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2017年07月号 vol.3

映画川 『密使と番人』 (樋口泰人)

2017年07月22日 23:18 by boid
今週ふたつ目の映画川は、7月22日(土)からレイトショー公開&29日(土)にテレビ放映される『密使と番人』(三宅唱監督)を取り上げます。19世紀初頭の鎖国下の日本を舞台にした「時代劇」でありながら刀も馬も登場せず、冬山をひたすら歩く「密使」と彼を捜して歩く山の「番人」たちを映し続ける、「両岸のない河」のような本作について、樋口泰人が考察します。
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ドライブ・マイ・カー


文=樋口泰人


 旅の途中、疲れ果てた男が路上でわらじを替える。新しいわらじと替えるのではなく、自分のボロボロになったそれを脱ぎ、路上に倒れた男のわらじを取って、それに履き替える。そんなシーンを時代劇の中で見たことは記憶にない。いやもちろんそんなシーンがある時代劇はどこかにあるだろうし、誰もが知る時代劇の中に入っていてもおかしくないのだが、それでもこの映画のわらじの履き替えは「かつて見たことのない」と言いたくなるような奇妙さがあるにもかかわらず、さも当然といった普通さに包まれていて、やはりこんなシーンはかつて見たことないと言うしかない。

「この映画の遅さは次のことを意味している――示されるべき出来事のすべてを、出来るかぎりすみずみまで示すこと。家畜の群れが河を渡るときには、最初の一頭が河に入るところだけでなく、最後の一頭が河から上がるまでが映し出され、群が河をわたるということがどんなに大変かを目の当たりにすることができる」
(ヴィム・ヴェンダース『エモーション・ピクチャーズ』より)


 久々にこんなヴェンダースの一文を思い出しもしたのだが、この映画ではその最初の一頭も最後の一頭も映されず、というか、川の両岸がない。すべてが河の中、陸は遠い向こう、任務を果たして大切な地図をクライアントに渡してもそこで休めるわけではなく、何かを食せるわけでもなくただそのまま山中へと引き返していくしかない。確か冒頭は黒味の部分から時代劇には不似合いな電子音が、ヴェンダースつながりで言えば『アメリカの友人』で主人公がビートルズの「ドライブ・マイ・カー」を口ずさんでいた、そんな鼻歌のような感じで流れて、それが、すでに山中にいる主人公の荒い息遣いにつながっていたと思う。だからなんだか全然辛そうじゃないし、それくらいの息遣いが当たり前のようにも見えたりするのだが、でもやっぱりそれは辛いよねえということがわらじのシーンを含めて次第に分かってくる。負傷中の左腕はそれが決定的な何かとなる瞬間はまったく訪れないが、しかしそれがあくまでも日常ゆえに普通に辛そうだ。主人公を追い詰めた男がどうして息を切らしたまま立ち上がれなくなってしまったのか、決定的なショットはここでも見せられることはないが、いつかどこかでそれは起ったのだろう。常に山の中というか河の中というか、ボロボロになったわらじはどうにも歩きにくく、そして川底に足がつくことは永遠にないだろう。だがそれが普通なのだ。我々に決定的な瞬間など訪れることはない。



 しかしあの電子音はどこかで聞いたことがある。もちろんOMSBとHi'Specによる音楽なので『THE COCKPIT』の延々と続くスーパーボールころがしの遊びのシーンがすぐに思い浮かぶし、いくつものレコードからサンプリングして出来上がるビートのゆったりした時間の流れをそこから感じることもできる。永遠に終わりのないはずの遊びがいつまでも続く、あの時間がそこにも流れている。目的のないゲーム。あらかじめ達成されることない夢。停滞するのではなくひたすら動くゆえにあらゆるものが停滞し、時間が淀み、身体から力が抜ける。そんな力の抜けた身体からふと漏れてくる音がそこにあると言ったらいいのか。そしてそれゆえにわれわれはいつどこでも当たり前のようにスーパーマンになることができる。

 そんな音を初めて聞いたのが、ローリー・アンダーソンの「オー・スーパーマン」だった。


 この曲のいつまでも同じテンションで続くだろう息遣いのような電子音と周囲の音の小さな変化の果ての世界の変容に、もう大きな物語はいらないと思ったのは35年以上前のことになる。それから世界では幾度大きな物語が繰り返されたことか。2004年にブルース・ウェバーが監督した『トゥルーへの手紙』について、以下のように書いたことがある。

「マイケル・ムーアの『華氏911』の罪は、「アホでマヌケなアメリカ白人」をジョージ・ブッシュに代表させてしまったことだ。なんてことを、ブルース・ウェバーは思っているのではないか。彼が監督した『トゥルーへの手紙』を見ながら、そんなことを思った。つまり、『華氏911』の白人アメリカへの批判の視点がいくら正しくても、種々雑多な人々の混合体であるはずのアメリカを、「アホでマヌケなジョージ・ブッシュ」というひとつのイメージで、それは覆ってしまう。結局、分かりやすいアメリカのイメージが流通するばかりなのだ。そんな思いが、『トゥルーへの手紙』には込められているように思えたからだ。
アメリカにはいろんな人が住んでいる。当たり前のことなのだが、『トゥルーへの手紙』で語られるのは、そんな事実である。トゥルーという名を持つ飼い犬への手紙というスタイルで語られるこの映画には、B・ウェバーが仕事やプライヴェートで出会った人々が次々に登場する。ダーク・ボガードやエリザベス・テーラーのような有名人もいるし、まったく無名の人もいる。生き方も生活スタイルも思想も違う。アメリカ人やアメリカ人でない人やアメリカとは無関係に生きている人もいる。ただそれだけのことが、ひとりの人間の思い出として語られていく。その徹底した私的な視線が捕らえたアメリカは、誰にも代表されないアメリカである。飼い犬に語りかける「私」という個人以外の何ものでもない「アメリカ」……」

 「密使」と「番人」という固有名ではない職業名がタイトルになったこの映画は、それぞれがその仕事を全うすることを積極的に果たしつつ、しかしその仕事の背景にあるものに頼ることはない。陸に上がることはなく川底に足がつくこともなく、わらじが新調されることもない。そしてなんと、すべてのシーンでそうだったかどうかは確かではないのだが、いくつかのシーンでは、同じシークエンスでもカットが変わると音響が変わる。同じ音は流れていても、その音が流れる空気が変わると言ったらいいか。音も含めた空間ごと切り取ってそれらが繋がれていく。同じ音響がそのシークエンス全体を結びつけ統御するようなことがない。いきなり空間ごとカットされる。実際にはその唐突な「個」のぶつかり合いが、全体を作る、ということなのだが、感触としては、終わらない遊びの時間がいきなりカットされる、というのに近い。そのカットの瞬間、私たちは何か決定的なことが起こってしまったことを知る。もちろんそれは目に見えることはない。カメラに撮られることもない。われわれの暮らしは何事もなかったように続く。しかし何かが変わってしまった。その持続と切断の繰り返し。そうやってわれわれは両岸のない河を渡り続ける。そのためのコクピットが音なのだと、この映画は告げている。

 最後、旅に出た夫婦の奇妙なやり取りはいったいなんなのだろうか。彼らには何か起こったのだろうか? ただとにかくその大変さだけが見える。その大変さが何かを語るわけではない。牛たちはまだ河を渡り終えていない。


密使と番人
2017年 / 日本 / 60分 / 製作:時代劇専門チャンネル 日本映画専門チャンネル/ 監督:三宅唱 / 音楽:OMSB、Hi’Spec / 出演:森岡龍、渋川清彦、石橋静河、井之脇海、足立智充、柴田貴哉、嶋田久作
ユーロスペース渋谷にて7月22日(土)より2週間限定レイトショー
時代劇専門チャンネル・日本映画専門チャンネルにて7月29日(土)25時同時放送
公式HP




樋口泰人(ひぐち・やすひと)
映画批評家、boid主宰。映画『PARKS パークス』『めだまろん/ザ・レジデンツ・ムービー』が公開中。7/26(水)〜29(土)新宿中央公園にて連日19:00より野外上映イベント開催。

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