直接的なつながりの薄さゆえか、純はまるで、この公園の物語を語るために登場したような気さえしてしまう。純は、まるで桜の咲くこの公園の風景のなかに、エンピツやCGかなにかで描きこまれたかのようにして登場する。桜、木々、橋、池、鴨、お花見する人、ブルーシート、犬の散歩、橋、朝のラジオ体操、並んだベンチ……に座るカップル。冒頭で語られるそれらのモチーフを目にとめ、記録するために。冒頭で彼氏と別れる純のエピソードは、まるで公園のベンチに書かれた「Love Forever」という落書きが生みだしたようにさえ思う。
 そんな儚さゆえか、ミュージカルのあと、主人公たちはひとりひとりの世界へと別れていくように感じさせる。とりわけ純とハルは、本当はそもそも出会っていなかったのかもしれないとさえ思えてくる。でも、二人の出会いは、完全に錯覚だったというわけではないような気もする。そう思わせるのは、やはりミュージカルシーンのささやかさだ。カメラの映る範囲でしか出来事は起きてないし、写っている人たちのなかでも、純たちが作り出す刹那的なハーモニーのようなそのミュージカルのなかに完全に調和していない人たちが多い気がする。あくまでそれぞれの人たちが、個人個人の物語=人生を紡ぐ「ついでに」、混じり合っているかのような。小さくて純粋な個々の生の物語が、偶然共鳴しあうような。そのような存在の不透明さこそが、『PARKS パークス』を純の物語にしきらない。誰か特定のものというわけではなくて、公園で過去を過ごしたことがあるすべての人が、純をその一部とする可能性があるような状態にする。そして同時に、純の一部となるような状態にする。同じような生を紡ぐ、少しだけバージョンの違う存在として。
 『PARKS パークス』のなかで、純も、ハルも、物語の語り手である。そしてトキオもまたツイートによって自分の物語を紡ぐ。その誰の物語も、『PARKS パークス』の全貌を包括的に書いてしまうことはできていない。みなそれぞれの領分で、自分自身の納得のもとに、公園の、そして自らの物語を描き始めるというだけである。純やハルの執筆活動とは、自分の人生の物語を作ることである。だから、『PARKS パークス』で描かれる触れ合いは、純やハルがそれぞれに想像したものでしかないかもしれないのだが、でもそれは、実際に起こったことなのだ。別々のときに別々の目的で、別々の用事で公園に訪れた人たちが偶然時と場所をともにしたように、二人の想像が偶然に一致して、互いの存在を自分自身の生に取り込むかのように。そしてそのことは、過去の人々の記憶や存在とも共鳴しえるということなのだ。



 『PARKS パークス』のミュージカルシーンがなんだかとても感動的な理由は、そこにあるのかもしれない。公園にはみな各々、自分の物語を紡ぎにくるだけだ。でも、それらが何かの機会があったときに(たとえば偶然同じ時代に生まれ、偶然同じ公園を通り、同じ歌を時代を超えて共有し……といったような)、なんとなくつながりをもつ。本来は交わらないはずだったものが。そのとき、公園は、その複数の物語を胚胎するためのSNSのようなプラットフォームとなる。だから、純やハルは、それぞれに物語=生活を紡ぐ人たちがいるということの、ある種のアイコン、シンボルであり、複数のバリエーションをつなぐ媒体である。彼女たちの紡ぎ出すハーモニーが、似たような(でも絶対に同じではない)物語=生活を紡ぐ人たちとのあいだに、共鳴を引き起こすための。
 だから彼女たちの物語は語りが終わっても、本が閉じられたとしても、まだまだ続くだろう。たとえば、その若者たちの様子は、過去ここにいて、しかし行ってしまった人たち・消えてしまった人たちによって見守られるだろう。たまに彼女たちの物語のなかで、彼らもまた彼女たちのようであったことも思い出されつつ。完全に同じではないけれども、似たようなものであったなにかとして。そして、私たちもまた、それを見守る存在であるのだった。『PARKS パークス』を観れば、自分自身が過去、井の頭公園やどこか別の公園で紡いだ物語について、語りたくなる。語っていいのだと許された気分になる。トキオは「少しずつ街並みはシャッフルしていく」とラップするが、少しずつシャッフルされるのは、街並みだけではなく、私たちでもある。かつてここを行き交った人たちと同じように、今スクリーンで目にした人たちと同じように、でも少しだけ違ったかたちで、私たちは物語=生を語っていく。ハルが自分自身の物語であるところの『PARKS』というタイトルの本を閉じるとき、そしてその本を手にして歩きはじめるとき、それが語るのは、私たちもまた、少しずつ変わる情景のなかで、自らの物語をある種の奇跡のような偶然として、自分自身に純でいながらふとすれちがいあった人たちとつながりあう何かをもつものとして、自らの存在について、その物語について、語りはじめていいということなのだ。


PARKS パークス
2017年 / 日本 / 118分 / 監督・脚本:瀬田なつき / 音楽監修:トクマルシューゴ/ 出演:橋本愛、永野芽郁、染谷将太、石橋静河、森岡龍、佐野史郎
4月22日(土)よりテアトル新宿、 4月29日(土)より吉祥寺オデヲンほか全国順次公開
公式サイト





土居伸彰(どい・のぶあき)
短編・インディペンデント作品を中心に、数々のアニメーション作品の研究や評論を手掛ける。株式会社ニューディアー代表として、アニメーション映画の配給やアニメーション・フェスティバル「GEORAMA」を主催。新千歳空港国際アニメーション映画祭のフェスティバルディレクターも務めている。初の単著『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』(フィルムアート社)が発売中。4月1日(土)に山口情報芸術センター(YCAM)でユーリー・ノルシュテイン特集上映と『この世界の片隅に』の上映の合間にトークショーを行う。

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