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2018年08月号

セバスチャン・ローデンバック(『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』監督)インタヴュー

2018年08月15日 15:08 by boid
2018年08月15日 15:08 by boid

8月18日から渋谷ユーロスペース他で公開されるアニメーション映画『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』(以下、『手をなくした少女』)の監督、セバスチャン・ローデンバックさんのインタヴューを特別掲載します。数多くあるグリム童話のなかの一話「手なし娘(原題:Das Mädchen ohne Hände)」を原作としたこの作品は、ローデンバック監督にとって初めての長編で、悪魔の仕業で両手を失い両親とも引き離された少女が、度重なる悪魔の妨害を受けながらも、自分の生きる場所、愛する人との生活を自らの“手”でつかみ取ろうとする姿が瑞々しく描き出されています。本作がどのような手法や過程を経て生み出されたのかを教えてもらいました。

写真はすべて『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』より




取材・文=黒岩幹子(boidマガジン)


ローデンバック監督はアニメーション作家として20年ほどのキャリアを持ち、『手をなくした少女』を作るまでに11作の短編を発表してきた(何作品かはVimeoで視聴できるので、ぜひご覧いただきたい)。あるプロデューサーから「手なし娘」を元にした演劇作品(オリヴィエ・ピィ演出)をアニメーションにするという提案を受けたことから、この童話に出会った彼はその物語に魅了されたが、資金が集まらず企画自体がとん挫してしまったのだという。そこで彼はそれまで作った短編作品と同じように、自分ひとりで原画を描き始めることでこの作品の実現に向けて歩みだした。ちょうどローマのヴィラ・メディチのレジデンスプログラムに合格したのを機に、その滞在期間中の1年の間、すべての原画をひとりで、しかもその間、撮影やラインテストをほとんど行わないまま描き続けたのだ。その経験をローデンバック監督はこのように説明してくれた。

「途中で撮影やラインテストを行わなかった理由は簡単で、ヴィラ・メディチでのレジデンスの期間があらかじめ1年間と決まっていたからです。実は最初の1ヶ月~90日ほどを終えた段階で自分が描いてみたもの、映画の最初の30カットほどは、1回撮影してテストしています。ただその後はずっと、どういう仕上がりになっているか確認しないままただひたすら描き続けました。そうして1年間描き続けたものをパリに戻って撮影し、どういう仕上がりになったのかを初めて見たわけですが、この経験は非常に興味深いものでした。要するに自分が1年前に描いたデッサンを見るということで、自分が何をやったのかというのを再発見するような経験になりました。自分が描いたもの、自分がした仕事と距離を置いて、少し引いた視点から見直すことができたんです。そうした方法をとって良かったのは、一枚一枚の絵として見るのではなく、ひとつの出来上がった動画、シークエンスごとに作品を見ることができたことでした。私は自分自身を良い画家だとは思っていませんし、良いアニメーターだとも思っていません。ですので、もし少しずつ撮影してアニメーションを作っていたら、細かい失敗やうまくいっていないところが気になって、なかなか先に進めなかったかもしれません。まず最初にデッサンをすべて描いてから、それを後からまとめて動画にして見たことによって、作品をまず部分部分ではなく全体として見ることができたし、近い距離から細かいところばかりに目がいって小さい失敗を気にせずにすんだんです。そうやって自分の仕事が成立したのだと思っています」



そうして1年間かけてひとりで描いた原画を、初めて動画として、距離をとって全体として見たあとも、主人公の少女の口もとや、彼女の涙が腕を伝って落ちる描写など「物語に奉仕する」部分を少しだけ描き直したり、描いていたカットを使わずに消してしまったりはしたものの、原画と原画の間を補うような作業、いわゆる「中割り(インビトゥイーン)」を描き足すようなことは一切なかったという。本作では中割りが決して精密ではなく、また敢えて空白にした部分もあるそうで、それが特徴のひとつにもなっている。その理由についてローデンバック監督は「時間がなかったということもあります。1年の間にこの作品を完成させたかったので、中割りを未完成にしておくことで作業のスピードを上げる目的もありました」と、時間的な問題があったことを認めながらも、その一方で別の狙いもあることを教えてくれた。

「精密ではない部分、空白の部分は観客の脳に埋めてもらいたいと思っているんです。それは自分が描いたものよりも観客に埋めてもらったイメージのほうが優れたものになると思うからです。絵が観客の脳と会話をすることでそれぞれの観客の脳の中にできる作品のほうが、おそらく実際に画面で描かれているものより素晴らしいものになるのではないでしょうか。それは自分自身ができあがった作品を見て発見したことでもあります。ここで描かれている登場人物は非常に生き生きとしている。彼らは存在していないにも関わらずそこに生きていました」

そう語ったローデンバック監督は、おもむろにスケッチブックを取り出し、それをぱらぱらとめくって見せてくれた。そこには主人公の少女が描かれていたが、彼女の姿を形成する線はページをめくるごとに減っていき、いったん手を形成する線だけが残る。「この場面で観客は手を見るだろうということがわかったのでこうしたんです。他の線はもう消えています。その後こうやってまた少しずつ(手以外の体の線を)再登場させていくわけです」



監督が具体的にデッサンを示して見せてくれたとおり、本作はまさに「線」の存在、その動きによってできている。人物や事物――特に印象的なのが水車や川の水、少女から排出される涙や尿、母乳などの液体だ――が、線が消失してはまた表れ、揺らぎ、時に溶け合うように見える。原画に描かれた線が動画として連なることによって人物、生物の息遣いや躍動が表現されている(静止画では何が描かれているかわからないが、動画になることによってその内容が判明するこの手法を、ローデンバック監督は自らの造語で「クリプトキノグラフィー(暗号描画)」と呼んでいるそうだ)。私たち観客は、主人公の少女を形成する線から、彼女が悪魔に狙われながらも自分の人生を生きようとする生命力を感じることができる。
少女を始めとするすべての登場人物は時に消えたり、途切れたり、うごめいたりする線でできているので、輪郭や肌を持たないのだが、ローデンバック監督は「肌が存在するアニメーションというのは存在しないと思っています。どれほどリアリズム、写実主義に基づくアニメーションであっても肌はないと思います。もしあるとすればそれは偽物の肌、肌の表象でしかない」と語る。

「自分にとってアニメーションが興味深いものであるのは、アニメーションが現実をコピーしない場合です。それはおそらく絵画においても、詩や音楽においても同じことで、もしそれらの作品が素晴らしいとすれば、それが現実をコピーしていないからなんです。だから私にとって今のアニメーション産業における長編映画は非常に奇妙なものです。現在作られている長編映画の多くは、いわば記憶喪失の芸術だと思っています。なぜならそれらの作品はあたかも美術史が存在していないかのように作られているからです。アニメーションを作っている人たちは多くの勉学を積んだ、教養のある人たちばかりなのに、その作品を見てみると、あたかも印象派もキュビズムもフォーヴィズムも存在していなかったかのように作られています。その作品には絵画の歴史の変遷において使われてきた手法や視点がまったく使われていない。それは驚くべきことです。昨日友達が葛飾北斎に関する本をプレゼントしてくれたんですが、その中では北斎が岩だったり木々だったり自然のあらゆるものをいかに絵に描こうとしたかということが書かれていました。ですが日本の長編アニメーションにおいても、そうした芸術家の先達によって培われてきた技術というのがまったく使われていません。もし例外があるとすれば高畑勲の作品のいくつかのシークエンスだけだと思います。たとえば私は宮崎駿の作品を非常に評価していますし、すごく好きな作品も何本かありますが、彼の自然の描き方というのは魔術的でありながら、一方で非常にリアリズムに基づいています。彼は現実を模写するようなかたちで、実際に存在する自然に似たようなかたちで描いていて、私にはなぜそのようなことをするのか理解ができません。日本のアニメーション作品をいっぱい見てきましたが、自然というものをリアリズムに基づいてつくっている作品ばかりで、なぜそうなってしまうのだろうと疑問を感じています。現実を模写したいのであればアニメーションではなく、実写映画を作ればいいと思ってしまうんです。それはアメリカのアニメーションにも言えることですね。ピクサー作品で描かれている水も、現実に近いような形で描かれていますし、ディズニーの作品でも自然は本当の自然に近いものにしか描かれていない。私はそうした作品が嫌いなのではなく、好きな作品もたくさんありますよ。ただなぜそういうことをするんだという疑問を常に抱えていますね」



こうしたローデンバック監督の主張が説得力を持つのは、『手をなくした少女』が実験的といえる手法をとりながらも、その手法が「手なし娘」という童話の中にある物語の普遍性と分かちがたく結びついているからだ。普遍的な作品を作るために事物を現実に似せて描く必要はないことをこの作品は教えてくれる。
また、ローデンバック監督はアバンギャルドな要素とポピュラーな要素がひとつの作品のなかで共存し得ることも示していると思う。それが顕著にあらわれているのが、本作における音楽ではないだろうか。劇伴はこれまでの短編作品でも音楽を担当してきたオリヴィエ・メラノが手掛けているが(彼自身が演奏するギターの旋律の反復が、画面の線の揺らぎやうごめきを際立たせ、また自然の中をさまよう少女の歩みを際立たせる)、主題歌は「ある種ディズニー映画のような歌を作りたかった」という思いから、監督自身が作詞と作曲を手掛けたという。その歌曲をメラノがアレンジし、女性歌手のレティシア・シェリフが歌ったのがエンドクレジットで流れる「ワイルド・ガール」だ。「No More Lips, No More Cheeks, No More Eyes, No More Legs, No More Neck…」と体の様々な部位をどんどん手放していく歌詞に続き、「Wild Girl」と繰り返されるサビで構成されたこの歌は、非常にシンプルでありながら、映画の最後で少女が下した、原作の結末とは異なる選択を暗示してもいて、それこそディズニー映画の楽曲のように鑑賞後の高揚感を高めてくれる。

ローデンバック監督の手によって生まれ、しかしその手で操られているのではなく自らの生によってその姿(線)を躍動させているかのように見える、手をなくした少女=ワイルド・ガールに、ぜひ会いに行ってください。

大人のためのグリム童話 手をなくした少女
2016年 / フランス / 80分 / 配給:ニューディアー&チャイルドフィルム / 監督・脚本・アニメーション:セバスチャン・ローデンバック / 声の出演:アナイス・ドゥムースティエ、ジェレミー・エルカイムほか
8月18 日(土)よりユーロスペースほか全国順次公開
公式サイト




セバスチャン・ローデンバック Sébastien LAUDENBACH
アニメーション映画監督。1973年にフランス北部に生まれ、国立高等装飾美術学校にてアニメーションを学ぶ。現在は同校で教鞭もとっている。主な監督作に『JOURNAL』(1998年、クレルモンフェラン映画祭でYouth賞を受賞)、『DES CALINS DANS LES CUISINES』(2004年、セザール賞の最終選考)、『REGARDER OANA』(2009年、アヌシーおよびクレルモンフェランに選出)、『VASCO』(2010年カンヌ批評家週間で上映、2012年のセザール賞の最終選考)、『DAPHNÉ OU LA BELLE PLANTE』(2015年、シルヴァン・デロインと共同監督、エミール・レイノー賞受賞)など。『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』が初の長編作品。

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