
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの著書『映画は頭を解放する』(勁草書房)やインタヴュー集『ファスビンダー、ファスビンダーを語る』(2013年に第1巻、2015年に第2・3巻(合本)発行)の訳者・解説者である明石政紀さんが、ファスビンダーの映画作品について考察していく連載「ファスビンダーの映画世界」。今回は前回に引き続き1970年製作のテレビ映画『インゴルシュタットの工兵隊』にじっくり迫っていきます。始まりはインゴルシュタットの中央広場に入場する工兵隊の行進から——
文=明石政紀
戯曲の映画化二作、其の二の二
『インゴルシュタットの工兵隊 Pioniere in Ingolstadt』(1970)、後編
そうこうするうちに前回の原稿の最後で、諜報員妄想にとり憑かれて退場した筆者が、しとしと咽ぶ細雪のなか、盲僧のごとくよろよろよろめきながら戻ってきたようである。しばしの沈黙のあと、その凍えた唇から考える葦のように揺らぐ小声で問いが発せられ、何をしたらよいのか、と訊かれたので、つづきをお願いしたい、と所望したところ、頭突きをくらわされた。
ろくな文章は期待できない模様である。
工兵隊がやってきた
兵隊がやってきた、きた、きた、北、工兵隊は北からやってきた。などと、ろくでもない洒落を呟いていたところ、どうも本当にマリールイーゼ・フライサーが原作戯曲の着想を得たのは、北ドイツ・オーダー河畔の街キュストリーン[*1]から南ドイツ・ドナウ河畔の故郷の街インゴルシュタットに橋をかけにやってきた工兵隊の姿を見たことらしい。それまで軍隊というものを見たことがなかったフライサーは、それは街への侵攻のようだったと回想している[*2]。
映画は、無防備都市ローマに入城するかのごとく、無褒美都市インゴルシュタットの中央広場に歌いながら入場する工兵隊の行進からはじまる。 これにより街によそ者が侵入してくるわけだ。よそ者が街に入り込んでくる構図は『出稼ぎ野郎』と同じ。大きな違いは、『出稼ぎ』の場合はよそ者が単数、『インゴルシュタット』の場合は複数ということである。
さて画面には、工兵隊の入場を見守る地元群衆のなかに、ふたりの女性が特化して映し出される。それがベルタとアルマ。
ベルタとアルマはお友だちで、このふたりは対照的だ。女中として働いている奥手のベルタ(ハナ・シグラ)は、工兵隊を男の人との出会いをするロマンチックな機会にしたいと願い、女中をクビになったばかりのアルマ(イルム・ヘルマン)は、工兵隊を男漁りと稼ぎの対象にしようと目論んでいる。地元の街にだって男はたくさんいるはずなのに、どうしてよそ者の工兵隊員に異性資源を求めるのかはわからないが、まあ地元にはろくな男がいないということなのだろう。
と、そこに美しい歴史的建物の窓から顔を出して話を交わす父と息子の姿。物語のなかで地元の男として出てくるのはこのふたりだけだ。それがウンエアテル親子。
金持ちの父ウンエアテル[*3](ヴァルター・ゼーデルマイアー)は女性を仕事とセックスのツールくらいにしか考えていない愛の感情敵視論者で(だから金持ちになれるんだろう)、異性を知らない不肖の息子ファービアンに、わが家の女中ベルタを手籠めにしろ、愛では冷たく振舞うことが肝要だ、などとけしかける。
こんな地元の男社会じゃ、女性たちがよそ者の工兵隊員にそそられるのもわかる気がする。ロマンチック街道の観光ルートに加えてもいいくらい美麗なこの建物の窓辺で話を交わすこのふたりの男の姿から漂ってくるのは、ロマンチックとは無縁の美しくない地元の男どもの思考である。
ともかくこれで街は、よそ者の工兵隊の男どもがうようよ存在する状態となったわけだ。とはいっても、工兵隊の男たちがこの無褒美都市でご褒美として期待していることは、地元の男たちと大差ない。つまり女の子との恋愛ではなくセックス。
ちなみにファスビンダーは、ベルタとアルマおよび群衆の前に革コートを着た秘密警察じみた男を歩かせているが、これは地方都市の監視社会の暗喩ということなのか?とはいっても恐山まで行ってファスビンダーの霊にその意図を訊いてみるのもなんだか馬鹿みたいだし、こういうことに深入りするとろくなことはないので、これ以上詮索するのはやめておこう。
と、ここまで台詞は順序こそ入れ替えてあるものの、基本的にフライサーの原作そのまま。ただ日常会話のようにそそくさと語らせているので、フライサー文体のパワーが観ている者の脳髄までに染み入るまでには至らない。
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