boidマガジン

2017年09月号 vol.4+10~12月号

ファスビンダーの映画世界、其の十四 (明石政紀)

2017年12月24日 03:54 by boid


ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの著書『映画は頭を解放する』(勁草書房)やインタヴュー集『ファスビンダー、ファスビンダーを語る』(2013年に第1巻、2015年に第2・3巻(合本)発行)の訳者・解説者である明石政紀さんが、ファスビンダーの映画作品について考察していく連載「ファスビンダーの映画世界」其の十四は、前回取り上げた『何故R氏は発作的に人を殺したか?』(1969)と同じく、ミヒャエル・フェングラーとの共同監督作とされているもうひとつの作品『ニクラスハウゼンの旅』(1970)が登場。「革命というもの」にまつわる寓話、である本作を詳細に見ていきます。
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文=明石政紀


ミヒャエル・フェングラーとの共作、其のニ
『ニクラスハウゼンの旅 Niklashauser Fart』(1970)


フェングラーとの共作とされながらも、実はファスビンダー映画の『ニクラスハウゼンの旅』

 ファスビンダー/フェングラーの共作とされながらも実はフェングラーの映画だった『何故R氏は発作的に人を殺したか?』とは逆に(この映画はもうファスビンダーの自作目録から外したほうがいいんじゃないかと思う)、こちらの『ニクラスハウゼンの旅』は同じくふたりの共作とされながらも、どう見てもファスビンダーの映画である。
 なにしろこの映画、『R氏』の実録調は跡形もなく消え去り、ファスビンダーが大嫌いな現実模写の即興リアリズムは雲散、映像も構図も演技も台詞も語り口も決めこまれ、演劇的で、作為的で、様式化され、距離が置かれ、ときに異様に可笑しく、映画という作り物が「作り物」であることをはっきり見せてくるファスビンダーらしい特徴を備えた作品なのである。
 この『ニクラスハウゼンの旅』は、この時期のファスビンダー映画のなかで、とびっきりヘンテコな作品でもあり、狂った設定、狂った展開を伴った寓話であり、そのうえ『愛は死より冷酷』や『アメリカの兵隊』のそっくりさん的シーンも登場、十年近くあとの『第三世代』を先取りするような場面さえ出てくる。
 この映画に公称「共作者」のフェングラーがどの程度まで関わったのか、ふたりで立案し脚本を書いたのか(当時ふたりはアンチテーターの一部メンバーとフェルトキルヒェンの館で共同生活していたので、これはありうるだろう)、ひょっとするとフェングラーの共作者クレジットは『R氏』との交換条件だったのか、などといった推測、邪推については、はっきりとは確認できないが[*1]、作り方からしてファスビンダーの映画であることは明らかなので、とりあえずこの件はさっさと見過ごすこととしよう。
 さて同じテレビ映画でありながら、ベルリン映画祭で初公開され大受けしたフェングラーの『R氏』とは大いに異なり、ファスビンダーの『ニクラスハウゼン』は、日陰者の扱いをうけた不遇の映画だった。大々的に公開されることもなく、テレビで初放映されたのも、お茶の間のみなさんが寝静まった深夜11時過ぎで、たいした反響も呼ばなかった[*2]。それどころか、『ニクラスハウゼン』が製作されたわずか四年後にこの映画を観ようとした評論家のヴィルヘルム・ロートは、残っているコピーは製作元の西部ドイツ放送にしかなく、これが映写機で回せないほど保存状態が悪いもので、やっと放送局の編集台で観ることができたと回想している[*3]。それが幸いなるかな、今や修復され、DVDでも見ることができるようになった。


革命寓話映画としての『ニクラスハウゼンの旅』

 この映画について語られるとき、判で押したようにグラウベル・ローシャの『アントニオ・ダス・モルテス』、ゴダールの『ワン・プラス・ワン』や『ウイークエンド』の影響が云々されるが[*4]、だれだってだれかの影響は受けるものだし、もうこの手の文章にはうんざりしているので、ここでは別の話にしようかと思う。
 というわけで、というわけでもないのだが、とりあえずちょっと映画の原題「Niklaushauser Fart」を一瞥してみよう。
 タイトル前半のNiklashauserとは、北緯49度42分12秒、東経9度36分57秒の地点に位置するドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州マイン=タウバー郡のニクラスハウゼン村のこと。Niklashausenのお尻のnがrに化けて、「ニクラスハウゼンの」という意味になる。
 タイトル後半のFartは、英語では、お尻から排出され往々にして嗅覚を直撃する腸内ガス、すなわち「おなら」を意味するが、これはドイツ語であるがゆえ、おならではなない。このFartというのは、こんにちのドイツ語のFahrt(旅行、走行、ドライブなどを指す)の古形で、ここにおける意は現代ドイツ語でいうWallfahrt、すなわち「巡礼」である。よってタイトルは「ニクラスハウゼン巡礼」と訳したほうが原意に近い。
 このように題名に古形が含まれていることから、これが古事を素材にした映画なのではないかということが推測できるが、そのとおり、ピンポーン、これは古事にもとづくものである。こういう史実だ。15世紀、ニクラスハウゼン村に羊使いのハンス・ベームなる若者が出現。聖母マリア様のお告げを聞いたというハンスは、カトリック教会と皇帝の圧政にあえぐ農民に改革の必要性を説き、各地からその説教を聞きに膨大な数の民衆がこの村に集まるようになり、それが「ニクラスハウゼン巡礼」と呼ばれるようになった。これに恐れを抱いたカトリック司教は、ハンスを捕え、焚刑に処したという古事である[*5]
 さてこのテレビ映画、もともと歴史劇として企画されたようだが、ファスビンダーは撮影開始の一か月ほど前、歴史劇なんか撮る気がしない、中世も現代もゴタマゼにしたコラージュ的な寓話にしようと決意、テレビ局を説得してそれで押し通したとのことである[*6]。というわけで、ここでは中世もロココもミニスカートもロック・ミュージックも時代を超えて雑居同衾、マルクスの思想もクライストの戯曲もキューバの革命も出てきて、台詞のかなりの部分が引用で構成される作品となった。
 時代がぐちゃぐちゃになるところからもわかるとおり、この映画は単なる中世の革命騒動のお話ではなく、挫折した1968年革命を背景にした寓話、いや、というより「革命というもの」にまつわる寓話である。


映画『ニクラスハウゼンの旅』の先駆としての演劇『バイエルンのアナーキー』

 そう、これは「革命というもの」にまつわる寓話である。
 そしてこれは、革命は人々の意識がその理念に達しないかぎり成功しないというファスビンダーのテーゼを具現化した映画でもある。
 とはいっても、このテーゼを扱ったファスビンダーの自作は、なにもこれが最初というわけではない。ファスビンダーは、この映画の一年ほど前に『バイエルンのアナーキー』という芝居を書き、上演しているのだ[*7]
 ナイーブなSFと銘打たれたこのお芝居、こんな内容である。
 保守的なバイエルン州で革命が起き、「社会主義アナーキー国バイエルン」、略称SABが樹立される。
 アナーキズムとは言ってもまったく暴力とは無縁で、逆にいたって平和的。ここで言うアナーキーとは、ヒエラルキーを撤廃とした社会という意味である。
 革命委員会は、だれもが自由に生きて自分の好きなことができる理想社会をもたらすため、弊害となっている貨幣制度も婚姻制度も廃止、法律も条令も撤廃、日に二時間だけの労働、あとは何をしても自由、すべてを共有財産にし、大学も病院もだれでも行きたいときに行けばいいことになる。
 ところが住民がついてこない。主人公の住民ノルマールツァイト(つまりノーマル・タイム)一家は、アナーキズムをテロリズムとはきちがえて革命に恐れおののき、従来の価値観が頭のなかに巣食っているので、革命政府がもたらさんとする大いなる自由を謳歌することができず、貨幣制度がなくなったらどうやって稼いで食っていけばいいんだぁ~、結婚がなくなったら秩序が乱れるぅ~、一家であそこまで節約して買った車を共有財産にされてしまうなんてぇ~、などと右往左往しまくり、革命は起こったものの、革命社会は実現できない[*8]
 ...というコメディ仕立ての芝居である。
 ちなみに舞台となっているファスビンダーの地元バイエルン州と言えば、一時期を除き戦後ずっとキリスト教社会同盟(CSU)が政権に就いているドイツ屈指の保守地盤である。この点では、若干の中断期を除き、戦後ずっと自民党が政権を握っている保守王国、日本と共通したところがある。愛想はいいが、裏で何を考えているかわからないという点でもバイエルンと日本は似ている。というわけで、この芝居の舞台を日本に置き換えて、ぜひともわが国で上演してほしいものだと今日この頃である。
 それはともかく戯曲『バイエルンのアナーキー』は、革命が起こっても人民がついてこないというお話、映画『ニクラスハウゼンの旅』は、人民に革命をどうやって起こさせるかというお話である。


扇動性皆無の革命扇動映画

 そう、この映画は、人民に革命をどうやって起こさせるかというお話である。
 そして人民に革命を起こさせるには、扇動が必要ということになる。というわけで、これは革命扇動を描いた映画でもある。
 とはいっても、映画自体の仕立ては扇動とはまったく逆をいっている。寓話であることをいいことに、すべてがすべて様式化され、演技も語り口も演劇的で醒めきっていて、テンポは緩慢、『R氏』で無意味に揺れに揺れ動いていた映像はへたに動かず、これでもかと居座るような絵画的な構図がたびたび登場、カットは長引かされ、ペーア・ラーベンの音楽は、頭のネジもパンツの紐も緩んでいくような弛緩性チューンで物語に切り崩しをかけ、あらゆるレベルで扇動が拒否されていくのである。煽りの徹底拒否というのは、ファスビンダー映画のファスビンダー映画たる所以で、それはテンポが速くなった後年の映画でも同じである。


西部ドイツ放送、メアテスハイマー、カーステンゼンの初登場

 本作の出演者は、お馴染みのアンチテアーターの面々+ゲスト、主要スタッフも撮影のディートリヒ・ローマン、音楽のペーア・ラーベン、美術のクルト・ラープといつもどおりの陣容。それでもファスビンダー映画のその後にとって重要な初参加者がいる。それが西部ドイツ放送(WDR)とその製作担当ペーター・メアテスハイマー、そして女優マーギット・カーステンゼンだ。
 西部ドイツ放送もカーステンゼンも、この映画の数カ月前にテレビ演劇『コーヒー店』でファスビンダーと一緒に仕事をしていたのだが、ファスビンダーはテレビ演劇を「映画」とは見なしていないので、この『ニクラスハウゼン』が初参加映画ということになる。
 それではまずは西部ドイツ放送/メアテスハイマーの話から。
 いわゆる「ニュー・ジャーマン・シネマ」の興隆に一役かったのは、公共テレビ局であることはよく知られているが、とりわけファスビンダーの重要な後ろ盾となったのは、ケルンの西部ドイツ放送、略称WDR(ヴェー・デー・エア)とその製作担当ペーター・メアテスハイマーだった。両者の出会いは、メアテスハイマー本人によると、こんな経緯をたどっている。
 メアテスハイマーは、労働者一家にまつわるTVドラマシリーズの案を抱えていたのだが、古株の監督ではお決まりのものになるとばかり、脚本+監督を引き受けてくる新手の映画作家を物色、ファスビンダーに接触してみたところ、この仕事を引き受けてもらえた。ファスビンダーはこの機に乗じて、今撮ろうとしている自作映画の資金を出してもらえないかと抜け目なく所望、西部ドイツ放送が製作費を負担することになった。それが『ニクラスハウゼンの旅』。この映画は西部ドイツ放送の委嘱作品というかたちで撮られた。
 ファスビンダーと西部ドイツ放送/メアテスハイマーが、本格的にがっぷり四つに組んで共同作業をすることになるのはその二年後のこと。それがメアテスハイマーが抱えていた例の労働者一家のTVドラマシリーズ『八時間は一日にあらず』の仕事で、両者はその後も『マルタ』をはじめとする一連のテレビ映画を一緒につくっていくことになる。メアテスハイマーは、映画製作会社バヴァーリアに転職したあとも、『ベルリン・アレクサンダー広場』のプロデューサーをつとめ、さらには『マリア・ブラウンの結婚』、『ローラ』、『ヴェロニカ・フォスのあこがれ』の「西ドイツ三部作」の脚本も書き、ふたりは長いつきあいとなるわけだが、ずっと距離を保ってかたくなに敬語で会話を交わしていたそうである[*9]....
 といった話は長くなりそうなので、このへんで打ち切り、また『八時間は一日にあらず』の項あたりで詳しく記すことにしよう。
 それではマーギット・カーステンゼンの話。
 それまで舞台専業俳優だったカーステンゼンは、1970年代の一時期、ファスビンダー映画の「顔」ともいうべき女優となったし、とくにハナ・シグラがファスビンダーのもとを離れていた数年間は、看板スター的存在でもあった。
 カーステンゼンとファスビンダーの出会いは、『ニクラスハウゼンの旅』の一年ほど前、ファスビンダーとペーア・ラーベンがゴルドーニ原作/ファスビンダー翻案の『コーヒー店』をブレーメンの劇場で演出したとき。劇場のアンサンブル・メンバーだったカーステンゼンはこの公演の舞台に立つのみならず、同作のテレビ演劇版にも出演、さらに『ニクラスハウゼンの旅』で映画デビューすることになるのだが、ここで興味深いのは、ファスビンダーがのっけから彼女に結婚している女性を演じさせていることだ。
 じつはファスビンダー映画におけるカーステンゼンの役柄は、『悪魔のやから』など若干の例外を除き、テレビ演劇も含めて、みな結婚生活と関係する女性なのである。つまり結婚が過去形(『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』)、結婚が未来形+現在形(『マルタ』)、結婚が現在形(そのほかの映画)で、その多くは全国の主婦の共感(または反感)を買うような夫婦間の抑圧に関連した役柄である。ファスビンダーは、既婚者だったカーステンゼン本人が夫に抑圧されていると考えていたらしく[*10]、彼女の映画初出演作たるこの『ニクラスハウゼンの旅』からして、カーステンゼンに夫を殺させている。これが単なる偶然なのか意図的なものなにかどうかはわからないが、まあそういうことである。
 …などといったマーギット・カーステンゼンにまつわる話は長くなりそうなのでこのへんで切り上げ、『ペトラ・フォン・カント』の項あたりでもっと詳しく触れることにしよう。
 …といったことはさておき、映画はざっとこんな感じ。


革命発起人の三人衆登場

 冒頭の場面に登場するのは、ファスビンダー扮する「黒服の僧」、ハナ・シグラ演じるヨハナ、ミヒャエル・ゴードンのアントーニオの三人。このうち「黒服の僧」とアントーニオの役名は劇中には出てこないので、実は名無しなのだが、わたしは配役表を見ちゃったので、そうだと知っているだけである。
 みなさん、服装がばらばらである。ファスビンダー/黒服の僧は、トレードマークの黒い革ジャンにジーパンという普段着で、そのうえサングラスをかけて突っ張った小物ギャング風。長編初作の小物ギャング映画『愛は死より冷酷』と同じである。ハナ/ヨハナは、ノンスリーブのワンピース姿で、たった今イビザ島あたりの休暇から帰ってきましたとでも言わんばかりに日焼けした背中や腕が見える。かたやゴードン/アントーニオは、17世紀の三銃士じみた恰好。この映画、のっけから服装の統一性を無視した寓話なのである。
 この三人が革命の発起人で、どうやったら民衆に革命を起こさせることができるか話し合う。つまりここでは革命の理念ではなく、革命の方法論が語られるわけだ。
 会話はQ&A形式。ファスビンダーが問いを発し、ハナ/ヨハナとアントーニオが答えるというかたちをとっている。
 まずファスビンダーとアントーニオの革命Q&Aは、大体こんな感じ。
「革命を必要としているはだれか?」
「人民だ」
「革命を起こすのはだれか?」
「人民だ」(…)
「では、どうやったら革命を起こすことができるのか?」
「扇動、教化、闘争を通じてだ」
 ずいぶん凝り固まった調子である。
 次はファスビンダーとハナ/ヨハナのQ&A。もうちょっとくだけた感じである。
「じゃあ、扇動が有効になるんだったら、芝居がかった効果みたいなものを使っていいんだろうか?」
「ええ、もちろんいいわよ」
 というわけで、民衆に革命に起こさせるには、芝居がかった扇動をやってもいいということになる。
 さてこのシーン、ファスビンダーの問いに、ハナ/ヨハナとアントーニオが行ったり来たりしながら答えるのだが、こういう場面、どこかで観たことがあると思いきや、以前のギャング映画『愛は死より冷酷』や『悪の神々』で、ヤーク・カーズンケの警部が行ったり来たりしながら話すところとそっくりである。
 この場面につきまとう音は、眠気を誘うコツ、コツ、コツという足音。今度はトン、トン、トンと太鼓の音が聞こえてくる。


扇動家ハンス・ベーム登場

 トン、トン、トンと太鼓の音が聞こえてきたので、『ブリキの太鼓』のオスカー・マツェラート君かと思きや、登場するのは「お告げの太鼓」のハンス・ベーム君(ミヒャエル・ケーニヒ)。どうしてハンス君が太鼓を叩いているかというと、古事によると羊飼いハンスは、太鼓叩き(パウカー)としても知られていたからだ。
 このハンスが、革命発起人たちに選出された扇動家である。彼は長髪のカッコいい若者で、アジテーターには見栄えも重要ということだろう。
 ハンスは「お告げの太鼓」を叩きながら、「われは聖母マリア様のお告げを聞いた。聖職者は腐敗しきっている。奴らの頭を叩き割ってやれぇ!」などとカトリック権力に対する革命蜂起を説き、集まった者たちは聖マリア賛歌「めでたし海の星」を歌う。こうして反カトリック的革命扇動と、反革命的カトリック信仰が奇怪な結合を見せることになるわけだ。というより、扇動家ハンスが、カトリック権力に対して人民に蜂起をさせるため、彼らの脳に染み込んでいるカトリックの聖マリア信仰を逆利用したと言ったほうがいいだろう。
 ちなみにハンスの説教のなかに、「だれも知らなかったではすまされない」という下りが出てくるが、これは映画製作当時のドイツの状況にひっかけたものである。戦後ドイツでは、ナチに加担した多くのドイツ人が、ユダヤ人虐殺など知らなかったと嘯き、知らぬ存ぜぬを決め込んでいたからだ。
 この五分間にわたるシーン、ハンスが語る説教は扇動的ながらも、構図はあたかも絵画のごとく不動、扇動に不可欠の煽りのアクションも皆無で、映画はぜんぜん扇動的にはならない。こうして全編、扇動的な台詞が各所で出没しながらも、前述のとおり、映画自体は扇動性をいっさい拒絶する構えでつづいていく。
 さて説教者として登用されたハンスは、革命発起人のファスビンダー/黒服の僧に「あいつ、すごくいいじゃん。あいつには、なんかこう人を引きつける魅力があるぜ」と絶賛され、現代ドレスから中世ドレスにお召し替えしたハナ/ヨハナも、かっこいいハンスといちゃつき、懇ろな仲になる。


ミーハー信徒の奥様登場

 ハンスの説教シーンで、跪いて祈っていた熱心な信者(マーギット・カーステンゼン)が、ハンスの一行を追っかけてくる。ここにすでに後年の『悪魔のやから』で熱狂的な追っかけファンに扮するカーステンゼンの初期型があらわれていると捉える向きもあるかもしれないが、まあそういうことはどうでもいい。とにかく裕福な奥様カーステンゼンは、ハンスにすがりついて「わが家では、なんの不足のない暮らしができます。どうぞ、うちにお住みになってくださいまし」と懇願、ハンスは仲間内で相談してみると答える。
 というわけで革命発起人のファスビンダーとアントーニオがこの件について話を交わし、丸々としたお腹を丸出しにした享楽体形のファスビンダーが「たらふく食べられるんなら、そうすべきだし、いい家に住めるんだったら、そのほうがいい(…)。みんなが欠乏した生活を送るようになったら、そりゃあ最悪だ」とのたまい、「裕福に暮らす者だけが、快適な生活を送る」と、わざとらしく決め台詞を吐いて結論が出る。
 この決め台詞、どこかで聞いたことがあると思い、記憶をモグラのように掘り起こしてみたのだが、どこで聞いたのかどうしても思い出せない。そこで傍らに鎮座していたわが家のエンサイクロペディア・キャットのミケに問うてみたところ、「早起きは三文の得」との返答があった。「早起きは三文の得」? …そうか、これ、ブレヒト/ヴァイルの『三文オペラ』のソング「快適な生活のバラード」の一節ではないか。
 というわけで、この映画、このような引用に満ち溢れているのである。とはいっても、すべての引用をわかる必要はないし、別にわからなくてもいいし、わかったところでご利益と言えるのは、この世の役に立つとは思えない知ったかぶりが少々できることくらいである。
 この「快適な生活」の台詞あたりから、革命派が、清く貧しく美しい禁欲的生活を目しているわけではないことがわかってくるし、このへんは後年の映画『キュスタース小母さんの昇天』にもつながっていく。ファスビンダーは『キュスタース小母さん』に登場する裕福な共産党員の夫婦(演じるのは、かの黄金コンビ、カールハインツ・ベーム&マーギット・カーステンゼン)について、こう語ったことがあるのだ。
「重要なのは、彼ら〔=共産党員の夫婦〕が(...)なんでも持っていることじゃなく、なんでも持っていることを恥じてることですなんですよ。彼らは自分が所有しているものを正当化しなくちゃいけないと思って、ぜんぶ妻が相続したものだって言うんです。でも革命が貧困を要求しちゃいけないと思いますけどね」[*11]
 まあそういうことで、ハンスは「聖母マリア様がお宅に住むことをお許しくださいました」などと見え透いた言い訳をしながら、革命仲間のファスビンダー、ハナ/ヨハナ、アントーニオととともに、金持ちの奥様のお宅に入居する。
 奥様の旦那(フランツ・マーロン)は寝たきりの老人。欲求不満の奥様は、ハンスのことを「あの人、若くてハンサム」とうっとりし、彼の唱える革命そっちのけで、この若者に熱烈なミーハー的な興味を抱いているのがわかる。
 場面の最後では、またまた絵画じみた構図の群像シーンが登場、ハンスは「ラクダが針の穴を通るほうが、富める者の天国行きよりやさしい」との言を吐きながら、本人は富める者の家で居候の身となる。この言もどこかで耳にしたことがあると思い、ミケのほうを一瞥してみたところ、ミケはわたしの清書原稿をまたいでいき、これが聖書のマタイ伝の引用であることが判明した。


奇矯な司教様登場

 と、突如舞台は変わって、革命の打倒対象たる司教様の豪奢なお城。クルト・ラープ扮する権力者の司教様は、奇矯で小心で倒錯的で享楽的で、美少年をはべらせ、ロココ調の豪勢な衣裳を身に着けている。このコスチュームは、美術も担当していたラープがテレビ局の予算がついたことをいいことに、大枚をはたいて仕立てさせたものとのこと[*12]
 そこに直立不動の姿勢をとったスーツ姿の農民(カール・シャイト)が登場。顧問官が「この農民、臭いです」と告げると、興味津々となった司教様は、この農民の体をクンクン嗅ぎまくり、「まあ、ほんとだ、すごい、臭いわ~」などと狂喜。これに対し、農民は、「ニクラスハウゼンの羊使いハンスが、司教様を殺そうとしております」と密告、小心者の司教様は、「どうしてわたしなんかを~」とうろたえる。
 なお、すでにハンスのお告げの太鼓シーンで登場していたこの密告農民は、映画全編を通じて直立不動の姿勢をとり、各所に姿をあらわすことになる。


赤旗ハンス

 いっぽうハンスは、ジーパン姿の人民に、資本主義の打破、土地の平等配分とコルホーズ化、教育改革、共産主義革命を説き、「突き進め、労働者人民よ、退いてはならぬ。赤い旗がわれらの印(…)。レーニン万歳、ファシズムを叩き潰せ!」と歌う。
 この歌もどこかで聞いたことがあるはずなのだが、曲名がどうしても思い出せない。そこでまたミケに尋ねてみたところ、テーブルに置いてあった赤ワインとアオハタ印のジャムを指した。そこでハタっと思いついた。これはイタリア労働者運動の古典的闘争歌「赤旗(バンディエラ・ロッソ)」ではないか。ここでハンスが歌っているのは、そのドイツ語版で、レーニン万歳と反ファシズムを謳ったヴァージョンだ。
 かたやハンスは、師の改革派神父(ヴァルター・ゼーデルマイアー)に、君は今の悪を打破するために革命の悪を受け入れ、人民に憎悪を焚きつけとる、と諭される。ハンスは自分の唱えていることが、本心からのものではないことを告白、彼の心中が揺れていることがわかる。


ニクラスハウゼン巡礼

 さて野原では、背広姿の農民(ペーア・ラーベン)が「大地よ、歌え。天よ、歌え」と聖歌を唱えている。
 そこに、どこからやってきたのか子供連れの農民一家が歩いてくる。一家の父は「ニクラスハウゼンに、司教を殺して、その領地をみんなに平等に分配しようと唱えている人がいる。そうするように、聖母マリア様のお告げがあったそうだ」と告げ、祈っていた農民も「では、自分も妻子を連れてニクラスハウゼンに一緒に行くことにしよう」と答え、こうして原題通りの「ニクラスハウゼン巡礼」がはじまる。
 けっきょく人民を動かすのは、革命の理想でも理念でも理論でもなく、土地をもらえるかどうかという具体的な損得問題であることがわかってくる。
 さて舞台は巨大な石切り場とおぼしき山中。ハンスが「商品の価値とは何か? それはどうやって決まるのか?」と理論的問いを叫んでいる。これも引用に違いないと思い、ミケを見やったところ、ミケは拍子木をカチ~ンと叩き、あごをカクカクさせ、世界地図でアドリア海の街リエカを指差した。そうか、これ、マルクスの『価値、価格と利益』の引用である。そしてマルクスを引用するハンスの声が山にこだまし、やまびこの声が同じ著作の別の箇所で応えるという「石切り場マルクス応唱」が起こる。
 さらに舞台は一変、今度はマルクスならぬロックである。といはっても思想家ジョン・ロックのことではなく、ロック・ミュージックのことである。地元ミュンヘン・クラウトロックの代表格的バンド、アモン・デュールⅡの演奏シーンが突如として挿入されるのである。その耳をつんざく爆音演奏を聴きながら、革命派のみなさんはラリって寝そべっている。


偽聖母マリア様登場

 映画は本筋に復帰、ファスビンダー/黒服の僧とアントーニオが街道を歩きながら、「みんな、ちゃんと理解してない。学んでない」と、人民に革命を起させるのがどんなに難しいか嘆き、ファスビンダーは扇動教化をさらに強化するため、ハナ/ヨハナを偽の聖母マリア様に仕立てようと言い出す。つまり人民の信仰の対象たるマリア様に革命のお告げをやらせて、みなさんを革命に導こうという算段である。
 こうしてハナ・シグラ/ヨハナは、聖母マリア様の革命のお告げの稽古をすることになる。この場面は最高に可笑しく、ハナ/ヨハナがお告げの台詞をつっかえながら暗記している横で、首謀者ファスビンダーが、そこはちがうだろ、「あることは」じゃなくて「あるのは」だろ、と一字一句厳しくチェック、その部分はもうちょっと抑えて、その箇所はもっと攻撃的に、間の入れ方が長すぎる、などと口うるさく事細かに演出するのだ。これは監督ファスビンダーと女優ハナの関係そのままにも見えるが、じっさいのファスビンダーは細かいことは言わずに雰囲気で演出していった人だから[*13]、この場面も完全なお芝居ということだろう。
 このような暗記シーン、どこかで見たような気がすると思いきや、これは『リオ・ダス・モルテス』でハナ・シグラがお化粧しながら教科書を暗記する場面の再来で、さらに三年後の『マルタ』でマーギット・カーステンゼンが夫の仕事の専門書を丸暗記するところでまた出現。口うるさく演出するところは、後年のテロリスト映画『第三世代』の犯行ヴィデオ撮影シーンで、監督役のハリー・ベーアがあれこれ文句をつけながら指示を出すシーンの先取りである。
 ハナが偽聖母の台詞のお稽古をしている傍らでは、革命家グループの一員となった「バイエルン黒人」ギュンター・カウフマンが、アメリカの黒人解放闘争組織「ブラック・パンサー」の幹部射殺事件に関する記事を声に出して読んでいる。こうして、ふたりの声が重なって二重音声状態が生じ、こちらのほうは『マリア・ブラウンの結婚』から『第三世代』にいたるファスビンダー多重音声映画の萌芽である。
 さてハナ/ヨハナの偽聖母マリア様降臨の本番では、またまた絵画的な革命家グループの群像図が出現。暗闇のなかから偽マリア様が登場、「土地を所有する支配層の言うことを鵜呑みにしてはならぬ。そのようなことを言う者は神の意に反した者だ。時代の徴を見ぬ者、理解せぬ者は、神によって苛酷に容赦なく罰せられるであろう」と脅迫じみたお告げをおこない、革命扇動は本格的に茶番と化す。


ハンスの自己喪失と役割同化

 狂信的なミーハー信徒マーギット・カーステンゼンは、下腹部をさすりながら「神はわたしの体のなかにいる~。お腹の下が燃えるように痛い。この痛み~。わたし幸せぇぇ~」などとファスビンダー映画にありがちなマゾヒスティックな叫びをあげて狂乱、「わたしを愛してくださいまし~」とハンスに懇願するのだが、彼に「われは聖霊なるぞ。触るではない!」と冷たく突き放される。ハンスのほうも芝居が嵩じて、本来の自分を忘れてメタフィジカルな存在と化しているようである。
 ハンスと懇ろなハナ/ヨハナも、彼がおかしくなっていることに気づき、「もうこんな茶番なんかやめて、どこかにずらかっちゃいましょうよ」と言うのだが、神がかった役割に完璧に同化してしまったハンスに相手にされない。
 というわけで、革命芝居はまだまだつづき、ハンスは学校の先生のように政治授業をおこない、かたや信者の奥様カーステンゼンは自分の夫を殺し、物語はどんどん狂った方向に向かっていく。
 そのあと、『アメリカの兵隊』と『愛は死より冷酷』のそっくりさん的シーンが登場する。
 まずハナとファスビンダーがふたりで河畔を歩き、ハナが「わたしたち、みんなを解放しようとしたし、目的が手段を正当化した。でも見込み違いだったわ。わたしたち、みんなに考えさせようとしたけど、みんな考えることができないのよ。祈らせることだけはできたけど...」と物語の核心を突くことを言い、革命に対する絶望感を表現、ふたりは同志として抱き合う。この場面、どこかで観たような気がすると思ったら、会話の内容こそ違え、数か月後に撮られることになる『アメリカの兵隊』で主人公リッキーがローザと河畔を歩くシーンと場所も撮り方も構図も同じである。
 次は、ファスビンダー、アントーニオ、ギュンターの革命家三人衆が街道を歩くシーン。過激派のギュンターは「ゲリラ部隊を組んで戦おう。奇跡を待っていたら目的は達成できない」と説き、アントーニオも「司教の頭をかち割って、宗教の正体を叩きだせば人民もわかってくれるはずだ」と、先のハナ/ファスビンダーの会話とは逆行する攻撃的な会話を交わし、物語は武装闘争化の方向に進んでいくことになる。
 このシーンも、どこかで観たような気がすると思ったら、内容こそ違え、一年前の『愛は死より冷酷』でハナ・シグラ、ファスビンダー、ウリ・ロンメルが街道を歩くシーンとそっくり。場所も撮り方も構図も同じである。
 舞台は変わって小劇場の舞台。ハンスも武力闘争しか手はないと熱弁をふるい、「人民は戦闘の口火を切る革命家を待っている。命を賭ける人民は必ず勝利を収めるのだ。一歩も退くな。自由か死かだ!」と勇ましい演説をぶつ。ところが観客席には、命を賭けるべき人民の姿はなく、革命家仲間の姿が見えるだけ。けっきょくのところハンスも扇動劇の役者にすぎないのだ。シーンの最初に映し出されるポスターにも「すべて忘れてください」と書いてある。


ゴミ捨て場のアマゾネス三人衆

 と突如、舞台は巨大なゴミ捨て場に変わり、またまた三人衆が登場。今回は血を浴びた三人の女性で、ヴェルナー・シュレーターのディーヴァだったマグダレーナ・モンテツーマが、「汝は戦いの恐怖の壮観、われは汝を呼ぶ者ぞ。殲滅をもたらし、戦慄をもたらすものよ、来たれ!」と、やたらと古風で好戦的な台詞を叫んでいる。
 この台詞だったら、どこから引用されたか、ミケに訊かなくもわかるぞ。これは、女人族アマゾネスの女王を主人公にしたハインリヒ・フォン・クライストの陰惨な戯曲『ペンテジレーア』(1808)の一節である。どうしてそれがわかったかというと、理由は簡単。この戯曲、このまえ読んだばかりで、まだわたしの記憶に残っていたからである。とはいうものの、あと三日も経てば自分が何を読んだか完全に忘却してしまう可能性が大であると言わざるをえないが、それはともかく、モンテツーマがペンテジレーアの戦闘の雄叫びをあげる傍らで、両脇のアマゾネスは革命歌「インターナショナル」のメロディをハミング、武装闘争への道はさらにエスカレートしていく。
 革命蜂起の報を耳にして怯えたクルト・ラープの司教様は、大股開きで鎮座している無言のお母さんに「ママ~、ぼくを修道院に入れてちょうだい、だれもぼくを襲えない独居房にいれてちょうだ~い」と小心者ぶりを発揮するのだが、顧問官が、「本日ハンスを逮捕し、火あぶりに処することになっております」と告げると一安心。司教様は「火あぶり? それってすごく苦しむんでしょうね。それ、すてきだわ、すてきぃ~!」などと倒錯したことを口走る。


火刑台上のハンス・ベーム

 ところはハンスと信徒たちが憩うキャンプ場。
 ハンスはのんきに湯浴みなどしており、「花咲く五月のなんと美しいことか。冬は過ぎ去り、わが心に美しい乙女の姿が浮かぶ~」などと民謡を口ずさんでいる(この映画、本当に美しい五月に撮られたのである)。ハンスの湯浴みのお世話とバックコーラスを担当するのは、カーラ・アウラウルー、イングリット・カヴェーン、エルガ・ゾルバスの三人娘。それにしてもハンス君、革命家というより、なにやら新興宗教の教祖様じみている。
 と、彼らの背後に例の告げ口農民の直立不動の姿。こりゃやばい。また密告したんだな、と思うなり、ドイツの警官とアメリカの憲兵があらわれ、銃を乱射、キャンプ場の信徒たちを皆殺しにしてしまう。
 ハンス本人は憲兵に生け捕りにされ、生き残ったふたりの信者も警官に連行される。
 こうしてハンスは焚刑に処されることになる。処刑はシュールなオペラ仕立てだ。
 刑場は巨大な廃車置き場。まず司教様がベンツで乗りつけ、アメリカの憲兵にファシスト式敬礼で挨拶を送る。山と積まれたポンコツ廃車の前面には、十字架が立ちならび、ハンスと逮捕されたふたりの信者が十字架に縛りつけられ、その後方には上半身裸の少年聖歌隊、手前にはスーツ姿の密告農民、いつものごとく跪いて祈っている裕福な奥様カーステンゼン、ソプラノ歌手、それに死刑執行人という、これまた絵画的な構図。司教様はお決まりの祈祷を行い、少年聖歌隊が歌い、十字架に火がつけられ、ペーア・ラーベンの「キリエ・エレイゾン(神よ、憐み給え)」が流れ(この曲は後年の映画『シナのルーレット』のエンディングでも使われることになる)、ソプラノ歌手がオブリガートで歌い、ハンスは演劇的に絶命する。
 こうしてハンスの芝居がかった革命扇動は、芝居がかった処刑で終わるのである。


急場の革命蜂起

 舞台は、冒頭のシーンに出てきた革命発起人のアジトに変わる。
 ある男が、外国語訛りのドイツ語で雑誌の記事を朗読している。それは抑圧された人民による世界革命と武力闘争に関するもので、どうもブラック・パンサー関連のものらしい。その背後には三人の若者が座り、ひとりが火炎瓶の製造法を教えている。
 そしてギュンター・カウフマン率いる革命軍がとうとう武装蜂起を起こし、警察隊を攻撃、多くの死傷者が出る。
 最後に映し出されるのは、生い茂る麦畑のなかを歩く革命発起人ファスビンダー、ハナ/ヨハナ、アントーニオの後ろ姿。その図にファスビンダーのナレーションが重なり、こんなことが語られる。
「彼と同志は、圧政に対して直接攻撃をしかけようとした。首都の警察隊兵営への突撃では多くの者が死んだ。(...)その三年後、彼は八十名を超える者を引き連れボートで再来、上陸のさい、ほとんどの者が戦死した。だが彼とその同志たちは、自らの過ちから学んだ。彼らは山のなかにこもったのだ。そして革命は勝利を収めた」
 この話、どこかで聞いたことがあるように思うのだが、これが何だったかどうしても思い出せない。そこで、お助けキャットのミケのほうを見やってみると、ミケはスキューバ・ダイビングの真似をし、酒粕をなめ、お寿司のトロをつまみ食いした。そうか、これ、キューバ革命の話ではないか。「彼」とはカストロのことであった。先の革命軍の警察隊への攻撃シーンはキューバ革命に因むものだったのである。
 こうしてこの映画、たしかに最後に「革命は勝利を収めた」と告げられる。だが、その裏には革命の実現性に対する作者の深い懐疑と絶望が、色濃く空しく漂っていることは言うまでもない。
 その後のファスビンダー映画では、革命はもう名目上の存在にすぎなくなり、『キュスタース小母さんの昇天』(1975)では、主人公の不幸な小母さんが自称革命家の行動の口実に使われ、『第三世代』(1978/79)では、革命家を気取るテロリストたちが無意味な行動主義に走って資本家の操り人形と化した。こうしてファスビンダーの「政治物」は、どんどん現実世界における革命への諦念を深めていき、マクロの革命テーマは退き、個人の頭のなかのミクロの革命がどんなに難しいかが取り上げられることになる。





1 映画のクレジット画面には監督、脚本の明記はない。単にファスビンダーとフェングラーの作品となっているだけである。『R氏』も同様で、こちらはフェングラーの名のほうが先にくる。なお『R氏』をフェングラーの映画だとはっきり言っているクルト・ラープは、こちらの『ニクラスハウゼン』については「ファスビンダーが撮った」と書いているし(Kurt Raab/Karsten Peters: Die Sehnsucht des Rainer Werner Fassbinder. München 1982, S,156)、ファスビンダー・ファウンデーションのサイトでは監督ファスビンダー、脚本フェングラーということになっている
2 Peter Märthesheimer in Juliane Lorenz (Hg.): Das ganz normale Chaos. Berlin 1995, S.125-126; Günter Rohrbach in Lorenz前掲書S.187
3 Wilhelm Roth: “Kommentierte Filmografie” in Peter W. Jansen/Wolfram Schütte (Hg.): Rainer Werner Fassbinder. 2. ergänzte Auflage. München 1975, S.113
4 たとえばWilhelm Roth: “Kommetierte Filmografie” in Peter W. Jansen/Wolfram Schütte 前掲書, S.112; Christian Braad Thomsen: Rainer Werner Fassbinder. Hamburg 1993, S.121; Thomas Elsaesser: Rainer Werner Fassbinder. Berlin 2001; Michael Töteberg: Rainer Werner Fassbinder. Reinbek bei Hamburg 2002, S.50; 『ファスビンダー』(現代思潮新社、2005)、283頁; Jürgen Trimborn: Ein Tag ist ein Jahr ist ein Leben. Berlin 2012, S.209などなど
5 cf. Stefan Primbs: “Niklashauser Fart, 1476” in Historisches Lexikon Bayerns, 2017年9月20日閲覧
6 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『ファスビンダー、ファスビンダーを語る』第2巻(boid, 2015)、246頁
7 『バイエルンのアナーキー』の台本はRainer Werner Fassbinder: Theaterstücke. Frankfurt am Main 2005, S.271-312に所収されている
8 『バイエルンのアナーキー』の最後では、資本主義の救世軍たるアメリカ軍が突入、革命は潰されてしまうことになっていたのだが、この部分の台詞は残念ながら消失、出版されているファスビンダーの台本には収められていない。cf. Fassbinder前掲書、S.659
9 Peter Märthesheimer in Lorenz前掲書S.125ff
10 Margit Carstensen in Juliane Lorenz (Hg.): Das ganz normale Chaos. Berlin 1995, S.119
11 Rainer Werner Fassbinder: Fassbinder über Fassbinder. Frankfurt am Main 2004, S.411
12 cf. Kurt Raab/Karten Peters: Die Sehnsucht des Rainer Werner Fassbinder. München 1982, S.157
13 cf. Hanna Schygulla: “Wie alles anfing" in Rainer Werner Fassbinder Foundation (Hg.): Rainer Werner Fassbinder. Berlin 1992, S.84






明石政紀(Masanori Akashi)
著書に『ベルリン音楽異聞』(みすず書房)、『ポップ・ミュージックとしてのベートーヴェン』(勁草書房)、『キューブリック映画の音楽的世界』、『フリッツ・ラング』(以上アルファベータ)、『ドイツのロック音楽』、『第三帝国と音楽』(以上水声社)、訳書にファスビンダー『ファスビンダー、ファスビンダーを語る』全3巻(boid)および『映画は頭を解放する』(勁草書房)、ボーングレーバー『ベルリン・デザイン・ハンドブックはデザインの本ではない』(ベアリン出版)、ヴァイスヴァイラー『オットー・クレンペラー』(みすず書房)、サーク/ハリデイ『サーク・オン・サーク』(INFAS)、ケイター『第三帝国と音楽家たち』(アルファベータ)ほか。賞罰なし。

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