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2017年09月号 vol.4+10~12月号

宝ヶ池の沈まぬ亀 第18回 (青山真治)

2017年12月16日 16:51 by boid

青山真治さんによる日付のない日記「宝ヶ池の沈まぬ亀」第18回。シナリオ直しや小説の執筆作業が続行中の模様ですが、ここではジャック・ターナー、ジョン・ヒューストン、フィリップ・ガレルの諸作品など映画の話がいっぱいです。加えて舞台『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』のことも。
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文・写真=青山真治



18、映画のことしか書いてないが実は小説書いてる人の師走

某月某日、アテネにて開催中の「中原昌也への白紙委任状」に赴き、芝山幹郎氏との対談付きで『ワイズ・ブラッド』。迫れど近づけぬジョン・ヒューストンの謎。ヒッチハイク、廃屋と来て、娼館での酒を盗もうとして叱られる初老の男の辺りですっかり呑みこまれる。芝山さんも仰っていたが、20代の病弱な女性の書いた陰惨なゴシック・ロマンが70代の無頼の巨匠の手でユーモア小説に仕立て上げられるわけだが、なぜかそれが映画史上稀に見る感動的な佳作となるのはどういう塩梅か。但しキャメラがもうひとつ気に入らない。ということで翌日、数十年ぶりに『ロイ・ビーン』を初めてDVDで見直し、リチャード・ムーアの華麗な妙技を堪能する。日暮れの近い時刻に夫婦となるカップルが草原を散歩する感動的なワンカットに最上のアメリカ映画を発見した。そして後半のナイターで見られる哀切の極みのごとき陰影。これで勢いづいて夜は『キャット・ピープル』。「決して手に入らぬもの」と「決して離れられぬもの」とに一個の人間が引き裂かれるターナー的世界を彩る雨と雪を堪能。何度見てもその核心を手にした瞬間に指の間から零れ落ちていく。こうなると気になるものは見てやろう、ということでこれも久方ぶりの『影の軍隊』。これまた雨、雪と来てさらに疑似夜景など、メルヴィルならではの特殊撮影の応酬。そのどれもが映画的である、というのは反リアリズムということ。映画においては反リアリズムこそがリアルであることをこれら四本によってイヤというほど復習させられ、先達たちに深謝。
某日、おかげで書くことが久方ぶりに戻ってきてどんどん進む。……だがシナリオ直しだけどうも気が進まない。どこかで自分の不備を見つけるのが嫌になっている。ともあれプロデューサーとの打合せでどうにか気を取り直し、集中。半分まで直したところで集中が途切れ、『五時夢』に逃避。美保さんと江原さんの暴走を間髪入れずいなし続けるふかわさんの至芸にいつもながら脱帽。深夜、『TPR』16話。神倉の大岩のごときものが登場。クーパーが覚醒したが、ひとは昏睡とかでなくてもあのように覚醒することはあると思う。私も一年に二度ほどあのように覚醒することがある気がする。
某日、アテネの中原ウィーク最終日は『処女の寝台』。坂本安美、中原、私でのトーク。しかし上映終了あと数分、というところでディスクが止まる。フィルムだって燃えることはあるが、デジタルだからと言ってトラブルがなくなりはしない。まあそれを取り返すべくよく喋った。鼻水を垂らし続ける中原のジョークを何発スルーしてしまったか、しかし私だって言いたかったことの半分も言えなかったのだ。打上げで『ワイズ・ブラッド』の字幕を作ったイングランドはウインザー出身のアダム君と知り合う。ナイスガイ。

週末の憂鬱。いまだにこれが続くのが不思議なのだが、土曜の朝、目覚めてぞっとするほど暗鬱な気分に陥る。理由は簡単、京都にいる間、しばしば土曜にまったく気の進まない行事に出ることがあったからで、私を知る人ならだれでもお分かりだろうが、とにかく怠惰な私は気分の乗ること(当時で云えば授業内容の確認)なら徹夜も厭わず晴れ晴れとして仕事に向かえるが、気の進まないこととなるととにかくやる気にならず神経質になる。すでにそれから解放されて一年近くが経つというのにいまだにこの憂鬱が起き抜けに襲ってくるのはどういうわけだろうか。心底染みついた嫌悪感というのは恐ろしい。低血糖で車を運転し、死亡事故を起こしたというニュース。低血糖発作が始まると何もできなくなるはずで、とにかく汗の出ている間に路肩に停めてそのまま気を失っただろう。身につまされ、何もかも気の毒というしかない。夕方、あれこれ整理しているとガレルの『パリ、恋人たちの影』サンプルDVDが出てきて、見る。レナートがキャメラだということを忘れていた。さすがのワーク。この二人は相性いいようだ。さらに言えば、数々の修羅場の芝居がどこか一皮剥けた、というのも失礼だが、真正面から向かい合っているのが分る。この前作『ジェラシー』とはどうも違う気がしたのは先日安美の言っていた通り一見男目線のようで実は女からの視線がはっきり理解されるからで、その点ではこの女優の力も大きいだろう。娘と作った新作『その日だけの恋人』への期待が高まる。
某日、造花が台詞を喋る。なぜ私たちが、と。どうする、と先行きを考える。造花は造花でしかないが、それを当の造花たちが露にすることによって主役たちもまた造花であることを知らしめる。ここにトム・ストッパードの策略がある。ロズもギルも見分けのつかない造花に過ぎないが、では誰がどう優位に立っているというのか。見分ける有効な方法がどこにあるというのか。小川絵梨子の演出は周到に優位の不在を描きだす。『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』が名作であるとしたら、それは現代的な作劇によってではなく、いわば捨身の戦法のごとき演劇的現実を露にする単純な事実によってである。そしてここに召喚された二人の若者、生田斗真と菅田将暉は可能な限りの生々しさで造花が身を捨てる様を演じきった。その上で凡百の戦略がいかに無駄であり、「台詞を言う」ということがいかに尊いかを観客に伝え尽くした。しかも演技の巧拙などとは無縁の領域でそれを行いえることを見せてくれた。これは稀有な体験だった。ストッパードの策略、そしてその真意も実はそこにあったのではないか。スキルではなくアティチュード。二人の若い役者に見ることのできたのはまさにそれ、いわゆるパンクということだった。ビートルズを含めたブリティッシュ・インベージョンが言われた時代に書かれたパンクの戯曲が現代日本で上演されることの意義は無視されるべきではない。それはゲイリー・オールドマンとティム・ロスで映画化された同時代の英国と必ずしも無縁ではないはずだ。
某日、DVDにて『私はゾンビと歩いた!』。船首像にハッとして、これを見ていないと『こおろぎ』を思いつくわけがないのだが、初見のはず。当時、ブードゥー=天皇制とさえ考えていなかったはずだ。しかしこじつけて言えばほぼ同じ話だし、ニューオリンズとポルトガルのことばかり考えていたらいずれそうなるということかも。とにかく黒沢清からの影響以上に困った。前日の篠崎監督とのトーク内容を鑑みれば、黒沢さんもまた「未見のまま影響を受けている」ということだが、だからこそますますターナーが何者だかわからなくなってきた。カナダから南島へ派遣される看護婦。雪という垂直の点線と南島の階段という斜めの線。ラング『M』などの前例があるとはいえ、この二つがターナー的造型の基礎であることは間違いない。そしてしのやんの指摘通りこの段階ですでに複数の主観(外部の声)を内蔵(冒頭は『レベッカ』終幕はシェイクスピアか)しており、伝統の三幕構成などという常識は終焉に達していることは自明だ。いわばタナトスがエロスを超えていく過程をターナーはじっくりと観察しようとし、それには通常の構造を否定していく必要があったということか。ラング、ウエルズからリンチへと繋がるその筋のプロセスとしてのターナー、という読み方もあるか。宿命のきつさは『CP』よりは緩和されているのだが。見終えてぼんやりと画面を反芻しつつ、コンビニへ数日後の『夕暮れのとき』のチケットを贖いに。コンビニで映画のチケットを買うのは初体験だったが、こともなく贖えた。
某日、徹夜で本直しを終え、午後に有楽町へ。ターナー『夕暮れのとき』。ハリウッドデビュー15年目、18本目の長篇であり、そしてB級ノワール。脚本は当時駆け出しのスターリング・シリファント、撮影はすでにノワールと云えば、的な風格漂うバーネット・ガフィ。ターナーという人はあまり複数回同じキャメラマンと組まない人(という意味ではレイに近いのか)だから、画面の印象は毎回異なっている気がする。本作はこれまで見てきたターナー作品で唯一雨も雪も降らない。除雪車から噴き出る雪も画面を縦に彩るということはない。ただ、アルド・レイとアン・バンクロフトが出会うレストランの、バーからボックス席への芝居場の移動において、両方セットの端にキャメラ位置を取る(ボックス席は奥の壁を抜いて)ので、必ず俳優の背後のエキストラが左右手前奥と移動し続けている演出は、当然のようだが実はあまり見かけないパターンではないか。冒頭のバス停にしろ後半のバスチケット売り場にしろ、エキストラによる画面作りが目立つ。面白いのはブライアン・キースと相方の二人組のギャングで、事故って腕骨折したり鞄取り間違えたりと間抜けもいいところだし、どう見ても息があってないのだが、思えばペキンパーのギャングたちやシーゲル『殺人者たち』のマービンたちなど、息の合ったギャングなどというものは描かれた験しはなかったかもしれない。いつでも相方の寝首を掻くくらい当然という凶暴さは持ち合わせていなければ。兄弟仁義とかLGBT的な間柄という方がむしろ亜流なのではないか。『パルプ・フィクション』の気に入らない点もそこだった。骨折の手当てを受けながら懸命に煙草を吸おうとする苦し紛れなキースがよかった。保険調査員がしたたかで有能なのがいい。アメリカの犯罪物には映画でも小説でも、探偵というより保険調査員というのがときどきよかったりする。『サイコ』のバルサムは妹に雇われた探偵だったが、ジャネット・リーの社長に雇われた調査員でもよかったのではないか。『傷だらけの挽歌』の凶暴なロバート・ランシングを想いだす。
無事に『刑事ゆがみ』第七話を楽しんでから深夜、目覚めてふと『JIMI:栄光への軌跡』をDVDで。IVCの森田君に勧められるまま注文したが、軽はずみなところもあるが決して悪くなかった。特に音響の処理が興味深い。そしてリンダ・キース役(伝記でも最も感動的な役どころ)のイモージェン・プーツが絶世の美女過ぎて、いつまでも見ていたくなる。さらに言えばギターが大変素晴らしいのでジミの未発表音源かと思ったら、ワディ・ワクテルが全篇弾いていて、納得。しかし冒頭で「サージェントペパーズ」やるライブこないだ見たばかりだけど、フライングVじゃなくてキースの白のストラトのまんまのはず。でもなんとなく許せるのはなぜだろう? ちなみにたーくんとジミは同じ誕生日。もうすぐ。
某日、薪ストーブの季節到来。暮時に火を熾し、そのまま翌朝まで焚き続け、天気が良ければ太陽に任せ、雨が降れば細く焚き続けるいつもの習いが春まで。シナリオであれ小説であれ手を付けるまで二時間近く余計なことをしてようやく、しかし始まっても集中できるのはせいぜい四時間といったところ、じきに『五時に夢中』まであと三十分となると猫どもに食事の用意をし、翌日がゴミ出し日であれば点在するゴミ箱のゴミを集めて45リットルの袋ひとつかふたつにまとめてガレージに運ぶ。そうしてテレビの前に鎮座して、という昼の日常を繰り返していた。だがやはり一向にゴールは見えず、また次々に目を通さねばならない資料や文献も積み上がり、しかし収穫は薄く、それでも何とか前進するしかない。そんなある日、遠方より来る旧友に呼び出される。午後に近所のホテルのカフェで待ち合わせ、しばし歓談の後そろそろ寒くなってきたと徒歩で夕飯の場へ行くが、やや早すぎてどこも準備中。一旦べつのカフェで繋いだ末にようやく飯にありつく。この間四十分近く歩いたのでいい運動にはなった。結局七時間近く喋っていただろうか、まあ話が尽きない相手というのはそうはいないものだと、夜更けに見送ってからしみじみ思う。
某日、そうしてまたパソコンを叩き続ける日々。しかしいよいよこのノートも限界に達しつつある。いま書いているものが終わるなりこと切れるのではなかろうか。と戦々恐々というか、じっと覚悟し続ける日々でもある。あと、十六年続いた何かが終わった。そういうものだと言うほかない。
今回は写真はなし。その余裕はなかった。

(つづく)






青山真治(あおやま・しんじ)
映画監督、舞台演出。1996年に『Helpless』で長編デビュー。2000年、『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞&エキュメニック賞をW受賞。また、同作品の小説版で三島由紀夫賞を受賞。主な監督作品に『月の砂漠』(01)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)『サッド ヴァケイション』(07)『東京公園』(11)『共喰い』(13)、舞台演出作に『ワーニャおじさん』(チェーホフ)『フェードル』(ラシーヌ)など。
近況は「守秘義務」の状態に入りつつある。

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