boidマガジン

2017年09月号 vol.4+10~12月号

樋口泰人の妄想映画日記 その57

2017年12月24日 21:21 by boid

boid社長・樋口泰人によるboidの業務日誌ときどき映画&音楽&妄想日記。名古屋、東京、京都、山口へ移動、滞在した11月11日から20日の日記です。各地で爆音上映している『ベイビー・ドライバー』で聞こえてくる「ベイビー・アイム・ユアーズ」について、そして山口での映画座談会で語った映画館で映画を観ることについての気づきについても書いています。



文・写真=樋口泰人

名古屋から京都、そして山口へと移動。落ち着かない。心ここにあらずである。浮遊する心に身体が追いついていかない感じもする。その一体感のなさが妙に気持ちよくもあり、身体から心が離れていってしまうギリギリのところで生きていけたらとも思う。疲れているのかもしれない。もちろん元気になったからといって何ができるわけでもない。

11月11日(土)
名古屋爆音。金曜夜からの調整が終わり、寝たのが朝7時過ぎ。昼過ぎに起きて、名古屋シネマテークの担当者とともに、シネマスコーレそばのカフェにて昼食。シネマテークのある今池一帯もそうなのだが、シネマスコーレの周りまた、まだまだ「昭和」である。カフェがあったのは、小さなハモニカ横丁のような場所だった。



夜になるにつれ体調が悪くなり、夜は早めにホテルに戻る。


11月12日(日)
体調戻らず、本来なら最後まで付き合うはずのところ、1日早めに東京へ。



11月13日(月)
12月の松本爆音の告知の一環として信濃毎日新聞から取材を受ける。映画祭開催が初めての場所では常に、爆音の始まりからを説明することになるのだが、毎回同じことを話すのはなんだか面倒だと思うところ、やってみるとやはり毎回自分でも何かの発見がある。毎回同じに見えて、毎回違う。波のようなものだ、ということにしておく。



11月14日(火)
日本では2018年3月に『リメンバー・ミー』という邦題で公開されるらしいディズニー映画のアメリカ版のポスター画像がネット上に載っていた。日本の告知サイトではすごくいい話のような解説がされているのだが、アメリカ版ビジュアルを見る限り、相当狂った人たちが作っているのだと思う。というかほぼグレイトフル・デッドなので、こういうポスターデザインが平気で公開されるというのは、デッドのアメリカでの認知度の問題なのか、あるいはサイケデリックな空気を十分に吸い込んだハリウッドの狂った一面を許容する懐の深さととるべきか。日本ではこのようなポスターが作られることは、残念ながらまずない。




11月15日(水)
ジョン・キャメロン・ミッチェル『パーティで女の子に話しかけるには』試写。『ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ』の監督の新作という情報しかなく、まっさらな状態で観たのだが、タイトルと内容がまったく結びつかず驚いた。原作も同タイトルなので、これはそういうものなのだろう。『20センチュリー・ウーマン』もそうなのだが、1980年前後の時代設定をされるといろんな思い出が重なって、それだけで胸が痛む。しかしなぜか両作品ともにエル・ファニングが天使みたいな役割で登場する。その時代をリアルタイムで経験した者にとって、当時はこんな女子はどこを探してもまったくいなかったと言いたくなるような、どこかはっきりと空気が違う感じを、どちらの映画でもエル・ファニングが醸し出している。今回は宇宙人という設定だから特にそうなのだが、しかしその彼女が、記憶ではスージー・スーの歌を歌うのだった。その場にまったくそぐわないから歌えるというか、リアルタイムでは実在しなかった存在から聞こえてくるもの見えてくるものがそこにあって、それを彼女が体現していると言ったらいいのか。いくら説明しても実物にはたどり着かない不確かな存在の確かさ。エル・ファニングの、何となく人間離れした肉体とぼんやりとした輪郭が、そんな存在にぴったりなのだと思う。数十年前を振り返った時の、記憶の中の幻のような存在と言ってもいい。だからこの映画を観る人の想い出の力によって、エル・ファニングは変形する。女優だからそれくらい当たり前と言えば当たり前のことなのだが、存在そのものが可変的であるという、宇宙人的な肉体を持つ稀有な女優としてのエル・ファニングについて妄想が膨らんだ。

その後、某所で某企画の打ち合わせ。待ち合わせた場所は絵画館前のカフェだったのだが、ものすごい観光客の数。銀杏並木が見ごろであった。こちらもお上りさんになってしまった。

 

さらにその後、某スタジオに行き、スターチャンネルで12月から放映が始まる映画の紹介番組のための収録。とにかくこれからスタートなので、番組自体も形が決まっておらず、今回はとにかくおすすめの新作について、1本30分くらいかけて話すというコンセプトでおこなった。簡単な質問に答えつつ気が付くと40分以上話していたような気がする。1本目はカウリスマキの『希望のかなた』に関して。もちろん冒頭のシーンのサボテンについて。あれこそがアメリカでありああいうサボテンを写すことができるかどうかで監督の質が決まってくるという話を。そして気が付くと後半のレストランのシーンでも、まるでそのサボテンをなぞるかのように、まったく不必要にぼさぼさ頭のジミ・ヘンドリックスの肖像画が、レストランの壁に掛けられているのだった。北の国から遠く眺められたアメリカがそこにある。

もう1本は『映画 潜行一千里』。この映画の時間のなさ、時間そのものがどこかに消えていってしまったような永遠について。映画製作の始まりから完成に向けての線状の時間の流れが気が付くと、ふわっと消えていく。『バンコクナイツ』という映画のメイキングとして作られたこの映画がそうやって時間を失うとき、それもまた『バンコクナイツ』にそのまま接続して、その一部となる。メイキングではなく、本編そのもののような表情を見せたりもして、それをまた、『バンコクナイツ』という映画が受け入れている。同時に発売された書籍版の『潜行一千里』もまた同様。ひとつの映画の時間と空間の輪郭が膨張してあらゆるものを飲み込んでいく。その飲み込み具合が『映画 潜行一千里』という形になっているように思う。


11月16日(木)
もろもろの打ち合わせを済ませ、京都へ。80年代の高円寺仲間に30年ぶりくらいで再会。近況を伝え合い、そして爆音映画祭準備のためにMOVIX京都。音の調整前に、機材の説明やら、作品の解説やらをFBを使って配信をした。上映するのはすでにおなじみの作品ではあったので、それらの見どころを。今後、こういう形での紹介も面白いかもしれない。こちらの意図などもじわじわと伝えていけたらと思う。
調整は『ベイビー・ドライバー』『マッドマックス』『キングスマン』『ラ・ラ・ランド』『セッション』。爆音で映画を観ると小さな音もかなりはっきりと聞こえてくるので、思わぬ音に気付くことがある。『ベイビー・ドライバー』で主人公たちが初めてお互いの名前を名乗りあうシーンで、そのバックに流れていたのはバーバラ・ルイスの「ベイビー、アイム・ユアーズ」という歌だった。


ダイナーの店内音楽のように聞こえるのだが、主人公のイヤホンから聞こえてきている、ということなのか。主人公の名前がベイビーで、彼女の名前がデボラ。ふたりはその時、ティラノザウルス・レックスの「デボラ」の話をして(映画の会話の中ではT.レックスの「デボラ」となっている)、ベイビーが「デボラ」を歌ったりする。その時イヤホンでベイビーが聞いていたのが、「ベイビー、アイム・ユアーズ」というわけだ。画面の中ではデボラがにっこりと笑う。その時の会話とも映画の物語ともまったく関係なく、あらゆるものから独立して、ただ単に彼女がほほ笑む。時が止まる一瞬。時間の消えた隙間。そこから「ベイビー、アイム・ユアーズ」が流れてくるのだと言いたくなる、そんな一瞬がそこにあるのだ。ああ、この曲がこの時流れていたから、それが運命的な出会いになったのだと思う。彼らの物語はこうやって始まった。この映画の最も好きなシーンである(2番目に好きなシーンはまたどこかで)。サントラには入っていない。ツイッターにも書いたのだが、わたしはママ・キャスがカヴァーしたこの曲が大好きだ。何と言ったらいいのか、失われた時が一気に目の前に広がる、その果てしない悲しみの風景にひたすら涙を流すばかりである。


調整は予定時間をだいぶオーバーした。終了午前7時。


11月17日(金)
昼過ぎに起きて仕事を片付けつつ映画館に向かう。その前に並びにあるドトールで原稿書きをしていたら、目の前の店舗が火事。ドトール店内がざわついている。「煙が!」みたいな声も聞こえる。だが、本気の火事ならもっと大騒ぎになるはずなので、原稿書きに戻る。どうやらボヤ程度だったらしいのだが、場所が場所だけに、消防の方たちも大勢やってきて、道路は人だらけになった。

 

夜の調整は『レ・ミゼラブル』『この世界の片隅に』『君の名は。』『デスプルーフ』。終了、朝7時過ぎ。外に出るとすでに何名かが映画館の前でならんでいた。シネコンなので爆音に並んでいるのかほかの作品なのか、ほかの作品だったとしたら何なのか、まったくわからない。いずれにしても若者たちのエネルギーはすごい。若いころから朝から並ぶようなことはできなかったが、今やもうそういうことを想像することもできない。




11月18日(土)
完全に朝までの作業で疲れ果て、昼過ぎまで寝ていたが、まあ、元気がないと眠ることもできない。ぼんやりと起きてぼんやりと仕事。京都はぼんやりできるカフェや喫茶店が多いので本当に助かる。東京はこういう空間が少なすぎる。東京にいる時にわたしが忙しすぎるだけなのか。



11月19日(日)
カフェが多くて楽に仕事ができると言ってもやはり京都は都会なので、あれこれと時間に追われて落ち着かない。気が付くと映画祭も終わり。夜の京都は本当に寒い。



11月20日(月)
山口へ。YCAMの元映画担当だった松冨さんが始めた小さな本屋さんで、「映画雑談会」というのをやるのである。トークイヴェントが終わった後の懇談会、打ち上げに近いノリで、映画についてみんなで話すという試み。とはいえまあそう簡単に目論見通りになるわけでもないのはわかりきっているのでさてどうするかというところ。
その前にYCAMに寄り、現映画担当の杉原くんと来年の爆音の打ち合わせを。爆音会場でもあるスタジオAを覗いたらただの広い暗闇だった。エントランスには謎の紐が張り巡らされていた。これからもっと増えていく予定だという。




夜の雑談会は、その場にあった、発売されたばかりの「ブルータス」の観てない映画特集をネタにすることにした。50本くらい挙げられているうちの1位から順番に、みんなで観ている観ていないを確認しあっていく。その中でいろんな話をした。結局話が長くなりすぎて数本しかできなかった。どんな話をしたのかほぼ憶えていないが、その日とりあげた映画のほとんどをわたしも観ていないことも判明。ひとつだけ、わたしが映画館に映画を観に行くのは映画を観に行くんじゃなくて自分を見失いに行くのだという話をした。ようやく最近、なぜ自分が映画館に行くのかがわかってきたのである。生きているとどうしても出来上がってしまっている「自分」という輪郭が、映画館と映画によって解きほぐされていく。自分だったもの、自分だと思われていたものが、その輪郭から外ににじみ出て映画と触れ合う。たぶん多くの人もそうなのではないか。そうだとしたら、そこでわたしはわたし以外の人たちの「わたし以外の人たちだったもの」や「わたし以外の人たちだと思われていたもの」と輪郭を介さずに、映画が作り出す時間を共有しながら触れ合ってもいるわけだ。そんなことができるのは映画と映画館しかありえない。覚醒していなくても踊らなくても立っていなくてもいいし、眠っていてもいいし、椅子と一体化していてもいいし、つまり映画と映画館とそれを観る人々とともに夢見る夢に侵されて、その夢の名残を自分の中に堆積させていく。そしてますます自分が誰だかわからなくなっていく。こんなうれしいことはない。





樋口泰人(ひぐち・やすひと)
映画批評家、boid主宰。映画『PARKS パークス』はソフト&レンタルリリース。『めだまろん/ザ・レジデンツ・ムービー』『DARK STAR/H・R・ギーガーの世界』公開中。年明けは1/4(木)「アナログばか一代」新年会からスタート、湯浅学さん、直枝政広さん、井手健介さんのライブもお楽しみください。

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