
若き原理主義者の反抗
文=大寺眞輔
クラスで孤立する反抗的な思春期の青年。彼が周囲の人間や教師たちと深く対立していく姿を、親密でリアリスティックな眼差しとクールでスタイリッシュなコンポジションのなか描いたのがこの作品『The Student』だ。と説明すると、もしかしてダルデンヌ兄弟のような作風を想像するかも知れない。だが、キリル・セレブレンニコフが描く現代のロシアはそれほどクラシックな構図には収まらない。大人たちと闘うため青年が手にするのは聖書であり、彼はそこに記されたキリストの言葉を<彼独自の原理主義>へと純化させる。世俗的な母親、事なかれ主義の校長、進歩的でリベラルな生物学教師、さらにはロシア正教の神父とまで激しく対立する青年は、自らこそ聖書に裏打ちされた<権威>であるとして彼らに辛辣な批判を投げかけ、言葉の暴力を行使する。進化論のクラスを破壊し、同性愛を唾棄すべき退廃と断じ、反ユダヤ主義を公然と口にする。青年は、聖書の言葉を武器として<自らの正しさ>を阻害する全ての大人たちのシステムを破壊しようとするのだ。青年を捉える作品の佇まいは、やがてナチュラリズムの慎ましさを超え、ルイス・ブニュエルやラース・フォン・トリアーにも似たグロテスクなコメディへと変容していくだろう。だが、その醜悪さは決してロシアのドメスティックな問題にとどまらない。あるいは全編にちりばめられた激しい宗教論争や実際に画面上に逐次示される聖書のチャプター番号に関わらず、キリスト教固有の問題とさえ言えない。そこで関心の中心にあるのは、(日本に住む私たちにとっても例えばネトウヨ問題としてきわめて身近な)あまりに過激でありながら、同時に浅薄で戯画的な原理主義の世界的台頭である。さらに言えば、それが単なる社会現象として描かれるのではなく、映画的眼差しのなか、私たちの世界が苦悩する表情として即物的に生き生きと切り取られる点にこそ『The Student』の素晴らしさがあると言えるだろう。
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