boidマガジン

2018年05月号

樋口泰人の妄想映画日記 その73

2018年05月22日 12:18 by boid
2018年05月22日 12:18 by boid

boid社長・樋口泰人による妄想映画日記。GWはニール・ヤング、ベティ・ラヴェット、ヴァン・モリソン、メイヴィス・ステイプルズのアルバムを聴き、試写にて『KUICHISAN』(遠藤麻衣子)、『30年後の同窓会』(リチャード・リンクレイター)、『君の名前で僕を呼んで』(ルカ・グァダニーノ)、『ワンダー 君は太陽』(スティーヴン・チョボスキー)を見て、お台場の爆音映画祭で誕生日を迎えた5月前半の社長の日記です。




文・写真=樋口泰人


5月1日(火)
GWの谷間だったが、まじめに仕事をしていた。気が付くと社長仕事が山ほどあった。


5月2日(水)
利府での爆音映画祭の取材を受けるため、仙台に行った。新聞、ラジオ、テレビ。夜は友人たちと仙台の旬を味わった。


5月3日(木)
部屋に散乱して収拾がつかなくなったレコードを片付けた。姫の使っていたクラビノーバを処分して、レコード棚を仕入れたのである。通常の家具ショップで売っているレコード棚は、おそらく板の規格サイズによって作られているために、どうしてもLPサイズギリギリで、ボックスセットなどが斜めにしないと入らない。でも、レコード店である某ショップ製の棚は少し余裕があって、出し入れがしやすいのである。2センチくらいの差だが、この差は永遠に埋まらない。

方南町にあるホームセンターに行った。GW中に行う大片付けに伴うあれこれを仕入れるためだが、歩いて30分ほど。いい運動になったのだが、以前に比べて足腰にこたえるようになった。確実に筋力が落ちているのを感じる。善福寺川では、サギだろうか、GWを楽しんでいた。



わが家の入り口のフェイジョアに大量のつぼみができていた。





5月4日(金)
猫様がレコード棚を占拠していた。


『レディ・プレイヤー1』を観に行ったのだが、新宿ピカデリーで予約していたはずが、行ってみると丸の内ピカデリーだったことが判明。わたしではなく妻の予約。歳をとると誰も自分をコントロールすることなどできない。次第に崩壊していく自分に身を任すことの気持ちよさは、何事にも代えがたい。しかしちょっと早めに新宿ピカデリーに行っておいて助かった。それに予告編のない爆音映画祭と違い、シネコンの予告編は長い。割と余裕で間に合った。試写で観た後、自分の中で『ペンタゴン・ペーパーズ』とセットになって十分すぎるほど盛り上がっていたので、2度目の鑑賞はその気持ちをクールダウンさせるようなものとなった。妄想が走りすぎていたところや、勘違いしていたところの再確認。しかし、劇中のゲームの最初のレースで、後ろ向きに走るという大胆なやり方を主人公が発見するのだが、これは、もう30年ほど前にわたしが占い師に言われた言葉とまったく同じであった。ただ微妙な違いもあって、主人公は後ろに向かって後ろ向きに進むのだが、わたしの場合は、後ろ向きで前に進めと言われたのだった。わたしが愚痴を言ったり体調不良を口にしたりしているときは、気持ちが非常に前向きであると理解していただきたい。と言った瞬間にそれらの関係が逆転したりするので、自分でも説明つけがたい。


5月5日(土)
ツイッター上に、デヴィッド・ボウイのファンたちが描いたボウイの絵の展示の話題が載っていた。こういう、名もなき人たちの愛の集積みたいな展示には、ネット上の記事をちらっと読んだだけでもウルウルしてしまう。





5月6日(日)
買い損ねていたものや出たばかりのものや、おっさん・おばさんのレコードをあれこれ仕入れた。ニール・ヤングのライヴはあまりに音が鮮明なので驚いた。40年以上の年月などなかったに等しい。ベティ・ラヴェットの新作は全曲ボブ・ディランのカヴァーだった。何曲かでキース・リチャーズとも共演。ヴァン・モリソンの新作は、再びジャズ・アルバム。なんかもうこうなってくると、いくらでも新作出せるんじゃないかと思う。そしてようやく手に入れたメイヴィス・ステイプルズ。アルバムタイトルも意味深だが、とにかく冒頭のベースの響き一発でやられる。








わたしより10歳以上年上の方々に励まされつつ連休が終わった。


5月7日(月)
遠藤麻衣子『KUICHISAN』。ようやくフィルムでの上映で観ることができた。音の凶暴さがサンプルとは全然違った。試写室のスピーカーがビビっていたがそれもあり、というような映画だった。つまり上映の適切さではなく、それが生まれたときの力だけに、この映画は足を置く。そのことによってあらゆる場所を発生の現場へと変える。映画によるライヴ・パフォーマンスと言ったらいいか。この作品がフィルムでなければならない理由はまさにそこにある。上映のたびにフィルムは傷つき、新たな表情を加えるからだ。


リチャード・リンクレイター『30年後の同窓会』。ベトナム戦争を同じ隊で過ごした3人が30年ぶりに集まって、湾岸戦争で戦死したそのうちのひとりの息子の遺体を引き取りに行く旅。途中、3人の何気ない会話や意味のない行動など、物語の道筋をまっすぐたどるのではないまわり道やよそ見、迷いなどが相変わらず良くて、映画を観ているこちら側の現実へと踏み外してくる映画の時間を堪能していたのだが、ある時、ああこれはカサヴェテスの『ハズバンズ』のリンクレイター版なのかと気づく。失われた何かを取り戻す旅というよりも、話すことや動くことが彼らの話や動きを充実させていく、とりあえずの目的に向けての目的のない旅。行為が彼らの思考となる。手足と口で考える人間たちの物語と言ったらいいか。エンディングに関しては賛否両論、さまざまな解釈ができると思う。わたしはあれでいいと思う。リンクレイターの周囲には、彼らのような人たちがあふれるほどいるのだ、きっと。カサヴェテスとは違う立場でリンクレイターは映画を撮っているのだと思う。『ハズバンズ』のアナーキーな展開は誰にもやれることではないし、それゆえ心を揺さぶられもするが、『30年後の同窓会』はその『ハズバンズ』の3人を視野に入れながらも、あの3人にはなれない多くの人々に向けて、果たしてあなたたちの国はどこにあるのかと問いかけているように感じた。




5月8日(火)
ルカ・グァダニーノ『君の名前で僕を呼んで』。小規模公開でありながら大ヒット中、ということでいったいどんなことになっているのか観に行った。スフィアン・スティーヴンスの曲が使われている、ということも気になっていた。もう10年以上前、nobodyのカメラマン鈴木淳哉に勧められて聞いて以来、ずっと気になっていたミュージシャンである。あの頃、エリオット・スミスを始め、いわゆるアメリカンなイメージとは程遠い繊細でヒリヒリとした歌を歌っていたシンガー・ソングライターたちの何人かは自殺したり病死したりしてしまっているのだが、スフィアン・スティーヴンスはまだ生き残っている。とても生き残れそうにないか細く繊細な魂を持っているにもかかわらず生き残った人が、まさにそこにいるような映画であった。通常の時間のスケールならないことになってしまうはずの、名もなき時間がそこに流れていたように見えたのは、カメラの動きの小さな揺れのようなもの、わずかなまわり道が、それを幻視させたのだろうか。カメラマンは、アピチャッポンの『ブンミおじさんの森』などを手掛けたサヨムプー・ムックディープロムであった。文化村のサービスデーということもあってか、女性たち、ゲイのカップルたちで満席になっていた。




5月9日(水)
スティーヴン・チョボスキー『ワンダー 君は太陽』。生まれつき顔の骨格が変形している少年が主人公。デヴィッド・リンチなら『エレファントマン』となるが、こちらはアプローチがまったく違う少年と家族との物語。結局なんやかんや言って、弟はみんなから愛され気を遣われて、日陰者どころか太陽じゃないかというお姉ちゃん(へ)の視線も含めての映画である。お父さん役がオーウェン・ウィルソンで日本ではほぼ同時に公開される『犬ケ島』じゃなくてこっち。そしてもう立派な大人のお父さん役にもかかわらず、相変わらずのスーツにスニーカーで、足元が一瞬映った時には思わずガッツポーズ。というか、まあ、わたしがガッツポーズする筋合いはまったくないのだけど。それでこの主人公がずっとNASAの宇宙飛行士ヘルメットをかぶっているんだけど、どうして普通のフルフェースじゃないのかと思っていたら、問題のお姉ちゃんの友人というのがいて、そのヘルメットは彼女が贈ったものだというのが分かる。で、その彼女が主人公に電話したとき、彼女は彼を「トム大佐」と呼ぶのであった。メイジャー・トム。デヴィッド・ボウイの「スペース・オディティ」の中に出てくる架空の宇宙飛行士の名前で、ヘルメットも「ああそういうことだったのか」と一気につながる。原作となった小説では、どんな説明がされているのだろうか。

しかしその前日『ワンダー 君は太陽』の話をしているときにわたしは勝手に『ワンダーストラック』と勘違いして、あの中のデヴィッド・ボウイの「スペース・オディティ」の使い方がすごいんだよねえ、最後はカナダの小学生たちの「スペース・オディティ」大合唱だし、とか言ってきょとんとされたのだが、あながち的外れではなかったということだ。というか見事なまでの予言的勘違いで、電話口で主人公の姉の友達が「メイジャー・トム」と呼びかけたときはさすがにのけぞった。いや、まあ、それだけのことである。しかしどうやら未見のリュック・ベッソンの新作『ヴァレリアン 線の惑星の救世主』でも「スペース・オディティ」は流れるようだし、いったいここにきてのトム大佐の活躍ぶりはどういうことなのだろうか。

カメラマンはドン・バージェスだった。『フォレスト・ガンプ』『コンタクト』から『マリアンヌ』まで、ほとんどのロバート・ゼメキス作品のカメラマン。小さな映画にもかかわらず部屋の中や学校などの見せ方がどこかメジャー作品みたいだと、映画を観ている間中不思議な気持ちでいたのだが、納得がいった。光や色の取り入れ方なのかな。対象との距離感も、ある一線を踏み外さずギリギリまで攻めることもなくあっさりとど真ん中で、すべてを見せてしまう感じ。なんだろう。何も特別なことをしていないように思えるのだが。だがそこにはすべてがある、そこにあるすべての機会をとらえている。




5月10日(木)
朝9時お台場。そのためには7時に起きなければならないという普通のサラリーマンにとっては何のことはない起床のプレッシャーでほとんど眠れないまま、お台場へ。9時から夕方まで爆音調整を行い夜は本番。お台場での爆音は2回目で、前回の音はかなりうまく行ったので安心していたのだが、やはり同じ場所同じ機材とはいえ、セッティングやチューニングの具合によって微妙に差が出る。今回はセリフと周囲の音と画面とに違和感があり、音質ではなく、スピーカーから音の出るタイミングを微調整するところから始めた。ちょっとしたことだったのだが。夕方までに7本。最後の『シング・ストリート』は耳もよれよれになってきたために、途中までで翌日に持ち越し。



本番オープニングは『シェイプ・オブ・ウォーター』で、試写を観たときにこの音は絶対に爆音でと思っていたのだったが、やってみるとやたらと怖い映画になった。アメリカの闇の音が前面に露出したということになるだろうか。この日のゲストのコトリンゴさんはまた別の見方をしていて、普段はコミュニケーションが取れない者同士が、音によって交信している、その交信の音が聞こえていると。ニール・ヤングの『トランス』をも思い起こさせる発言。あのアルバムのわかりにくさを問われたニール・ヤングが「あなたにとってわかりにくい音だったとしても、自分はこの音で息子とコミュニケーションをとっているんだ」と答えた、そのエピソードを思い出す。また、時代設定は62年ということなのだが、流れている曲は30年代40年代のジャズで、すでにエルヴィスさえ時代遅れになりつつある60年代前半のアメリカとはとてもじゃないが思えない。舞台となる研究所もやはりもっと古いアメリカが夢見た未来のアメリカと言いたくなるようなビジュアルで、つまり、これは声の出ない主人公と宇宙研究所に連れてこられた未知の生物とのラヴストーリーであると同時に、それは主人公にほのかに心を寄せていたすでに中年も過ぎた絵描きが作り上げた物語なのではないか、そんなことをトークでは話した。映画が始まってすぐのナレーションは、この絵描きの声だったはず。つまり語り手は彼なのだ。そのナレーションは、彼が見届けたふたりの恋を現代のわれわれに伝えるという意味だったのかもしれないが、しかしすべてが彼の作り話という見方も捨てがたい。

その後、山口からの客人と食事に行ったのだが、その客人が有楽町と新橋とを自信満々で間違えるというバカ者だったために、酔っ払いのカラオケを間近に聞きながらジンギスカンを食うというめったにない体験をした。


5月11日(金)
朝から上映本番なのだが深夜の爆音調整があるため、午後出勤。晴れの日のお台場は、すっかりリゾート気分だった。客人とのミーティング、それから取材も受けた。取材してくれた記者は爆音初体験だったらしいのだが、これまでの爆音がらみの記事も読んでいてくれていて、そのうえでお台場の『ラ・ラ・ランド』を観て、爆音の面白さを実感したとのこと。こうやっていろんな人が映画の音のちょっとした変化を体感していってくれたら、いろんなことが変わる。少しは住みやすい世の中になる。まあ、ずいぶん時間のかかる話ではあるのだが。



深夜の爆音調整は滞りなく順調に。午前3時前に終了。そこからタクシーでの帰宅ということになるのだが、めったに見ることのない湾岸地区の深夜の風景を眺めながら、タクシーのメーターも気にしていた。お台場で、金曜の夜のホテルをとるよりは俄然安い金額で、高円寺着。


5月12日(土)
昼過ぎまでぐずぐずと寝ていた。お台場には行かず、別のboid作業や、原稿書きをやっていた。夜は猫様2名と食事をした。


5月13日(日)
爆音を始めてからというもの、誕生日はほぼ爆音やっているか、調整をやっているかで、自宅での誕生日というのは記憶にない。本日もお台場にて。主催者、劇場関係者からのサプライズもあって、東京湾を見ながらの誕生日となった。お祝いなのか豪快に雨も降って、普段なら爆音の動員を気にするところなのだが、すべての作品で前売りでほぼ完売しているため、そうなると単なる土砂降り。海辺の土砂降りなどめったに遭遇しないので、何となく心沸き立つ感じでもあった。しかし写真には土砂降り感は写らない。






5月14日(月)
事務所にて、事務作業、発送作業などで忙殺。『犬ケ島』の試写に行くはずだったのだが諦めた。牧野君からNRQの新作『レトロニム』が送られてきていた。「レトロニム」という言葉は、たとえばデジタルが出てきて以降の「アナログ」、エレキギターが出てきて以降の「アコースティックギター」、カセットテープが出てきて以降の「オープンリール」というように、それまでは単にそれだけのものだったにもかかわらず、ある時以降から特別な名前によって呼ばれることにより区別されて、そのもののオリジナルのありかを示す言葉、というような意味を持つらしい。それはそこに単にあるだけではなく、その後にできた新しい何かを通すことによってはじめて現前する。つまりそのレトロにも聞こえる音は、新しい音なのだ。新しさがないと成立しない音と言ったらいいか。古さの中に新しさがあるのではなく、あくまでも新しさによって存在することのできる古い音がそこにある。ファースト・アルバムから一貫したNRQのスタンスが、そのまま聞こえてくる。その後に聴いた某シンガーのアルバムの音が、好きなシンガーであるにもかかわらず、なんだか子供っぽく聞こえてしまった。





5月15日(火)
昨日の続きの事務作業。その後恵比寿へ。写真美術館のホールを上映に使えないかという企画があり、その下見をした。こちらがその気でも、ホールの方の都合やスケジュールなどがあり、どうなるかはまったくわからない。気長にやるしかない。





樋口泰人(ひぐち・やすひと)
映画批評家、boid主宰。5/26よりシネマ・ロサにて『大和(カリフォルニア)』上映。『地獄の黙示録 劇場公開版』を「午前十時の映画祭9」にて全国上映中。5/31-6/1は京都同志社大学にて「爆音映画祭 in 京都 2018を開催。

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