boidマガジン

2018年03月号

大音海の岸辺 第45回 (湯浅学)

2018年03月30日 22:15 by boid
2018年03月30日 22:15 by boid

大著作集『大音海』の編纂を兼ね、湯浅学さんの過去の原稿に書き下ろしの解説を加えて掲載していく「大音海の岸辺」第45回です。今回はニューオリンズ・サウンドの伝道師、ドクター・ジョン特集。ドクターの作品や仕事について80~90年代に書かれた原稿&インタヴュー10本を再録します。また湯浅さんが新たに書き下ろした解説では、ドクター・ジョンとの出会いや4月14日からデジタル・リマスター版が公開される『ラスト・ワルツ』のことが書かれています。

『イン・ザ・ライト・プレイス』



文=湯浅学


ドクター・ジョン『イン・ザ・ライト・プレイス』

 名作『ガンボ』でニューオリンズの古典に戻ったドクターが、トゥーサン+ミーターズと初共演。73年の作品。ヒット曲「ライト・プレイス・ロング・タイム」や、『ラスト・ワルツ』での快演が思い浮かんでしまう「サッチ・ア・ナイト」など名曲ぞろいだ。ただし、ここで聴かれるピアノ・プレイはドクターではなくトゥーサン、70年代ニューオリンズ・サウンドを知るうえではもちろん、『ガンボ』と合わせて、ドクター・ジョンを知るためにも必聴の1枚。この次に出た『デスティヴリー・ボナルー』も同様のプロジェクトによるもので、あわせてマスト。

(「ミュージック・マガジン」1987年7月号)
 




ドクター・ジョン インタヴュー

 ニューオリンズは不思議な街だ。カリブ、フランス、アフリカなど様々な文化が溶け合ったその風土から、不思議で、なおかつとても素晴らしい音楽が生まれた。その伝統を今も受け継ぎ、独自のサウンドを展開させているドクター・ジョンとネヴィル・ブラザーズが、日本でまたまたとびきり楽しいステージを披露してくれた。ニューオリンズ狂の湯浅学とS&Rには、インタヴューするなというのは無理な注文であったろう。
 3年前の来日のときよりさらに太ったなあというのが正直な第一印象だったが、とにかくうれしいニューオリンズ・ピアノの代表的人物、ドクター・ジョンがまたやって来てくれたのだ。今回はネヴィル・ブラザーズとの共演もあり、アーシーなギター・ワークも披露してくれた。50年代の中頃から現代まで、常にニューオリンズR&Bの最良質のエッセンスを存分に効かせ、聴かせてくれてきた偉大なる“ドクター”が語ってくれた今昔。


『ガンボ』のレコーディング・セッションは親睦会のようだった

――あなたが音楽活動を始めた50年代中頃、RIC/RONレーベルでの仕事はどのようなものだったのですか?

ドクター・ジョン(以下DJ) RIC/RONではA&Rマン、プロデューサーとして仕事をしたんだ。ジョニー・アダムス、トミー・リッジリー、クリス・ケナー、マーサ・カーターたちのレコードをプロデュースしたり、パーティー・ボーイズというレコーディングのためだけのバンドを作ったり、エドガー・ブランチャード&ゴンドライアーズやエディ・ボなどのレコーディングを手伝ったりした。ジョー・ラフィーノ、彼はRIC/RONのオーナーだった人だけど、彼がある日私の父と母の所にやってきて、私をぜひレーベルの社長として迎えたい、と言ってきたんだ。私がまだほんのガキだったのにだよ。父と母は顔を見合わせて笑ってたよ。「こんな15、16の子供が会社の社長なんかになれるわけがない。なにをバカなことを言ってるんだ」ってあきれてた。今から思えば、そんなに変なことじゃないんだけど、当時としてはかなり笑える話だった。そのころは、もっぱら曲を書いたりギターを弾いたりしているだけで、プロディースの仕方なんて全くわからなかったよ。他の連中も同じで、レコードのプロデュースの仕方なんて知らなかった。アルヴィン・レッド・タイラーだけだな、レコードのプロディースができたのは。アラン・トゥーサンも私も、まだ修行中だったのさ。

――でも私は、RIC/RON時代の作品はその後のACEやREXなどでの仕事より良質だと思っているのですが。

DJ そうだね。私に好き勝手にやらせてくれた。子供の私を信頼しきって、自由に何でもやらせてくれたからよかったんだよ。ACEなどでの仕事ってのは、そのときの経験を生かしてやったわけだ。RIC/RONでやったジョニー・アダムスとの仕事は、他のものに比べて自分でもよいと思ってるし、ジョニーもそうだと言っている。ちょうど1ヵ月ほど前、ジョニーとアルバムをレコーディングしたんだ。RIC/RON以来だから、何十年ぶりだかわからないくらいの久々の共同作業だよ。ジョニーは私の大好きなアーティストさ。まだリリースされていないけど、今度のは自信作だよ。ラウンダーからリリースされる。私の書いた曲、ジョニーが書いた曲、パーシー・メイフィールドの曲などが入っているけど、RIC/RONのときのものに似ていると思うよ。

――1964年に活動の拠点をロサンゼルスに移されたのは、どういうことがきっかけだったのですか?

DJ 警察といざこざが起きちゃってね。テキサスの刑務所に送られて、服役後、家族がシンシナティに移住してしまっていたので、ニューオリンズに戻ることができなかった。他の家族のいるところで音楽活動しやすい場所と言ったら、LAしかなかった。LAでは、まずサム・クックと仕事をするはずだったんだけど、着いたときには、サムはもう射殺された後だった。まだ私が警察に捕まる前、ニューオリンズにいたとき、サムから仕事の依頼があったんだけど、私が服役中に彼は殺されちゃったんだ。サムとはニューオリンズのクラブで1週間ぐらい一緒にやったんだけど、結局レコーディングは実現しなかった。で、警察とのいざこざの原因だけど、罪状はドラッグだったんだ。でも本当のところは、私たちのような黒人と白人が一緒にプレイするバンドを一掃したかったからなんだ。強い人種差別が根底にあった。私は黒人のミュージシャンと仕事をしていたから、警察から目をつけられていた。白人黒人ミックスのクラブ=ブルーノートは、たびたび警告を受け、私たちがいなくなった後は、すぐに店を閉めざるを得なかったね。ミュージシャン・ユニオン、警察、政治家、クラブのオーナーたちの間ではトラブルが絶えなかったよ。黒人を雇っても雇われても取り締まられたものだ。

――ロサンゼルスに移ってからは、どのような活動をなさっていたのですか?

DJ レコーディング・セッションの仕事だよ。J・W・アレクサンダーやハロルド・バティステとの仕事、フィル・スペクターやソニー&シェールのセッションとか。その他、マーキュリー・レコードでバティステとハウマック・プロダクションを設立してインディペンデントのプロディーサーとして仕事をした。キング・フロイドとか、いろいろね。スタジオ・ミュージシャン、ソングライター、アレンジャー、結局、今と同じようなことをしていたわけだね。

――この時期のものでフランク・ザッパの『ランピー・グレイヴィ』にALLNIGHT JOHNというクレジットがあるのですが、これはあなたのことなのですか?

DJ う~ん、これは私のことじゃないと思うねえ。ザッパとは、彼のごく初期のアルバムのセッションに参加したことがあるんだけど、そのときに他のメンバーが騒ぎすぎるんで頭にきちまってね、大ゲンカして途中で仕事を放ったらかして家に帰ってきちゃったんだ。ザッパとはそれっきり。彼はそのときのことをずいぶん怒ってたみたいだよ。

――その後、72年にあの『ガンボ』を発表されるのですが、そのきっかけというのは?

DJ アトランティックが私のピアノ・プレイを知って、ニューオリンズ・ピアノのアルバムを作ることを提案してきた。これまでずっとやってきた曲を、ニューオリンズ育ちでLA暮らしのミュージシャンたちを中心に集めてやったんだ。すごく楽しかったよ。レコーディング・セッションというより親睦会みたいなものだったね。


帰国したら、新しいアルバムのレコーディングに入るつもりだった

――最近のニューオリンズの音楽状況はどうですか?

DJ 1963年くらいから状況は悪化するばかりだ。このころから売春とギャンブルの取締りが厳しくなって、ナイト・クラブは衰退していった。残ったクラブでもミュージシャンが仕事をできるところはほとんどなくなってしまった。現在はもっとひどい。豊かな音楽の歴史を持った町なのに、ニューオリンズで仕事をして生活できるミュージシャンがほとんどいないことは残念なことだ。ニューオリンズでは仕事が十分に得られないから、ヨーロッパや日本へツアーしたり、アメリカの他の街へ行って仕事をするということになるのさ。

――現在はニューヨークにお住まいですね?

DJ 下の子供たちはニューヨーク住まいだけど、上の子供たちと妻がニューオリンズに住んでいるから、両方を行き来しているんだ。ニューヨークは私の音楽活動の中心で、レコーディング、クラブでのジャム・セッションなんかをする場だ。ニューオリンズでは体を休めて、釣りに行くところさ。先月はニューヨークの22クラブ、ロン・スター・カフェなどでプレイした。ヴィレッジ・ゲイト・クラブにも時々出演してる。昼も夜も、ニューヨークだと忙しいものさ。

――昨年発表されたジミー・ウィザースプーンの『Midnight Lady Called The Blues』は、そうしたニューヨークでのセッションから生まれたものですよね?

DJ そうだよ。このバンドは特別のセッションではなくて、ギタリスト以外とは3年ほど一緒に仕事をしている。このレコードはライヴ・レコーディングで、オーバーダブはしていないんだ。一日で録音してしまったよ。ジミー・ウィザースプーンも全くリハーサルなしだったんで、歌詞をまちがえたりしている。でもこのレコードがグラミーにノミネートされたことはすごく誇りに思っているよ。今度のジョニー・アダムスのレコードも是非ノミネートしてほしいね。こういう仕事をBBキングやボビー・ブランドともやってみたいな。このジミーのアルバムに、もしあと二本のホーン、バリトン・サックスとトランペットが入っていたら完璧だったのに。そしたらグラミーを獲得していたよ、きっと。

――これまで30年以上の音楽活動の中で、特に印象に残るプロデューサーというと?

DJ 私をプロデュースする人ということだったらアラン・トゥーサン、レッド・タイラー、ヒュー・マクラッケンあたりかな。気分よく仕事のできるプロデューサーというのは、あんまりいないね。色々なプロデューサーと仕事をしてきたけど、各々に得意・不得意があるからね。特にニューオリンズの音楽ということになると、ほとんどの人がプロデュースの仕方がわからないから。例えば、ネヴィル・ブラザーズ。ジョエル・ドーンがプロデュースしたものは、まあそこそこだけど、完璧じゃない。ジャック・ニッチェがやったやつは、あんまりピンとこないね。ネヴィルが自分達で自分達をプロデュースする、トゥーサンが自らをプロデュースし、ドクター・ジョンがドクター・ジョンをプロデュースする。またはこの中で組み合わせ、それだったらお互いによいプロデュースができるだろう。でも、こういうことはレコード・ビジネスの上では起こりえないことさ。

――新しいバンドを編成されたということですが?

DJ ふたつのバンドがあるんだ。ニューヨークとニューオリンズにね。ニューオリンズのは、ハーマン・アーネスト、デヴィッド・バロウ、トミー・モランとやっていて、ニューヨークのは、エドリース・モハメッドとウィルバー・バスコムで、ギターがいない。それに両方のためのホーン・セクションとして、元ブルース・ブラザーズのルー・マリーニ、ルーサー・ロウ、デイヴィッド・ニューマン、ハンク・クロフォードからなるグループも持っているよ。ツアーのときは、ほとんどニューオリンズのバンドと回る。レコーディングは、場所によってふたつを使い分けている。今度のレコーディングには両方使うつもりだよ。

――ということは新しいレコーディングに入るのですか?

DJ そう。帰国したら弁護士と話をまとめ、レコーディングに入るつもりだ。去年から、ずっとブルーノートからリリースする話を進めていたんだけど、1ヶ月くらい前に、ブルーノートはやめたほうがいいって弁護士から言われた。ビジネス上のモメごとは気が滅入るね。私はただレコードが作りたいだけなのに。

――そうすると、これからの予定というのは?

DJ まず、ベニー・ウォレスのアルバムを完成させなくちゃ。それから、ダーティ・ダズンとのレコーディング、ニュー・オーダーとセッション、ケニー・ロギンスのレコードをやって、ドク・ポーマスと『再会の街/ブライトライツ・ビッグシティ』の映画音楽の作曲。そうそう、自分の曲作りもあるよ。その他に6つのプロダクションを通してCMの仕事もしている。忘れちゃってることもたぶんあるだろう。1ヶ月前には、ディープ・パープルやケニー・ロギンスとか、10枚ぐらいのレコーディング・セッションに参加したよ。プロデュースやアレンジで関った場合は、半日から一日以上の仕事だからよく覚えているけど、2、3時間のセッションだと、忘れちゃうことが多いんだ。

 ゆっくりと、歌うときと同じようなあの調子で丁寧に語ってくれたドクター・ジョン。なんだか終わってから気持ちが暖かくなるような(夏なのに)インタヴューだった。

(「サウンド&レコーディング・マガジン」1987年9月号)
 




ドクター・ジョン『バビロン』

 ニューオリンズの天才青年マルコム・ジョン・マイケル・クルークス・レベナックが、ロサンゼルスにやってきたのは1964年、23歳のときだった。
 なぜ故郷を捨ててその活動拠点を“夢の”カリフォルニアに移したかといえば、63年ごろからのニューオリンズ市内の「売春とギャンブルの取り締まり」という名目の下の警察の監視強化によって、レベナック青年が麻薬不法所持の廉で逮捕されてしまったことが原因である。
 87年に来日したときにレベナック氏はこの件についてこう語った。
「私たちのような黒人と白人が一緒にプレイしているバンドを一掃したかったからなんだ。強い人種差別が根底にあった。私は黒人のミュージシャンと仕事をしていたから、警察から目をつけられていた。白人黒人が混在していたクラブは、たびたび警告を受け、私たちがいなくなった後は、すぐに店を閉めざるを得なかったね。ミュージシャン・ユニオン、警察、政治家、クラブ・オーナー、彼らの間ではトラブルが絶えなかったよ。黒人を雇っても雇われても取り締まられたものだ」(「サウンド&レコーディング・マガジン」87年9月号)
 この逮捕によってレベナック青年はテキサスの刑務所に服役した。この逮捕直前に彼はサム・クックとコラボレイトする計画を決定していたが、不幸にも服役中にサムは死んでしまったのだった。さらに、レベナック青年の家族は、彼が服役中にシンシナティへ移住していた。これではニューオリンズに戻るのはままならぬ。思案の後に、親類縁者が居てなおかつ音楽活動がしやすい場所ということでロサンゼルスへと向かったのである。
 63年ごろからの取り締まり強化は、ニューオリンズの音楽シーンに少なからぬ影響を与えていた。活動場所の激減は、そのままローカルなレコード・セールスに強く影響する。しかも60〜62年に、ミニットやインスタントといったレーベルからヒット曲を連発していた天才アラン・トゥーサンが兵役についてしまい、2年間活動の停止をよぎなくされる、という不幸も重なった。50年代の大盛況から約10年目にして、ニューオリンズの音楽家たちは岐路に立たされることになった。ある者は音楽を捨て、ある者は力仕事で食いつなぎ、ある者は同志を募って当時活況を呈していたモータウンのオーディションを受けに行ったりした。そうした中にあって、比較的ルイジアナからの移住者が多かったロサンゼルスへ、新天地を求めた者は少なくなかった。音楽産業の西の横綱であるロサンゼルスである。多少腕に自信のある者ならば、なんとか道は開けようというもの。
 AFOレコードに失敗したハロルド・バティステ、「ウー・プー・パ・ドゥ」のジェシー・ヒル、名ドラマー=アール・パーマーなどが、レベナック青年に先んじてロサンゼルスに移住し活動していた。彼らは主にゴールド・スター・スタジオ関連のセッション=フィル・スペクター、ソニー&シェール、ディーン・マーティンなどのレコーディングを中心に腕を振っていた。レベナック青年もそうした仕事に参加してなんとか食扶持を得るようになる。ほどなく(おそらく66年ごろから)レベナック青年はバティステとともにハウマック・プロダクションを設立。マーキュリー・レコードを中心に、インディペンデントでレコード制作を手がけていくのであった。すでに50年代末からニューオリンズでは、リック/ロン、エイス/レックス、といったレーベルで多くの制作活動に関わってきたレベナック青年である。ロサンゼルスにおいてもその意欲は衰えるどころか、日毎に高まっていったようだ。このころのレベナック—バティステ・コンビによる作品に、ケイクという娘三人組のアルバムがある(デッカから67〜68年に2枚のアルバムをリリース)。そこには、60年代中期の流行のガール・グループののんびりムードに、カリブ風味やフォーク・ロック色も盛り込もうという、奇妙な向上心がある。
 ロサンゼルスでの活動もなんとか軌道に乗ってきたころ、レベナック青年とバティステにあるアイディアがひらめいた。67年ごろのロック・シーンを見渡してみよう。ビートルズやストーンズの英国勢もやや影をひそめサイケデリックやらカウンター・カルチャーといった異形が日々増長し出したころである。特にその中心地であったカリフォルニアは、町の空気さえ変容したようだったという者もいるほどであった。LSDテストやライト・ショー、もちろんマリワナ、長いインプロヴィゼーションを中心としたブルース・ロックや、エスニックな色彩を加えた珍奇な音楽、ノイズまじりのアジテーションも加わっていく。こうした動向をレベナック青年は必ずしも心よく思っていたわけではない。しかし、自らのアイデンティティとしてのニューオリンズの特異な文化を音楽化するにはまさに好期であった。テーマはヴードゥー教の伝説。アフリカ〜カリブ経由のニューオリンズ独自の宗教的幻惑感をモチーフにした特異な音楽を創造しようというのだ。主人公はニューオリンズ・ヴードゥーの歴史的英雄=ドクター・ジョン。このキャラクターをフリーキーでフラワーなアメリカに蘇らせようとのコンセプトが設定され、まず要のドクター役をレベナックの旧友でやはりニューオリンズからロサンゼルスへ移ってきていたロニー・バロンに打診する。しかし元来シャイで温厚、静かな生活を好むロニーは派手な衣装と奇怪なキャラクターを纏うのは意にそぐわないとその申し入れを拒絶。それではというので、言い出しっぺのレベナック自らドクター役を引き受けることとあいなるのであった。
 レコード・リリースに関してはソニー&シェールのソニー・ボノの口添えがあったという。68年、アルバム『グリ・グリ』がアトコ・レコードから発表された。ニューオリンズの天才音楽家マルコム・レベナックがドクター・ジョンとしてロサンゼルスで再生した記念すべきアルバムの誕生だった。そこには、カーニヴァル・ソング、ブルース、ディキシー、カリブの諸要素、さらにその根幹にあるアフリカン・ビートが縦横に交差していた。8分の6拍子からシャッフル、そこからシンコペイトが強化され簡素化されてエイトビートへと至るR&Bの諸相のパノラマが展開されていた。その主人公たるドクターのひしゃげたヴォーカルが幻惑をより深く印象づけていた。マンドリンや鐘、木管楽器にオルガンがからむハロルド・バティステのアレンジは、サン・ラー・アーケストラにも通じる幽鬼と土着性に満ちていた。68年という年は、大衆音楽、特にロックにとっては、マス・カルチャーへのあからさまな反逆を標榜することがひとつのステイタスたり得た年である。その中にあってもなお特異な光を放っている『グリ・グリ』は、大ヒットこそしなかったもののいわゆるカウンター・カルチャー志向の青年たちの間に密かな支持を拡げていった。ちなみに当時のローリング・ストーン誌のレコード評でも五つ星を獲得している。
 このアルバム『バビロン』は『グリ・グリ』の続編に位置するアルバムである。『グリ・グリ』から1年を経ない68年の晩秋にリリースされたものだ。思いがけぬ『グリ・グリ』の好評ぶりに、そのときのアウト・テイクを中心に、新作を加えておそらくバティステがイニシアティヴを取って仕上げたのが『バビロン』なのである。『グリ・グリ』に色濃く出ていたヴードゥー色は、都会の夢魔といったものを加えていっそう怪しさを増している。かつてニューオリンズにジャズ・ミュージシャンの共済会のようなものを組織しようとして失敗した経験を持つバティステのアレンジャーとしてのアフロ・カリビアン・ジャズ・オーケストラ、とでもいうべきものをここに現出させている。ドクターの歌詞もよりハードな批評性をあらわにしている。「バビロン」や「ザ・ペイトリオット・フラッグ・ウィーヴァー」では合衆国権力と愛国者ヘストレートな批評を浴せているほか、「トワイライト・ゾーン」では状況の暗部の空虚さが描かれている。そうした中にあって娯楽色がよけい強く印象づけられるのは「孤独なギター仕事(絞殺)人」だ。ガボー・ザボーにウェス・モンゴメリー、ラヴィ・シャンカールにジミ・ヘンドリックスの弾きまねが折り込まれているほほえましさ。
 カウンター・カルチャーに妙な支持を得たドクターは、一躍サイケデリック・ロックの新星と目されるようになった。しかしドクター本人はその評価に大いに不満だったという。曰く「ヒッピーとかそういうやつらの考え方はまだしも、生活態度のだらしなさや汚らしさは、どうしても好きになれなかったのさ」。
 こうした不満がドクターをふたたびニューオリンズR&Bへと向わせる遠因となったのかもしれない。

(ライナーノーツ 1991年)
 
『バビロン』





ドクター・ジョン
唯一無二のセッションマン、その多忙ぶりを追う


 マルコム・レベナックの音楽的技能/創造力は、彼が1940~50年代は、ジャンプ・ブルースが盛り場の華という以上に大きく発展していった時代。特にニューオリンズでは、音楽好きの少年にとって横丁のあちこちに〈教師〉が出没していたというべき時代だった。
 レベナックをはじめ、アラン・トゥーサン(38年生まれ)、アート・ネヴィル(41年生まれ)といった、ニューオリンズにあってさえ突出した才能の持ち主たちが伸び伸びとその才を育んでいけたことは偶然ではなく、ニューオリンズの40~50年代が他に例を見ぬ音楽黄金時代だったことの何よりの証しである。彼らが現在もなお体現しつづけている〈ニューオリンズ・マナー〉が、揺るぎない強さと深味を放出しつづけていることは、70年代以降に登場したかの地のミュージシャンの物足りなさを考え合わせるまでもなく、その原体験の強烈さをなにより物語っているとはいえまいか。

黄金時代のニューオリンズで修行

 家が黒人の多い大学の近所で、父親がジュークボックス用レコードのディーラーをやっていた、という環境ならば、マルコム少年が音楽的に早熟だったのは無理からぬことかもしれない。ブルース、R&B、ジャズ、ヒルビリーのレコードを何の苦もなく多数手に入れ、しかも十代の初め(50年代初頭)にしてすでに、名人才人のステージを手当たりしだいに見ていたという。しかもそこでは、伝統的手法が日毎に手を加えられ、ざっくばらんに新しい快感が生み出されていった。音楽がひとつの生き物であるが如く日毎に成育していった。レベナック少年にとって、音楽の成育と自分の成長とは、重ね合わせられるものだったのかもしれない。10代に入ってほどなく、レベナックが音楽の〝現場〟に参加していったのは、あこがれの現実化というより、成長過程の必然だったのだ。
 レベナックがバンドマンとして活動を始めたのは53年ごろのこと。最初は主にギタリストとして活動した。レベナックの父親がコズィモ・マタッサと親交があったため、レベナックはちょくちょくスタジオ見学に行き、現場の空気/セオリーを積極的に吸収していた。ミュージシャンたちとの交流もそこで徐々に深めていった。レベナック少年は、音楽そのものはもちろんのこと、ミュージシャンの活動の場、生き方、行動自体が醸し出す〈特別な磁力〉に強く魅せられていたのではないか。ハイ・スクール・バンドでの活動はもちろんやっていたが、彼はすでに十代の初めには、ファッツ・ドミノ・バンドのウォルター〝パポーズ〟ネルソンやセッションマンとして売れっ子だったロイ・モントレルから直接ギターの手ほどきを受けていた。いわばプロ予備軍的存在だった。15歳になるかならぬかのころに、見学ではなく仕事をしにスタジオへ行くようになっていた。
 レベナックの初レコーディング作品がよくわからない、というのはそうしたスタジオへ行くことが余暇の一部でもあったという事情によるところが大きい。特に50年代中期のニューオリンズといったら、レコードが日々量産されていた時代である。一セッションは三時間以内と決められていて、超過するとミュージシャンはギャラをもらえないという厳しい条件下に置かれていた。もちろん1トラックの同時録音だから間違いは命取り。12曲を6時間で録ることさえあったという。レベナックがレコーディング・セッションに加わるようになったのは、おそらく56年ではないかと思うのだが、実際には年齢的な問題などもあり、レベナックがミュージシャン・ユニオンに所属できたのは57年のことだから、それ以前はいわば見習い期間という感じだったのだろう。最初は、エイスやスペシャルティ、それに地元の小レーベル用の録音が主だった。ジャスティン・アダムスやロイ・モントレルらがロードに出てしまっている穴を埋めるという形が多かったようだ。
 そうした中で特にレベナックの参加が多かったと思われるのが、エイスの看板のひとりヒューイ“ピアノ”スミスの作品である。『ハヴィング・ア・グッド・タイム』と『フォー・ダンシング』は、彼のエイスでの56~60年のヒット曲をまとめたもの。彼のバック・バンド=クラウンズは、パーマネントのメンバー構成ではなく、スタジオでのなじみの人々が流動的にステージにも出演するといったセッション・グループであった。陽気でワイルドな彼の音楽は、50年代のニューオリンズ黄金期にあってもひときわにぎやかで脳天気。カーニヴァル・ソングがポップにリメイクされて数々のヒット曲となった。「Rocking Pneumonia & The Boogie Woogie Flu」や「High Blood Pressure」、「Don’t You Just Know It」など、その後多くのカヴァーを生んでいる。ニューオリンズR&Bというと、ファッツ・ドミノやプロフェッサー・ロングヘアとならんで、ヒューイ・ピアノ・スミスのエイスでのこの50年代中期の作品をまっさきに思い描く人々は少なくない。それはその音楽性が、伝統的かつドメスティックなものを基盤としているがゆえに、どこかとても人なつこい温かみを強く漂わせているからではないか。それは、マック・レベナック/ドクター・ジョンの作品/プレイのほとんどに共通して感じられるぬくもりの基本となっているものでもある。
 エイス・レコードの白人アイドル=ジミー・クラントンは、ソフトなポップスが主だが、そのセッションにレベナックは多数かかわっている。『Just A Dream』、『Jimmy’s Happy』、『Jimmy’s Blue』、『My Best To You』と、さすがにアイドルだけあってアルバムの数は多い。内容はどれも及第点という感じだが、レベナックは時々曲提供もしていた。同じくエイス所属のもうひとりの白人ロッカー=フランキー・フォードのほうが、ジミーよりアクティヴだ。『レッツ・テイク・ア・シー・クルーズ』はヒューイ・ピアノ・スミスがバック・アップした名盤。レベナック作の二曲も、ならではのアクを発揮していて聴きものである。やはりクラウンズ関係のサウンドがたっぷり聴けるボビー・マーチャンのコンピレイション『The Fifties In New Orleans』は、音質、選曲とも最高で当時のエイスのワイルドな面がよくわかる良品だ。
 その他のエイス(その傘下のレックス、ヴァインなど)の多彩なアーティストを総覧し、そこからレベナックとその周辺の息吹きを感じ取るには、英エイスからの名コンピレイション『Ace Story Vol.1-5』が絶対だ。米エイスもここ二~三年活動を再開し、数々のオムニバス作品(たとえば『Greatest Groups Of The 50’s』や『The Heartbeat of New Orleans Rock’n’Roll』をリリース(または再プレス)しているが、どれもまったくコンポーザー名がなく、アーティスト名が原盤と違うものに書き換えられていたり、音質もよくなく、せっかく貴重な音源が聴けるのに腹立たしい。オーナー=ジョニー・ヴィンセントの商魂がダサイ。たとえばヒューイ・ピアノ・スミスの名クリスマス・アルバム『'Twas The Night Before Christmas』などは、リイシュー時に〝ドクター・ジョン・バンド〟というクレジットが、取ってつけたように印刷されてしまっている。このアルバムが出た当時の62年には、ミュージシャン〝ドクター・ジョン〟は、まだこの世には存在していなかったのに。
 レベナックがヒューイ・ピアノ・スミスの勧めもあって曲も書くようになるのは、57年頃のこと。アート・ネヴィルのスペシャルティ時代をまとめた『Mardi Gras Rock’n’Roll』には、その最も初期の作品「What’s Going On」が収録されている。60年代中期のレベナックの相棒ハロルド・バティストとの関係もこのあたりからと思われる。その他、スペシャルティ関係やポール・ゲイトン関連のチェスのセッションにもいくつか参加しているらしいが、どれと特定できる資料は現在のところ残念ながらほとんどない。
 59年ごろになるとレベナックはセッションへの参加だけでなく、自らイニシアティヴを取った企画もの的作品もいくつか制作していくようになる。フランキー・フォードらとの変名グループ=マーガス&ザ・スリー・ゴウルズの「Morgus The Magnificent」やそのB面のフランキー&マックの「The Lonely Boy」、ロニー・バロンとのセッション=ロニー&ザ・デリカンツの「Bad Neighborhood」やドリッツ&ドレイヴィの「Somebody Changed The Lock」である。このうち「Morgus The Magnificent」と「Bad Neighborhood」は前述の『Ace Story』に収録されている。
 ギター、ピアノ、ときにはベースも弾き、アレンジはもちろん曲も書く。少年レベナックはニューオリンズのレコード制作界に入るや急成長を遂げてしまう。いわゆる天才だったわけだが、そんな18歳のレベナックの才を見込んで新レーベルの制作監督的ポストを与えたのが、ジョー・ラフィーノだった。レーベルはリック/ロン。59年から62年(ラフィーノの急死によって活動停止)と4年間の短命レーベルだったが、ここに残された作品は内容が濃い。それは、50年代中期に繰り返し試みられ熟成されたニューオリンズR&B独自の方法論のエッセンスがコンパクトに生かされていたからである。先達からたっぷり吸収したものをレベナックはこのレーベルの仕事で一気に放出した、とさえ思える。
 これまでリック/ロンの音源はシングルを細々と集めるしかなかったが、4年前にジェフ・ハナッシュの編集によってラウンダーから好コンピレイションが6枚もリリースされ、容易に聴けるようになった。プロフェッサー・ロングヘアの「ゴー・トゥ・ザ・マルディグラス」を始め、アーマ・トーマスのデビュー期の作品、ロバート・パーカー、クリス・ケナー、エディ・ラング、ボビー・ミッチェル、トミー・リジリー、エディ・ボ、マーサ・カーターなど、アーティストにとってもレベナックにとっても重要な作品揃い。この時代のレベナックは、特にコンポーザーとして優れた作品を多数生んでいる。だが、それが如実に示されているリックの中心アーティスト=ジョニー・アダムスの作品が、2曲しかこのラウンダーのシリーズで復刻されなかったのは誠に残念である。リックでのアダムスの12枚の傑作シングルは、未だに埋もれたままなのだ。いずれ何らかの形でまとめられることを切に願う。
 56~63年。マック・レベナックの音楽生活の第1期は、ここに捧げたエイスやリック/ロン以外にも多数のシングル盤として世に残されている。『Mardi Gras In New Orleans』には、そうしたシングル作品の中でも特に重要なプロフェッサーの「Big Chief」が収録されているが、他にもロニー・バロンの「The Hip Parade」やアール・キング、レオナルド・ジェームス、カーリー・ムーア、ロイド・プライスなど挙げれば切りがない。特に60年代初期はアラン・トゥーサンのミニット/インスタントの隆盛によって再びシングルが量産された時代であり、レベナック本人も忘れてしまっているような作品も含め、今後も調査研究の手は休められないのである。


ロサンゼルスでロック界に接近

 63年はレベナック個人にとって、さらにニューオリンズの音楽シーン全体にとっても大きな分岐点となった年である。それまでの勢いを維持できる場と才能の不足と、当局側の(人種差別を背景とした)圧力とによって、レベナックは投獄されシーンは沈滞化した。
 逮捕前にニューオリンズで、レベナックは一週間、サム・クックのショーのバックを担当し、その後サムのレコーディングにも参加する計画も決定していたという。しかしレベナックの服役中にサムは鬼籍入り。これだけは今でも悔やまれる。とレベナックはいう。
 種々の理由によりレベナックは服役後、活動の場をロサンゼルスに移す。そこではすでに、沈滞化したニューオリンズのシーンに見切りをつけたミュージシャンたちが新たな活動を始めていた。名ドラマー=アール・パーマー、ジェシー・ヒル、ハロルド・バティスト、その後アルヴィン・ロビンソンやロニー・バロンもやってきた。彼らは主にゴールド・スター・スタジオを中心にセッションマンとして活動した。フィル・スペクター、ソニー&シェール、ボビー・ダーリン、ディーン・マーティンなど、さすがにロサンゼルスだけあってやはり多くの仕事に参加した。
 この64~68年のレベナックの参加作品もまたはっきりとしたクレジットのあるものが少ないが、シェールのソロ『Cher』にはレベナックの名が明記されている。スペクター・サウンドをさらにひねったようなサウンドは『グリ・グリ』に通じるものが色濃く出ている。おそらくアトコ時代のソニー&シェール、インペリアルでのシェールのソロやジャッキー・デシャノン(『Laurel Canyon』など)の大部分にバディステとレベナックは参加しているものと思われる。ちなみにソニー・ボノのソロ『Inner Views』には、クレジットはないがどう聴いてもレベナックとしか思えぬオルガン・プレイが入っており、64年~67年のスペクター~ソニー&シェール、さらにはスナッフ・ギャレットのリバティ・サウンドやバーズという音作りの流れが、『グリ・グリ』~『レメディーズ』といった初期ドクター・ジョンのアルバムといかに関係しているかは、実に興味深い。
 そのヒントともいえるのが、バティステとレベナックがプロデュースを手がけた娘三人組ザ・ケイクの2枚のアルバム『The Cake』と『A Slice Of The Cake』だ。ガール・グループならではのポップ・チューンとニューオリンズR&Bが同居している『The Cake』にはジャック・ニッチェも関わっているし、『A Slice Of The Cake』になるとフォーク・ロックからエキゾチック・サウンドまで、まるで当時の西海岸見本市の如きもの。何でもありという点ではニューオリンズ的といえるわけではあるが。
 このころのものでは、キャンド・ヒートの『リヴィング・ザ・ブルース』もあるが、バッファロー・スプリングフィールドの幻のアルバム『Stampede』からの曲「Down To The Wire」がある。ニール・ヤングのコンピレイション『デケイド〜輝ける10年』の冒頭に入っている。ノイジーなギターの奥で、しっかりロールしているピアノをお聴きのがしなく。
 なお、この時期にマザーズ・オブ・インヴェンションのセッションに参加した、という説があるが、ドクター本人に問うたところ、「セッションに行ったことは行ったが、リハーサル中にメンバーの馬鹿騒ぎに腹を立てて帰ってしまったので、レコーディングには参加していない」とのことである。
 さらにバティステとレベナックは、ハウマックという制作プロダクションを設立。パルサー・レーベル(オーナーはジョー・ジョーンズ。配給はマーキュリー)を拠点に、アルヴィン・ロビンソンやキング・フロイドのシングルをいくつか手がけたりもした。ハウマック・プロ自体は70年前後に消滅したようだが、キング・フロイドが「グルーヴ・ミー」で有名になる少し前にリリースした『Heart Of The Matter』は、バティステのプロデュースで曲をレベナックが提供するという、ハウマックの制作体制によるものである。


ドクター・ジョンと名乗ってからの仕事

 68年を境にマック・レベナックは、ドクター・ジョンとしての顔も持つことになる。その活動が忙しかったのか、68~70年はあまり他のレコーディング・セッションには参加していないようである。しかし、71年以後はまたセッションマン稼業が活発化する。ドクター・ジョンの作品への評価が、特にミュージシャンの間で高まったからに他ならない。一聴してドクター・ジョンと判る、そのピアノ・プレイの活かされたセッションがやはり中心である。ごく自然体で50年代に身につけたものを聴かせているのだが、それ自体の独自性が、作品にコクを与えてしまうのだ。
 どちらかというと、70年代全般にわたっていわゆるシンガー・ソングライター系の人たちとの交流が多かった。ジョン・セバスチャンの『フォー・オブ・アス』やジェシ・エド・デイヴィスの『Ululu』、ダニー・オキーフの『そよ風の伝説……』などでのプレイも印象的だ。
 アレンジ面にも関わっていそうなものとしてマリア・マルダーの『Maria Muldaur』、『ドーナッツ・ショップのウェイトレス』(特にアラン・トゥーサンの「ブリックヤード・ブルース」は絶品)、『Sweet And Slow』(A面すべてで名ピアノ・プレイが聴ける)、ガーランド・ジェフリーズの『Garland Jeffreys』、『ゴースト・ライター』(「ワイルド・イン・ザ・ストリーツ」の説得力)、カーリー・サイモンの『人生はいたずら』(「モア&モア」ではドクターのカウントする声も聞こえる)、リンゴ・スターの『グッドナイト・ウィーン』(「オカペラ」と「オール・バイ・マイセルフ」のニューオリンズ風味)、デヴィッド・ブロムバーグの『Midnight On The Water』(サム・クックの「(What a )Wonderful World」をアーシーに料理)、それにハース・マルティネスの『ビッグ・ブライド・ストリート』(パーカッシヴなヴォーカル・アレンジの妙)などなど。ドクターの存在自体がよく効く薬味のように作用して、作品の世界を拡げている。
 アルバム全体のバックアップ・メンバー一員として、彼のプレイがたっぷり聴けるものももちろんある。ボビー・チャールズの『ボビー・チャールズ』やダグ・サム&バンドの『ダグ・サム&バンド』、特に持ち味がたっぷり出ているリヴォン・ヘルム&ザ・RCOオールスターズの『リヴォン・ヘルム&ザ・RCOオールスター』、コーネル・デュプリーらとのクールなサウンドが快い女性3人組ロージーの『Last Dance』などは、特に印象深い。  ニューオリンズ関係者とのセッションとなると、さらに一体感は深まる。特にクレジットはないが、おそらく全面的なドクターの協力が想像されるロニー・バロンのファースト『レヴェレンド・イーザー』は、『ガンボ』直前の『ガンボ』というべき名作。それに恩師との最後のセッションとなってしまったプロフェッサー・ロングヘアの『クロウフィッシュ・フィエスタ』では極渋のドクターのギターに泣ける。
 その他、ほのぼのしたお互いのパーソナリティがいい味を醸し出しているニルソンの3作品『俺たちは天使じゃない』(今聴いてこそその価値が身にしみる名盤)、『ハリーの真相』、『Flash Harry』もあるし、ドクターのピアノが特にアクティヴなチャック・E・ワイスの『The Other Side Of Town』や、ビル・ワイマンのだらしないロック魂をドクターのキーボードがピリリと引き締めている『モンキー・グリップ』と『ストーン・アローン』も聴きものである。そういえばローリング・ストーンズの『メイン・ストリートのならず者』の「レット・イット・ルース」に、ドクターはバック・コーラスで参加している。
 完全なコラボレイション・アルバムというのもある。故マイク・ブルームフィールド、ジョン・ハモンドと彼の3人の共演による『三頭政治』は、三者三様のブルース精神の共存と対立ぶりがおもしろい。アート・ネヴィルのスペシャルティ時代の作品「チャ・ドゥーキィ・ドゥー」のカヴァーはドクターならでは。イギリス・ジャズ界の大ヴェテラン=クリス・バーバーとの共演盤は最近2枚が出て、計3作ある。『テイク・ミー・バック・トゥ・ニュー・オリンズ』、『オン・ア・マルディグラ・デイ』、『Get Yourself To Jackson Square』。音に粘りが足りない気もするが温暖な空気は十分だ。
 生来のスタジオ・セッションマンとして見事なキーボード、ギターを聴かせるドクターだが、ヴォーカルによるゲスト参加も少なくない。あの声の存在感はさすがに強力だ。
 レイ・チャールズの「旅立てジャック」をかけ合いで歌うイヴォンヌ・エリマンの『イヴォンヌ』、ライヴでピアノも披露するトム・スコットの『アップル・ジュース』、語りでキメるスペンサー・ボーレン『ボーン・イン・ナ・ビスケイン』など、ぐっとくる。妙なやつではザ・フラワーポット・メン(67年に「レッツ・ゴー・トゥ・サンフランシスコ」のヒットを放ったイギリスのグループとは別のバンドらしい)の『The Flowerpot Men』と、ドイツのジャズ・ファンク集団パー・カッションの『Don’t Stop』がある。どちらもドクターの「I Walk On Guilded Splinters」を、ドクター自身をゲスト・ヴォーカリストに迎えてカヴァーした。『The Flowerpot Men』のへヴィなテクノ・ヴァージョンのほうがややおもしろいかも。
 ヴォーカルによるゲスト参加は、ここ3~4年特に増えている。ダーティー・ダズン・ブラス・バンドの『Voodoo』は当然のハマりものだが、クリスマス・ソングをにこやかにデュエットするレオン・レッドボーンの『Christmas Island』、まるでニューオリンズの魂の親子といった風情のハリー・コニックJr.との掛け合いが聴ける『20』、「I Put A Spell On You」が切実なボブ・マラックの『ムード・スウィング』、そのボブ・マラックとのセッションの残りが聴けるコンピレイション『Go Jazz Vol.1』。さらに、『Ringo Starr & His All-Starr Band』では、リヴォン・ヘルムらとの「The Weight」といううれしい親睦ものもあるし、フィフス・アヴェニュー・バンドのマレイ・ウェインストックを中心としたセッションで正統派セカンド・ラインものの『Julia Jump』など、ダミ声は年輪を重ねてまろやかささえたっぷり加わっている。


ニューヨークでの交流

 81年以降ドクター・ジョン/マック・レベナックは活動拠点をカリフォルニアからニューヨークに移した(ニューオリンズとニューヨークを行ったり来たりしているのとこと)。それにともない、セッション活動は、ブルース/ジャズ系のミュージシャンが中心となった。その契機になったと思われるのが、曲作りとアレンジをドク・ポーマスと共同で手がけたB・B・キングの『There Must Be A Better World Somewhere』だ。ブルースの中のジャズ、ジャズの中のブルース、どちらもドクターにとってはバックボーンと腰骨というべきものだろう。ニューオリンズ人として、アメリカ大衆音楽の原点を現在形で探求することは、当然だとはいえやはり何物にも代えがたい誇りなのではないか。
 ハンク・クロフォードとの一連の作品(ハンク自体にパワーがないのだが)『Midnight Ramble』、『Roadhouse Symphony』、『Night Beat』、『グルーヴ・マスター』、ベニー・ウォレスの『Twilight Time』、ジョニー・アダムスと昔日のリック時代を彷彿させる『ブルースのある部屋』、ドクターがイニシアティヴを取ったと思われる温かい空気が胸を打つ、アート・ブレイキー、デヴィッド・ファットヘッド・ニューマンの『Bluesiana Triangle』など。レオン・レッドボーンの『Red To Blue』には伝統への敬意を抱いた同士愛的なものさえ感じる。
 さらにドクター自らがプロデュースも手がけた、ジミー・ウィザースプーンの『Midnight Lady Called The Blues』とベニー・ウォレスの『Bordertown』もある。プロデュース作品としては、ヴァン・モリソンとガップリ四つに組んだ傑作『安息への旅』もあるが、ミュージシャンの内面を映し出そうとするかのような彼の作法への期待は今後も募る。マーシア・ボール、アンジェラ・ストレーリ、ルー・アン・バートンのテキサス三人娘をまとめて面倒みた『Dreams Come True』やニューオリンズへの夢を描いたウィリー“ミンク”デヴィルの『Victory Mixture』における〈お父さん〉的存在感も頼もしい。
 ものによっては一時間しかスタジオにいなかったようなセッションもあり、全部はドクター本人でさえ覚えていないという。しかしどの作品を聴いても、職人的な冷静なプレイではなく、人と人との交流を第一義としているとしか思えぬ情が通っているのである。それこそがこのニューオリンズの〈伝統〉というものなのかもしれない。

(「レコード・コレクターズ」1991年5月号)
 
 
『ガンボ』





ドクター・ジョンとは何者なのか!?

 グラム・ロックのケバさは知ってはいた。マーク・ボランの妖しさ、デヴィッド・ボウイのエグい怪しさ、そういうものに快いものを感じていたし、ロキシー・ミュージックのけったいな感じもおやまあという感じだったんだが。初めてテレビでドクター・ジョンを見たときの驚きは、そんなもんじゃなかったんですよ。ケバケバしいというよりは、頭の中を真白な灰にしてしまう感じ。鳥の羽根をたくさんまとって、ラメ系の巻きものでダランとした服(原色バリバリ)、化粧というよりペインティングされた顔には、まぶたに目が描いてある。おまけにラメラメの紙ふぶきを撒き散らしながら登場し、達者なピアノを聴かせたのみならず、その歌はレオン・ラッセルよりもざらざらのダミ声。ショックでした。今から17〜18年前のことであった。嵐のような映像だった。
 この人がニューオリンズの非常に重要なミュージシャンで、『ガンボ』というアルバムを作ったという事実を知ったのはそのショッキングな映像を見た一年半後ぐらいのことだった。
 ロックの人々にニューオリンズR&Bの素素晴らしさを再認識させたということでは『ガンボ』に勝るものはない。72年にリリースされて以来、廃盤になったことがない国が、実は世界中で日本だけなのはうれしい事実である。他の国で手に入りにくくなっていた10年ほど前、来日したエルヴィス・コステロが東京で『ガンボ』を見つけ、たいそうよろこんで買って帰ったというのはわりと有名な話である。50年代のニューオリンズR&B黄金時代の息吹きを新たな表現力で伝えたこのアルバムは、実はドクターの少年/青年時代の音楽体験にもとづいた、ニューオリンズへの敬意によって作られたものであった。
 1941年にニューオリンズに生まれたドクター・ジョンことマルコム・レベナックは、幼年時代よりさまざま音楽と親しんだ。特に当時のニューオリンズはR&B/ジャズの隆盛期であり、日常生活そのものが音楽天国というべきものだった。音楽的に早熟だった彼は50年代前半にはすでに、クラブやレコーディング・セッションで活動するようになる。50年代後半には、エイス、リック/ロンをはじめとする地元レーベルを中心に、数えきれぬほどのレコーディングを手がけるようになった。ギターとピアノの腕前もさることながら、コンポーズやアレンジにも並々ならぬ才を発揮していた。ニューオリンズの天才青年だったのだ。
 しかし60年代に入り64年にニューオリンズのクラブ・シーンが急速に閉じてしまう。しかたなくドクターは65年にロサンゼルスへと移転する。そこでもまた多大なレコーディング・セッションに参加。フィル・スペクターやソニー&シェール、バッファロー・スプリングフィールドからディーン・マーティンまで次から次へとセッション・ワークをこなしていった。
 67年、それまで他人のセッションに参加するばかりだったマルコムに一大転機がおとずれる。ヴードゥー教の歴史的偉人ドクター・ジョンの名を名乗って、土着的で特異な音楽を自らプレイすることを思い立ったのである。非常にポリリズミック、かつサン・ラー的ともいえるシャーマニックな空気を持ったアルバム『グリ・グリ』を発表、ロックの世界はサイケデリックだったが、さらにその上を行く奇怪な世界をニューオリンズの極端な土着性をもちいることで表現してしまったのであった。マルコム・レベナックはこの『グリ・グリ』のあまりの強烈さに一躍ドクター・ジョンとして人々の知るところとなるのだった。
 67年以降ドクターは自己のアルバムを何枚か作るうち、結局自分の根であるニューオリンズのR&Bの世界をより強調した表現を成すようになっていく。その結果生まれたのが『ガンボ』だったのだ。70年代のはじめごろのこうしたドクターの活動に刺激されたこともあって、ロック界の人々がにわかにニューオリンズに着目し、それを自分たちの表現に生かすことがままあった。ザ・バンド、リトル・フィートをはじめ、ポール・マッカトニーやリンゴ・スターなどもそうだった。
 ニューオリンズのほのぼのとしたそれでいて変化に富んだしぶといビート感覚。それをもとめてか、ドクターをセッションに呼ぶ者は後を立たなかった。実際にどれくらいの数をこなしたのかはドクター自身記憶していないほどである。
 卓越したピアノさばき、R&Bからゴスペル/ジャズへと至るニューオリンズ人の誇りをこれほどまでに、美しくたくましく体現しかつ幅広く活動している人は他にいない。自己の原点を見事に表現しきった傑作/最新作『ゴーイン・バック・トゥ・ニューオリンズ』はドクター以外の誰も造りえぬものだ。

(「クロスビート」1992年8月号)




ドクター・ジョン『ゴーイン・バック・トゥ・ニューオリンズ』
百年の歴史が凝縮された、ドクター・ジョンの“心のニューオリンズ”


 ほんとにロマンティックなものでもなんでもなく、詠嘆の態勢でじっと目をつぶって、しみじみ涙流したりとかそういうことじゃなくて、人生の中で出会った音楽/レコードがその後の自分の歩みに強く影響する。そういうことは確かにある。それもまあそのレコードと出合うように自分の性格がしむけているわけでもあるのだが。自分の性格によって引き起こされる事象をそのレコードが補強してくれたってことなんだけどね。
 というわけで俺にとっては18年ほど前に出合ったドクター・ジョンの『ガンボ』の存在は揺るぎないものなのであった。同じ頃、はっぴいえんどからの大滝詠一の創作活動にもめちゃくちゃ影響され続けていたわけだが、『ナイアガラ・ムーン』と『ガンボ』の相乗効果というのが強力だったせいもある。
 というわけで、ニューオリンズへの旅が始まったのよ。俺にとってドクター・ジョンの初来日とは特別中の特別。裸のラリーズ=水谷孝との10時間半FAXランデブーや勝新太郎インタヴュー、ソニック・ユースとの出会い、メルヴィン・ヴァン・ピープルズとの会見にも匹敵するものだったのだ。これを上回る重要事といったら幻の名盤解放同盟の結成と、結婚しかない。
 ニューオリンズの不思議、それがニューオリンズの魅力なのだ。ニューオリンズにあるもの、そのほとんどは、他のアメリカの都市には見当たらないものばかりだ。
 「ニューオリンズにはイギリス人の文化がない」
 と言ったのは、ニューオリンズで音楽誌「Wavelength」を出していたコニー女史だ。ものすごく汎ヨーロッパ的なものが、アフリカ~カリブ経由で土地に根づいたもの、大陸原住民の文化、その双方とパラレルにならずに(全部がではもちろんないが)混在し、物によっては溶け合ったりもしていることがなによりの原因だろう。その点では、アジアであって、アジアの吹きだまりになるはずだったがそうはならずに、それでいて何でもあるように思わせてくれる日本と似ていなくもないが、一番の違いは土地愛のある/なしだ。郷土愛というと〝ふるさとそうせい〟みたいでやだけど、まあそれがあたりまえのように、ニューオリンズ人たちには強くあるわけで、そこがとても誇らしげでおもしろいのだ。
 ドクターは『ガンボ』はもちろんこれまでに作ってきたアルバムのほとんどが、ニューオリンズへのオマージュ(及びその延長線上にあるもの)といってようものだったが、今度のアルバム『ゴーイン・バック・トゥ・ニューオリンズ』はこれまでの一つの集大成である。1850年代から1950年代、この100年間のニューオリンズ音楽の豊かなとっちらかりぶりはそのまま1990年代の欧米大衆音楽に生き続けているわけ(ところどころクサってふやけているけど)だ。このアルバムの見事さは、伝統と自分と現在、その三者の遠近感を、ニューオリンズという場そのものの空気の“気”に合わせて気楽に変化させている点にある。ジャズとかロックとかブルースとか、そんな命名を必要としない種々雑多な音楽はそこらじゅうにたくさん生きているんだってことよ。心のニューオリンズ絵巻。大傑作。

(「コミック・トム」1992年10月号)
 
『ゴーイン・バック・トゥ・ニューオリンズ』





V.A.『納得!ドクター・ジョンの仕事』

 このCD2枚組は世界中のニューオリンズR&Bコレクターの感涙をしぼり出させるあまりにも貴重かつ楽しくも見事なコンピレイションである。ドクターがまだマック・レベナックだった55年から61年にかけて、地元のエイスとその関連レーベルにおいて成したセッション(プロデュースもときどき)作品、そのほとんどを集大成したのだ。これをオリジナル・シングルで集めようと思ったら、おそらく途中で死ぬだろう。俺もこのCDのためにシングル盤を提供できてほんとうにうれしい。資料的価値は当然だが、ドクターの泥臭いギターを聴き、黄金時代のもったり感覚をずっぽり味わいつくしたい。

(「クロスビート」1993年10月号)





ドクター・ジョン『ライヴ・アット・マーキー』(ビデオ)

 85年に日本でも『ドクター・ジョン/クリス・バーバー・イン・コンサート』としてハミングバードから出ていた、83年4月15日ロンドンのマーキーでのライヴの再発。マーキーの開店25周年記念ライヴのひとつだったそうだ。ちなみに収録曲10のタイトルが“オー・エルザ”と記されているのは大まちがいで、もちろん“リル・ライザ・ジェーン”が正しい。ライナーでもそうなってるのに。
 クリス・バーバーは英国のディキシー/トラディショナル・ジャズの第一人者だが、バンドもよく鍛えられていて、わきあいあいのニューオリンズ・ムードがバッチリ。最近のドクターのバンドもいいけど、これはこれで地味にまとまっている分、ドクターのピアノさばきをじっくり見るにはかえっていいんじゃないだろうか。今より多少やせてるし。聴きものはやっぱスマイリー・ルイスの“ベルズ・ア・リンギン”と“ティー・ナー・ナー”をメドレーにした“メモリーズ・オブ・スマイリー”だろうなあ。これぞニューオリンズR&Bピアニスト篇、てやつだ。ブルース・ナンバーでのじっとりしたのもいいし、全体にドクターの歌が特に身にしみるんだ。

(「クロスビート」1993年12月号)





V.A.『THE ROOTS OF GUMBO〜ドクター・ジョンの世界』

 このCDを聴く前に、または聴きながら、ドクター・ジョンの『ガンボ』を聴きなはれ。この企画盤はトリビュート・オブ・ニューオリンズR&Bである『ガンボ』に収められた曲のオリジナル(ルーツ)、ドクターがカヴァーした他のR&Bのオリジナル版を集めたもの。しかし「サムバディ・チェンジ・ザ・ロック」のオリジナルであるAFOのレーベルのドリッツ&ドレーヴイが収められなかったのは残念。このシングルはメチャクチャなレア盤だもんな。このCDとともにレイ・チャールズのアトランティックの箱を聴くといいですよ。粘り気とおとぼけが渦を巻いている極楽だ。

(「クロスビート」1994年6月号)
 
『THE ROOTS OF GUMBO〜ドクター・ジョンの世界』





ドクター・ジョン『グリ・グリ』

 ヴードゥーの波動をバンドで発生させようという望郷の念と異次元願望が作用してドロドロの世界になった。ドラッグは水のようなものだが、ドクター・ジョンの処方はいきなり黒い果実となった。今ならもちろんワールド・ミュージックな、アフリカン・カリビアン・リズム&ブルース・ゴスペル・アヴァンギャルド呪術ロックである。リズム・アレンジは各種取り揃えられ、エコエコアザラクな攻撃の手を千手観音である。サイケデリックと呼んでもそのとおりなのは現実と夢想の差などどうでもいいことを十二分に理解していたからであり、その底にはドクター・ジョンとしての怒りと怨念が多少なりとも存在していたからである。毒になる。だから効く。娯楽としてここから先は世界全土をパン・アフリカンととらえる以外にはない。ジャズの地層のさらにいくつもの下部を掘っていくことなのだが。ここでは中世の骨と20世紀前半の熱が踊っている。

(「スタジオ・ボイス」1997年8月号)
 
『グリ・グリ』






湯浅学による解説

 2018年は映画の『ラスト・ワルツ』公開から40年目にあたる。デジタル・リマスター版の劇場試写があったので行った。初公開のときの試写は読売ホールの大画面だったせいもあり、“動くザ・バンド”はたいへんめずらしいものだった時代で、1曲終わるごとに会場全員で拍手した。ほぼライヴを見ている状態だった。このときの試写は、どこぞにハガキを出し抽選で当選すると行けるものだったと記憶しているが、実際はハズレた人はいなかったらしい。当時名古屋でも同様の劇場試写があり、やはり1曲ごとに大拍手だった、と先日得三の森田さんに聞いた。『ラスト・ワルツ』はもちろんザ・バンドが主役だが、色々出演したゲストの中で、一番カッコイイと思ったのはドクター・ジョンだった。スパンコール入りジャケットと赤いドレスシャツがこんなに似合う人を初めて見た。「サッチ・ア・ナイト」が艶っぽい。動くドクターはそれ以前、74年だったか、テレビの『イン・コンサート』(だったと思う)で見てビックリ。呆然としたというか得体がしれなさすぎて息が止まりそうになった。マルディ・グラのブラック・インディアンの装束でこってりメイクしているドクターはまぶたに目玉が画いてあった。それで「サッチ・ア・ナイト」を歌っていた。たぶんバックは今思えばミーターズだったと思われるのだが72~73年のツアーのときのテレビ出演だろう。グリグリ・マスター、ヴードゥー教の怪人キャラクターそのまんまの見た目は強烈だった。それからしばらくしてカット盤で買った『ガンボ』に見事にはまってからはニューオリンズ道をひたはしった40数年前。ドクターと大滝詠一『ナイアガラ・ムーン』のおかげでニューオリンズへは3回行くことになったし、ドクターのインタヴューも何回かやらせてもらって、ニューヨークやニューオリンズの道上でバッタリ逢ったこともあった。初来日のときはソロでピアノの弾き語りだったが、それはそれは素晴らしいものでありました。いつ観ても音楽愛がたくさん伝わってくる偉人だと思っていますが、その出発点は50年代のニューオリンズR&Bシーン。詳しくはドクターの自伝をごらんください。あーニューオリンズはええねえーというだけではむしろつまらない、と教えられた思い強く、音楽は因果の賜物である、といつでも考え感じるようになったのはドクターをしっかり聴くようになってからだと思う。重なりと混在、それが当たり前の歴史の基本で、だから知れば知るほどおもしろくなるものなのだ、といつでもドクターはさりげなく、年寄りにも若人にも感じさせる作品を提出し続けているわけです。それにしても『ラスト・ワルツ』のドクター、大画面で久しぶりに見ましたが、やっぱりめちゃくちゃカッコよかったです。昔、アルバムの邦題、『恐怖のファンキー・ドクター』にされちゃったことありましたけど、『ラスト・ワルツ』ではとてもエレガントです。この人がとんでもないジャンキーだったってのも、ならではですね。





湯浅学(ゆあさ・まなぶ)
音楽評論家、ロック・バンド「湯浅湾」リーダー。近著に『ボブ・ディランの21世紀』(音楽出版社)、監修・執筆担当の『洋楽ロック&ポップス・アルバム名盤Vol.3 1978-1985』(ミュージック・マガジン)、2014~2016年にboidマガジンで連載していた「ねこ日記」を加筆・訂正してまとめた『ねこのあと』(青林工藝舎)など。4月27日(金)開催の「アナログばか一代」はザ・バンドを特集します。

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