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2017年08月号 vol.4

樋口泰人の妄想映画日記 その47

2017年11月10日 16:41 by boid
2017年11月10日 16:41 by boid

boid社長・樋口泰人による業務日誌ときどき映画&音楽&妄想日記。8月は「カナザワ映画祭2017 at YCAM」と「YCAM爆音映画祭2017」のためにほぼ山口情報芸術センター[YCAM]に滞在となった社長。今回の8月1日~10日の日記は主に「カナザワ映画祭」での爆音調整について。




文・写真=樋口泰人

8月は山口の人になる。東京にいるのは1週間とちょっと、あとは全部山口。夏休み気分でもあったのだが、そうも言ってはいられない過酷な肉体労働が待っていた。ただ気分はいい。細かい連絡などで気を遣うことはほとんどなく、ただひたすら目の前のことをやる。それだけのことがいかに自分を解放してくれるか、その意味ではハードな労働をこなしながらたっぷりと夏休みを取ったということになるのかもしれない。いや、東京でも本来このようにあるべきなのだし、このようなやり方に向けてboidの仕事をシフトしていかねばと決める。案外本気である。


8月1日(火)
どんよりとした東京と違って山口は晴天である。ザ・夏休み。むちゃくちゃ暑いが気分はいい。よくわからいのだが、マジで本当に気分がよく、会う人ごとに「20年ぶりくらいに体調いいです」と言って回った。東京での発熱騒ぎが嘘のような気分の良さ。我ながら驚いたのだが良いものは良いのでとりあえずまずはそれを受け入れて、いい気になることにした。多くの人は通常、このような体調で日々を過ごしているのだろうか? これが当たり前なのだろうか? いったいこんな気分はいつ以来なのか、20年ぶりとは言ってみたものの、実際のところ記憶にない。思い出せないほど昔以来の気分の良さであった。

当然、爆音調整も快調に進む。『ウエスタン』がこれほどまでに音の映画だったとは、爆音をやって初めて実感した。当たり前のようにつけられているさまざまな音がすべて連鎖して、絡み合い、セリフや登場人物たちの動きに溶け合っていく。聴覚と視覚とが溶け合って映画を観ているのか聴いているのかよくわからなくなる。目を見開いていてもとろとろと眠りに落ちてしまってもオーケー。彼らの物語がゆっくりとわたしの身体の中に沈み込んで記憶の地層を作り上げ、映画を観ることは生きることであるということが実感される。50年前、わたしは若き日のクラウディア・カルディナーレとともに生きたのだし、それより100年ほど前、わたしは西部にいて砂漠の中で彼女の姿を観たのだ。その彼女が21世紀をかろうじて生き延びようとしているわたしの中でニヤリと笑う。あの時の風の音が聞こえる。身体がその風に舞っているのを感じる。

『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』はさすがに60年代の低予算映画の音がした。こればかりはどうすることもできないが、そのきつい音を全身で浴びてもらうことにした。こうやって映画は作られていた。同じモノラル録音でも当時の技術の粋を集めた洗練された音の映画もあるが、この映画はそうではない。そうではないところで何をどう作るかという果てなき思考と小さなアイディアを大きなものに変えてしまう決断とそれに伴うマジックが、「ゾンビ」映画を作った。でもセリフの部分さえ何とかなれば、あとは当時使い始められたばかりの電子楽器の乱暴な使い方による狂った音がふんだんに聞こえてきてたっぷり楽しめる。『We can’t go home again』や『悪魔のいけにえ』と同じ場所から生まれてきた映画だということがよくわかる。

『バタリアン』はリマスターされて音ががぜん扱いやすくなった。2チャンネルであることは変わらないので、セリフと音楽と環境音が全部一緒に大きくなって、爆音にするとそれらのバランスをとるのに大変なのだが、おそらくリマスターの段階で、音の配置や輪郭に関しての繊細な処理がなされたのだろう。映画のポイントさえ見極めてそのポイントが際立つバランスさえつかめばあとは勝手に映画が動き始める。爆音調整は映画が勝手に動き始めるスイッチを押すだけの作業であることを、改めて実感した。そして、映画の最後では、もしかするとライヴよりもいいかもしれないと思われるクランプスの「サーフィン・デッド」を聞くことができた。

『スペースバンパイア』もまた2チャンネルでセリフの扱いが難しいのだが、やはり映画のどこにポイントを置くか、どのスイッチを押すか次第でさまざまな表情を見せる。今回は高音活かしで。せっかく天井にもスピーカーが付いているのだから、観客の皆様には脳天からバンパイアに乗り移られていただこうかという目論見。いったいどうしてこんな映画が作られてしまったのか今となってはまったく謎でもあるのだけど、その欲望のあいまいでねじれた渦を丸ごと身体に注入されたいという、観客としての欲望を何度見ても刺激される。世界の誰をも説得できない根拠のない行動や思考を丸ごと受け入れることができるかどうか。

『ハクソー・リッジ』にどうしても納得できないのは、やはり主人公がまったく根拠のない確信、世間の人には全く認められないが本人にとっては「確信」以外の何物でもない強い何かを得て行動しているはずなのに、なぜかその根拠のなさが世間と和解してしまうことにある。和解できないものがあるのだ。その和解できなさを抱えたまま世間とともに生きるその理不尽が、映画から次第に抜け落ちていく。戦場での弾丸の当たらなさ加減はクリント・イーストウッドの比ではないのに、そのあり得なさに笑えないのは、いくら狂っていてもメル・ギブソンはクリント・イーストウッドの比ではないということか。しかしとにかくYCAMのホールのそこらじゅうに爆弾が落ちていた。とんでもない事態に、主人公のあり得ない行動ははっきりと実感された。

 

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