
文=川口敦子
昨秋、ニューヨーク映画祭での『パターソン』米プレミア上映に合わせて行われた監督ジム・ジャームッシュのトーク・イベント。その記録動画を見ると映画祭ディレクター、ケント・ジョーンズを相手にお気に入りの映画の数々を、大いなる脱線と共に語るジャームッシュがいて思わず引き込まれた。取材の席では分析は嫌いと自作のスタイルや意図や意味や主題や主張を語るのを頑なに避けようとする彼が、例えば『デッドマン』でのロバート・ミッチャムの仕事ぶりを訊くといきなり身振りもつけた声色まで披露して(NY映画祭でのスコセッシのマシンガントークの声帯模写もそうなのだが、ジャームッシュ、これがすごく巧い!)、舞台裏の挿話やリスペクトの気持を意外なほどに饒舌に語ってくれたのを思い出したりもした。『裸のキッス』から、この一作を見て禁煙に成功したという岡本喜八版『大菩薩峠』まで、ともかく多様で旺盛な映画への興味と知識と愛とが炸裂のトークは、ファンにはたまらない愉しさで、ぜひ一度、チェックしてみることをお勧めしたい。と、なんだか最初から脇道にそれてしまったが、そんなイベントでも、あるいはまたそれに先立つカンヌでの上映後の記者会見でも、ディレッタント、アマチュア、そうして変奏というのが自身の創造上の聖三位一体的な要とジャームッシュは位置づけている。新たな快作『パターソン』を吟味する上でもこの発言は気にしてみていいだろう。
暮しを立てていくためのバス運転手という仕事を持ちつつ詩を書く主人公パターソンは、まさに愛のために、はたまた純粋な楽しみでそれをするアマチュアでディレッタントな詩人に他ならない。もちろんそうした生き方は映画の源にいる詩人(医師として生計を立てていた)ウィリアム・カーロス・ウィリアムズとも無縁ではない。5編からなる長詩「パターソン」に彼が書いた「思想ではなく事物/具体を」との一節を背骨とするようにジャームッシュの映画は変わらない日々の些事をこそ掬い、そこに生起するささやかな事物の変化に目をとめる。そうすることで起承転結に追いまくられるドラマをすりぬけ、詩の心を掬い取る。循環バス23番の定められた同じルートを日々なぞる運転手パターソンの耳に、目に、飛び込む小さな異変が拾われ、彼がそっと微笑む瞬間が詩の芽となっていく。
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