デミ監督の長年の友人でもあったニール・ヤングを介して見えてくる主人公のリッキー(メリル・ストリープ)の姿や本作の主題。そして本作出演後に相次いで亡くなった2人のミュージシャン、リック・ローザスとバーニー・ウォーレルの存在がこの映画にもたらしたものについて書かれたこの文章を、ほほえみとともにデミ監督に捧げます。

戦いの代わりにほほえみを――ジョナサン・デミ『幸せをつかむ歌』
文=樋口泰人
メリル・ストリープがニール・ヤングにギターの指導を受けたのだという。それがどの程度のことだったか知る由もないのだが、とにかく本作では冒頭から、彼女がギターを弾きまくる。実際に演奏しているのだという。メリル・ストリープ演じる主人公のリッキーが音楽活動を始めたと思われる60年代末あたりは音楽業界もまだまだ十分に男社会で、その中で単にシンガーとしてだけではなく、ギタリストとして、そしてバンドリーダーとして生きていくことは、どれだけ大変だったか。冒頭のリッキーのギターの強い響きは、その歴史の産物なのだと言えるように思う。おそらくストリープがニール・ヤングから伝授されたのは、単に技術的なものというよりも、彼女がもし本当に60年代末からロック・ギタリストして生きてきたとしたらどうだったかという、ニール・ヤングが見てきた女性ミュージシャンたちの歴史ではなかったか。
もちろんそれこそがこの映画の物語の軸でもある。彼女はミュージシャンであるだけではなく「母親」でもあらねばならない。男社会はどちらかをあきらめるのだと、彼女に要求し続けてきた。この映画の中でも、何度も似たようなやり取りがされる。母親を取るか音楽を取るか。それに対してリッキーは、両方を望んで何が悪いのか、というようなことを言う。ミュージシャンであり母親であることは両立する。それが彼女の前提である。ただ両立するその仕方が、男社会の望む両立の仕方とは全然違うのである。彼女が社会とうまく行かないのは、彼女の無意識かもしれない生きる前提が、今あるこの社会の前提を根底から覆すものだからだ。ギターの音はまずなによりも、そこに向けて発せられるはずだ。あるいは、その生存をかけたギリギリのやり取りの中から生まれてくるものだろう。
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