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2018年03月号

俚謡山脈の民謡を訪ねて 第0回(俚謡山脈)

2018年03月29日 11:57 by boid

日本各地の民謡を収集・リサーチし、DJプレイやCD・レコードの再発を手掛ける2人組のDJユニット俚謡山脈(ムード山+TAKUMI SAITO)の新連載。「俚謡山脈の民謡を訪ねて」では彼らが活動を通じて出会った民謡の魅力を対談形式などで紹介してゆきます。今回は第0回として、写音機とともに日本をくまなく巡り、「生活から生まれた声」としての日本の民謡の採集と研究に偉大な功績を残した町田佳聲と竹内勉について。



文:俚謡山脈


我々は俚謡山脈。民謡のレコードを買い、ターンテーブルに乗せて爆音でプレイする。そしていつも思う、「民謡は最高にカッコいい」と。この連載では我々がその活動を通じて考えたことを綴っていきたいと思う。そして「民謡とは何か?」という大きな問いに、我々なりの答えを提示していきたいと思う。我々の活動の現場は主に夜のクラブだ。一瞬一瞬の音や感情の交錯が奇跡のような瞬間を生み出したりするが、その喧騒に飲み込まれて伝えきれなかったり、忘れてしまったりすることも多々ある。あの時感じた「民謡は最高にカッコいい」という感情を、文字に起こして整理してみたいのだ。

連載第0回目の今回は、まず大前提として、俚謡山脈にとって最大のアイドルである「町田佳聲」と「竹内勉」について皆さんに知ってもらうための文章を書くことにした。次回からは俚謡山脈二人が対談形式でお届けする。

町田佳聲(カショウ)の一般的な肩書きは「民謡研究家」だが、日本の民謡を語る上で最も重要な人物だ。佳聲がいなかったら我々は民謡にここまで狂うことはなかったと断言できる。我々が佳聲に付けた別名は「日本最強のディガー」だ。まあ我々も普通の人に比べれば相当にレコードを買う人間だが、佳聲は「DJ」や「レコードコレクター」などとは次元が全く違う怪物である。この日本で音楽好きを自認している人々で、一体何人がその偉業を知っているだろうか?我々が佳聲のそのイカれた偉業を知った時、衝撃を受けると同時に「同じ日本人にこんなにヤバい奴がいたなんて、日本も捨てたもんじゃないな〜」とある意味誇らしく思えた。


町田佳聲



町田佳聲は1888(明治21)年6月8日生まれ。簡単な略歴はウィキペディアを参照して欲しい。
長唄などの邦楽演奏や、洋楽の影響を受けた新しい邦楽を作ろうとした「新日本音楽運動」などへの参加を経て、NHKの前身にあたる東京放送局へ入社したあたりから佳聲の人生は「民謡」へ大きく舵を切り出す。邦楽担当プログラムの編成員となった佳聲は、それまで長唄、常磐津、謡曲といった堅苦しい内容ばかりだった邦楽番組の中に、新たな基軸として田舎の唄、里の唄である「俚謡」の番組を企画したのだ。(当時はまだ「民謡」という語は一般的ではなかった)1925(大正14)年7月12日、初の俚謡放送の反響は凄まじいものだった。「面白いからもっとやれ!」といった電話が放送局に次々に入り、ついには放送時間を延長して十数曲を放送したという。我々は想像するしかないが、「芸」として洗練された長唄や常磐津に対するオルタナティヴとしての俚謡(民謡)が電波に乗り、人々を熱狂させたというのはなんとも胸踊る話ではないか!その後も佳聲の俚謡放送は各地の民謡家を局に招いての放送を重ね、エキサイティングな日々が続いた。後に「新たな俚謡を創作する」というムーヴメント「新俚謡(新民謡)運動」も起こり、佳聲が持ち前の作曲能力で名曲「ちゃっきり節」を作曲したのもこの頃の話だ。


ちゃっきり節/市丸



日本で唯一の放送局の名ディレクターであり、有能な作曲家でもあった佳聲がなぜ「日本最強のディガー」へと転じ、民謡収集に人生を費やすことになったのか?転機は昭和9〜10年に訪れた。昭和9年、組織の大改革によって佳聲はNHKを退社。時を同じくして新民謡運動も行き詰まりを見せていた。都会的な歌を求める人々には歌謡曲が、郷土色を求める人々には地方の俚謡が、それぞれ多数リリースされるようになったため、新民謡は中途半端な存在になってしまったのだ。そんな中、佳聲が光明を見出したのは「ガルヴァー社」の委託レコード盤だ。このガルヴァーの委託盤システムは、1枚5円で個人の声を記念レコードにしてくれるというものであった。


226事件の録音傍受で有名な盤もガルヴァー製だ!



佳聲はこのガルヴァーのレコードを使い、民謡番組を録音することで、民謡採集ができるということを思いついたのだ。元々邦楽の演奏者でもあった佳聲は三味線の採譜はできる。録音した民謡の音源を採譜して、「何か」ができると閃いた。また時を同じくして柳田国男らによる民俗芸能研究の機運が高まっていた。放送し、作曲する立場から「民謡大採集時代」へと乗り出したのは町田佳聲48歳の時であった。

佳聲は金の続く限りひたすら民謡番組をレコードに刻み続けた。ICレコーダーはもちろんテープすら無い時代、それだけでも十分にクレイジーだと思うが、佳聲はそれに飽き足らず、新たな民謡収集方法を考え出す。それが「写音機」である。


写音機を肩から下げた町田佳聲



我々が一番ぶっ飛んだのはこの写音機かもしれない。これは簡易的なカッティングマシーンとレコードプレイヤーを合体させたような機械で、空のラッカー盤をターンテーブルに乗せ、レコードの針の部分に取り付けられたカッティングマシーンで録音=ダイレクトカッティングするというものだ。磁気テープも無い時代、「録音する」ということはどれほど大変なことだったか。佳聲はこの写音機を自身の使いやすいようにカスタマイズし、民謡採集の旅に出たのだ。三貫五百匁(約13KG)の写音機を肩に思い切り食い込ませながら佳聲の旅は始まった。この創意工夫と根性!

さて採集する「民謡」である。民謡とは生活と結びついた唄であり、生活に結びついていない民謡はすでに民謡では無い。とするならば、佳聲が民謡採集に着手した1937(昭和12)年の時点で、「生活と結びついた唄」を録音できるタイムリミットはそこまで迫っていた。佳聲は取り憑かれたように日本全国を駆け巡り、各地で消え去りつつあった労作唄や祝い唄を次々にレコードに刻み付けていった。苦労して唄を知る年寄りまでたどり着いても、機嫌が悪く唄ってくれない、恥ずかしがってしまう、写音機を見て恐れをなす年寄りも多かった。また、写音機が故障したり、遥々海を渡って島に渡ったは良いが、島には電気が通っておらず録音を断念することもあった。更に時は戦時中、大きな怪しげな機械を下げて田舎をうろつく佳聲はスパイと疑われることもあったという。そうして丹念に集めた唄を分類/分析し、はいや節とおけさの繋がりをはじめ、多くの唄の分布と伝播経路を発見していったのだ。真っ白な地図を自分の足で歩いて埋めていく、正しくパイオニアと言えるこの偉業は、後年「日本民謡大観」という形で結実する。

掘る対象は「唄」を知る「人間」そのものであって「レコード」などではない。その事実は民謡のレコードを収集していた我々に衝撃を与えた。そして今まで自分たちが規定してきた「ディグ」という行為の範囲がいかに狭いものであったかを思い知った。と同時に、遠路遥々出かけて行って収穫がなかった時の虚しさや、レアな1曲に出会った時の興奮などは、我々と大いに共通していると感じ、勝手にシンパシーを覚えたりもした。

共同作業者である藤井清水(きよみ)の急死や、太平洋戦争など数々の試練を経て、「日本民謡大観・関東編」が刊行されたのが昭和19年。そこから遡ること7年前の1937(昭和12)年に竹内勉は東京に生まれた。佳聲とはちょうど50歳違いである。後に佳聲に師事し、日本民謡大観を完結させる偉業の手助けをすることになる竹内は、佳聲と違い長唄などの邦楽を通っていない。48歳から採集を開始した佳聲に対し、12歳から民謡採集を開始した生粋の民謡クレイジーだ。

佳聲はまず現地に赴くと、その役場に行き、唄を知っていそうな年寄りを集めてもらうという方式を採っていたが、竹内のやり方は全く違う。自転車を走らせ、唄がありそうだな〜という古い農家や民家を見つけるとそのまま乗り込んで唄を採集するのだ。年寄りの話を聞くテクニックに恐ろしく長けていた竹内は、25歳になるまでに定職に就かず東京中を自転車で駆け抜け、1万曲を超える民謡を個人の力で採集していた。竹内もまた、消滅のタイムリミットが目前に迫った東京の民謡を、どうにか録音しておこうと必死だったのだ。この常軌を逸した民謡採集への情熱を心配した竹内の姉が佳聲に手紙を書いたことから二人は邂逅を果たす。


竹内勉



佳聲が当時解説者をつとめていたラジオ番組「民謡お国自慢」を竹内が毎週欠かさず聴いているのを知っていた竹内の姉が、「うちの弟をどうにかしてください」という旨の手紙を書いたところ、佳聲から「一度会ってみたい」という返信がきたのだ。渋々会いに行った竹内は、マトモに就職を薦める佳聲に、「私はやめません」と席を立とうとするが佳聲は引き止める。同じ民謡を愛する者同士、最終的には心が通じ合い、以降竹内は70歳を超えて体の自由も効かなくなってきた佳聲の手足となって日本民謡大観の完成まで支えることになった。

折しも当時(昭和30年代はじめ)は「民謡ブーム」が勃興しはじめ、「生活と結びついた唄」が次々に消えていく一方で「プロによる民謡」が隆盛を誇ろうとしていた。その中で「ハードコア民謡」の極致とも云うべき、「東京の古謡」「日本労作民謡集成」「民謡源流考」「生活の中に生きた日本の民謡」といったレコード作品を二人の共同作業(実質的な採集/録音作業は竹内が行った)によって次々とリリース、「日本民謡」という言葉の意味はこの二人の仕事によって規定されたといっても過言ではない。

民謡ブームの最中、佳聲も竹内もその道の第一人者として数多くの民謡レコードを監修したり、民謡番組の解説を務めたりしていた。我々が最も多く目にする竹内勉の名前はレコードの解説文かもしれない。また、我々はリアルタイムで聞くことはなかったが、竹内が解説を務めるNHKのラジオでの歯に衣着せぬトークは「民謡ってなんだ?」ということを考える上で大いに影響を受けた。NHKのラジオは今放送している民謡番組を止めて、過去の竹内番組の再放送をするべきだ。


竹内勉のラジオより「仕事唄は今」



「生活から生まれた声」である民謡にこだわり続け、師匠弟子の関係から生まれる「稽古事」、技巧に走る「コンクールありき」の民謡界からは一定の距離を保った竹内だったが、一方で、土地の香りを芸に昇華させた「名人・上手」は高く評価していた。何でもかんでも三味線や尺八を入れてしまうのではなく、その唄の持つバックグラウンドや歌詞の内容を汲み取った上で、必要な楽器を加え、不要なものは省き、適切なアレンジをすることが重要だという指摘は、竹内の著作の中に何度も出てくるし、今こそ重要な意味を持つ指摘だ。

1981年9月19日に佳聲は93年の生涯を終えた。佳聲の死後も竹内は独自の民謡採集と研究を続け、「民謡地図」シリーズを始めとする数多くの著作を残した。その中では、佳聲の時代には分からなかった事実や、新発見も盛り込まれ、民謡研究を最後までアップデートし続けたのである。その竹内も2015年3月24日に亡くなってしまった。

彼らが残してくれたのは膨大な量の貴重な録音ばかりではない。民謡がどこで生まれて、移動し、変化をしていったか、保存とは何か、正調とは何か、民謡に関するあらゆる疑問とその答えはこの二人が既に出し尽くしているのだ。しかも大学教授や学者なんかじゃない、ただの民謡好きが、民謡に対する愛情だけを糧に、これほどの大仕事をやり遂げた事実に我々はただ感動するしかない。


「民謡に生きる 町田佳聲八十八年の足跡」



本稿を執筆するにあたって竹内勉著の町田佳聲評伝「民謡に生きる 町田佳聲八十八年の足跡」を大いに参照した。というかほぼその本に書いてあることしか書いていない。「民謡に生きる」に出会ったことが俚謡山脈としての活動を始めるきっかけになっていることを告白しよう。佳聲による「民謡に生きる」のあとがきには「バトンを渡したよ竹内君」という言葉が記されている。竹内勉からバトンを渡されたかったが、生前に会うことは叶わなかった。今、我々は見えないバトンを渡された気になって今日も民謡のことをあれこれと考えている。

注:文中の町田佳聲の表記は「佳聲」で統一したが、何度か改名をしているため時期によって名前は違う。また「町田」と表記しなかったのは、我々が普段から「カショウ」と呼んでいるためだ。



俚謡山脈(Riyo Mountains)[ムード山+TAKUMI SAITO]
世界各国の音楽がプレイされるDJ パーティ「Soi48」内で活動する日本民謡を愛する2人組DJユニット。日本各地の民謡を収集/リサーチし、DJプレイしたりCDやレコードの再発を手掛けている。主なリリースにMIXシリーズ「俚謡山脈 MIX VOL.1」~「VOL.4」、「田中重雄宮司/弓神楽」(監修/エムレコード)、「境石投げ踊り」(監修/エムレコード)など。ロンドンのインターネットラジオNTS LIVEに日本民謡だけで構成されたMIXを提供。農民ダイナマイト(山梨県)、大和町八幡神社大盆踊り会(東京)など各地のパーティーにDJで参加。
Facebook www.facebook.com/riyomountains
Twitter @riyomountains
E-Mail riyomountains@gmail.com

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