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2017年09月号 vol.4+10~12月号

映画川 『イスマエルの亡霊たち』『アランフエスの麗しき日々』『希望のかなた』『ロダン カミーユと永遠のアトリエ』 (川口敦子)

2017年11月19日 20:42 by boid
2017年11月19日 20:42 by boid

川口敦子さんによる今回の映画川は、4人の映画監督たちの最新作をまとめて時評形式でご紹介します。現在公開中の『ロダン カミーユと永遠のアトリエ』(ジャック・ドワイヨン監督)、12月公開の『希望のかなた』(アキ・カウリスマキ監督)に『アランフエスの麗しき日々』(ヴィム・ヴェンダース監督)、そして先の東京国際映画祭で日本初上映された『イスマエルの亡霊たち』(アルノ―・デプレシャン監督)を取り上げ、その作り手たちの“創作の飽くなきプロセス”を見つめます。
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『アランフエスの麗しき日々』




文=川口敦子


 ヴェンダース、カウリスマキ、ドワイヨンと、年末にかけてベテランたちの快作が出揃った。どれか一本を選ぶ勇気がないままにこの際、3本それぞれ短評で――なんて怠惰な解決法をにらんでいたら東京国際映画祭でデプレシャンの最新作がまたしても素晴らしく、諦めきれずに4本まとめて書かせてとお願いしてしまった。欲張りすぎの課題を前にあっぷあっぷしつつ自業自得と腹を括って書き出してみる。などといばっていってる場合ではないのだが(締切りが…)、いずれも会心の仕上がりの4本が海外、とりわけ英語圏の評をみると芳しくなく、なんで?! と憤懣やるかたない気持もこめて書いてみたい。そうした挙句、ひとりの作り手の作るものを見続けることの喜びを改めて確認できたら素敵などとナイーブなことを思ってもいる。


 新たな一作には前作と大いに異なるものをといつも心して向かっている。インタヴューで繰り返しそう語っているアルノー・デプレシャンの『イスマエルの亡霊たち』は実際、前作『あの頃エッフェル塔の下で』の、青春の恋を懐かしむ濃やかな感傷の時空とはいかにも異なって見える。残された輝かしい生の時間、指の隙間から止めどなくこぼれ落ちるその儚さを噛みしめてなりふり構わず走り出さずにいられない、もう若くはない面々の胸騒ぎに急き立てられるような落ち着きのなさ、狂騒の微笑ましさと裏腹の寂寥が目に、胸に染みる。もちろん前作にしても『そして僕は恋をする』の主人公ポール・デダリュスの過去と未来とが作用しあい、マトリョーシュカ然と物語の中の物語の中の物語が飛び出してきて、落ち着かなさとも活気ともいいたい独特の気配を完遂し、だからこそデプレシャンの映画となっていった。その意味では変わらぬ世界を全うしていた。そこでまだ疾風怒涛の日々を過去にし切れぬ壮年ポール/マチュー・アマルリックが、風に向かって歩み出す悲壮な雄姿の滑稽さ、涙ぐましさ。それは『クリスマス・ストーリー』でしんと天から舞い落ちる雪の華をしり目に昆虫然と壁に張り付いたアンリ・ヴュイヤール/アマルリックとも、『キングス&クイーン』で踊るイスマエル・ヴュイヤール/アマルリックとも重なって、さらには新作のイスマエル・ヴュイヤール/アマルリックへと踏襲されていくだろう。
 そのイスマエルをめぐる死んだはずの妻カルロッタと、現在の恋人シルヴィアと、イスマエルが撮る劇中映画の主人公イヴァン・デダリュス……。「5本の映画を一本につめ込んだような」新作はひとりひとりが主役としてきらめき、際立ち疾走する多面体の宇宙を活き活きと構成してもう一度、作り手の変わらぬ世界のことを思わせもする。そこで人々は過去のデプレシャン映画の人物と同じ名前を分ち合い、のみならず同じエピソードを共有したりもする(養子がいたとイスマエルが語るのは『キングス&クイーン』との繋がりを思わせずにはいない)。が、同じ名前が必ずしも同じ人を指すわけでもなく、だから世界はますます多面体の面を増やして記憶の切断と接合を複雑に促していく。かつてウェス・アンダーソンに取材したデプレシャンが映画から映画へと共通の人物が越境的に登場し広がり続けるひとつの世界を描いていると作家J.D.サリンジャーを引き合いに出しつつアンダーソン界に迫っていて興味深かったが、まさにそれがそのまま自身の映画を評してもいたこと。現代映画の俊英ふたりが差し出すそんな旺盛な往き方は、繰り返せば「神話の中にいるが、それがどの神話かわからない」(カルロッタは『めまい』と結ばれ、『キングス&クイーン』のヒロインは『汚名』を生きてはいなかったか)ような今、記憶の残骸に飲み込まれた今を逞しく受け容れ生き抜く覚悟を示してスリリングだ。物語もジャンルも人の行路も既視感をすりぬけ自由に闊達に真新しさを手に入れていくデプレシャン映画の神髄を射ぬいて『イスマエルの亡霊たち』は、いっそう喜々として萎れぬ生の活気を放りだし、繊細なのにワイルドなそのめくるめく展開にまたしても巻き込まれる。

『イスマエルの亡霊たち』予告編



 初めて映画作家という設定をキャラクターのひとりに与えてデプレシャンは、彼、イスマエルを海をみはるかす窓辺に置き、世界を覗きこむように執筆作業にあたらせる。かたやヴェンダース『アランフエスの麗しき日々』で作家は彼方にパリを望む小高い丘の別荘の窓から夏の庭をみつめ、時も所も自在にまたぐ男と女の対話をそこに現出させる。前作『誰のせいでもない』でもヴェンダースは、創作の窓/フレームごしに世界と対峙するしかない小説家の内実と向き合って、言葉の世界に生きる存在がいかに周囲の人に対しては率直に語る言葉を持ち得ず、それゆえに苦しい孤立を強いられるかを、他人事でない親密さでありありと描き出していた。窓は今回より積極的に作家の頭の中を縁取る枠組みとして世界/庭へと開かれている。
 木々を揺らす風、葉擦れ、官能的なそのざわめき。波のように寄せては返す音のうねりが美しい夏の時間を永遠に引き延ばし、はたまた取り戻し難い一瞬へと凝縮する。盟友ペーター・ハントケの戯曲を映画化するヴェンダースは世界を差配する作者を介入させることで、ミクロコスモスでの対話に奥行を確保する。そうしておいて映画は男女が語る言葉を映像化して差し挟むありふれた戯曲のオープンアップの術は頑固に拒み通してみせる(柄本佑監督作『ムーンライト下落合』の試みの心とも通じるだろう)。女は女であることを、性と生とを饒舌に言葉にし、男の言葉はタイトルにあるスペインの宮殿の古の庭の時空を召喚して、個を飛び越え歴史的現在へと踏み入っていく。そうしていきなりやってくるヘリの轟音。否応なしに頭の中で幻視される暴力。アクションはなしだと作家の声がオフで響くのもお構いなしで駆ける男が庭の平穏に綻びをもたらす時、彼を演じるレダ・カテブの台詞にもまた異国の響きがまじる。誰もいないパリの夏を点描して幕を上げる映画を溌剌と先導したルー・リードの「パーフェクト・デイ」がその末尾で唐突に差し出す「報い」の一言が予感させた黒い影。ワーリッツァー製ジュークボックスが奏でる曲を狂言回しとする映画はそんな不吉の影をなぞって最後に「世界は燃えている」と連呼する一曲を置き、ぱっくりと横たわる深い淵を指し示す。アクチュアルな危機感が纏わりつく。それはテル・アビブに向かう機上でイスマエルの師匠にあたるユダヤ系の巨匠が巻き起こす一悶着に関してパリで起きたテロの惨禍が書かせた一場と東京の映画祭で明かしたデプレシャンを貫いた危機感とも鮮やかに共振している筈だ。あるいはカウリスマキに「観客を感化しようとする“傾向映画”」『希望のかなた』を撮らせた危機の意識とも。
「ヨーロッパでは歴史的に、ステレオタイプな偏見が広まると、そこには不穏な共鳴が生まれます」「この映画で目指したのは、難民のことを哀れな犠牲者か、さもなければ社会に侵入しては仕事や妻や家や車をかすめとるずうずうしい経済移民だと決めつけるヨーロッパの風潮を打ち砕くことです」
 率直なメッセージを掲げる“難民3部作”第2弾『希望のかなた』は、悪人のいない世界を確信犯的に描き上げた前作『ル・アーヴルの靴みがき』に距離をつきつける。6年ぶりの新作では不寛容の暴力が巷に蔓延し、いくつもの国境を越えてヘルシンキにたどり着いたシリア難民の青年の行く手を塞ぐ。そんなひとりと、新たな人生をかけ冴えないレストラン再生に乗りだすひとりが出会い、小さき者たちの団結が希望の光をしぶとく探り当て、けれどもみつけたかすかな望みの裏面、明るいだけではないその現実に目をつむれない今が掬われていく。
 そんな変化の中にも生き延びているメランコリーとデッドパンのユーモア、相変わらずのカウリスマキ的世界。その角々にストリートミュージシャンを配して監督がフォーク・ロック魂に逞しく物語を牽引させているのが面白い。

『希望のかなた』



 同様の地に足ついたロック魂、その存在の重みはドワイヨン『ロダン カミーユと永遠のアトリエ』のカミーユ・クローデルを敢然と貫いて、アジャーニが演じたカミーユの瀟洒な狂気を退ける。ジャニス・ジョップリンの再来と称賛されているというイジア・イジュラン(銀幕での彼女はアンナ・マニャーニをちょっと思わせる)のどっしりとした腰回り、引いた顎の頑なさ。いっそ武骨と呼びたいルックの強さは確かにジョップリン的グルーブを響かせてカミーユ像を刷新する。樹の幹をまさぐり、センシュアルな感触を粘土で試作する人の像にも踏襲しようと闘い続けるロダン。その創作の飽くなきプロセスをこそみつめるドワイヨンはサロン落選組の集いでセザンヌに対象に向かい続けることを説く。自らも7年がかりのバルザック像でそれを実践する。腹と性器を突きだした醜い子鬼のようなリアルな写生像から細部のリアルを部屋着で覆って人の真相に迫る抽象的な像へ。その軌跡はサン・ヴィクトワール山をスケッチし続けて変奏の先に写生を超えた真実をつかみとっていったセザンヌ(ヴェンダースが彼のこの山の絵へと『アランフエスの麗しき日々』の最後でゆるやかにズームをきめているのも見逃せない)のそれとも重なっていく。そういえばそのセザンヌの「愛の闘い」にヒントを得たと前作『ラブバトル』の成り立ちをドワイヨンは語ってくれたのだが、家族に疎まれた娘と労働階級の筋骨たくましい男(“小さなロダン”と呼ばれていた)が粘土と格闘する彫刻家然と泥んこになってバトルを繰り返すあの映画の女と男、勝負の行方より闘い続けることそのものを目的としていくふたりはまさにカミーユとロダンを思わせる。あるいは『ラブバトル』とは後者の創作のプロセスをこそシミュレートして新作を導き出す一作ではなかったか。
 そんなふうにひとりの作家の格闘のプロセスを見続けること。観客もまた闘い続けてこそ作家主義の呪縛でなく魅惑をそこに新たに見出していけるのだろう。

『ロダン カミーユと永遠のアトリエ』
 
 
 
 
 

【作品情報】

© 2016-Alfama Films Production-Neue Road Movies

アランフエスの麗しき日々  Les beaux jours d'Aranjuez
2016年 / フランス、ドイツ、ポルトガル / 97分/ 配給:オンリー・ハーツ / 監督・脚本:ヴィム・ヴェンダース / 原作:ペーター・ハントケ / 出演:レダ・カテブ、ソフィー・セミン、ニック・ケイヴほか
12月16日(土)よりYEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開!
公式サイト

 
 
© SPUTNIK OY, 2017

希望のかなた  Toivon tuolla puolen
2017年 / フィンランド / 98分 / 配給:ユーロスペース / 監督・脚本:アキ・カウリスマキ / 出演:シェルワン・ハジ、サカリ・クオスマネン、イルッカ・コイヴラほか
12月2日(土)より渋谷・ユーロスペース他にて 全国順次公開
公式サイト

 
 
© Les Films du Lendemain / Shanna Besson

ロダン カミーユと永遠のアトリエ  Rodin
2017年 / フランス / 120分 / 配給:松竹=コムストック・グループ / 監督・脚本:ジャック・ドワイヨン / 出演:ヴァンサン・ランドン、イジア・イジュラン、セヴリーヌ・カネルほか
11月11日(土)より新宿ピカデリー、Bunkamuraル・シネマほか全国公開!
公式サイト

 
 

イスマエルの亡霊たち  Les Fantômes d'Ismaël
2017年 / フランス / 135分 / 監督・脚本:アルノ―・デプレシャン / 脚本:ジュリー・ペール、レア・ミシウス / 出演:マチュー・アマルリック、マリオン・コティヤール、シャルロット・ゲンズブールほか
第30回東京国際映画祭で上映







川口敦子(かわぐち・あつこ)
映画評論家。著書に『映画の森―その魅惑の鬱蒼に分け入って』(芳賀書店)、訳書に『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(アルトマン著、キネマ旬報社)などがある。

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