boidマガジン

2018年09月号

ファスビンダーの映画世界、其の十六 (明石政紀)

2018年09月16日 13:45 by boid


ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの著書『映画は頭を解放する』(勁草書房)やインタヴュー集『ファスビンダー、ファスビンダーを語る』(2013年に第1巻、2015年に第2・3巻(合本)発行)の訳者・解説者である明石政紀さんが、ファスビンダーの映画作品について考察していく連載「ファスビンダーの映画世界」。今回は、1970年につくられた『聖なるパン助に注意』を取り上げます。連載第5回(其の五)からファスビンダーが劇団「アンチテアーター」に在籍していた時代に撮った作品をテーマ別に取り上げてきましたが、いよいよその締め括りとなる作品です。そしてファスビンダーが後に「ものすごく楽しんでつくった」と語ったという本作について、まずはその題名から迫っていきましょう。



文=明石政紀


『聖なるパン助に注意 Warnung vor einer heiligen Nutte』(1970)、またはアンチテアーター映画の締め括り


序、「パン助」ってなあに?

それにしても『聖なるパン助に注意』とは、とびっきり奇妙なタイトルである。とりわけ「パン助」なる語は、これまでのわたしの人生のなかで無数に交わしてきた会話において一度とたりとも耳にしたことがない。
いったい「パンスケ」とは何を意味するのか?
ギリシア神話に出てくる好色な牧神パンのことなのか?「パンはスケベ」を略して四文字言葉にすると「パンスケ」となる。
それとも人名に発するものなのか? 事実ドイツには、カトリック聖職者のパウル・パンスケ、英米文学翻訳家のギュンター・パンスケ、ノルトライン=ヴェストファーレン州議会議員のディートマー・パンスケといったパンスケさんたちがいる。題名では「聖なるパン助」となっているからして、該当するのは聖職者パウル・パンスケ氏である可能性が大である。20世紀の初頭、西プロイセン・ペルプリン司教区神学校の教授を務めていたこの聖なるパンスケ神父にどうして注意すべきなのか、綿密な調査をおこなう必要があるだろう・・・
と、呟いていたところ、突如としてミケの横やりが入った。
「なに、寝ぼけたこと言っているのよ! 『聖なるパン助に注意』って訳題でしょ。原題にはパンスケなんて出てこないわ!」
そのとおりである。
このミケのお言葉により、わたしの仮説は瞬く間に崩壊、これまでの「パンスケ」探求は一挙に水泡に帰した。
気をとりなおし、原題に目をやってみると、「WARNUNG VOR EINER HEILIGEN NUTTE」とある。カタカナ化してみると、「ヴァルヌング・フォア・アイナー・ハイリゲン・ヌッテ」となる。そこで問題の焦点となるのは、「パン助」と訳される語はどれかということなのだが、これは独和辞典をひもとくまでもなく容易に確言することができる。すなわち最後の単語「NUTTE(ヌッテ)」だ。
そしてここで言う「ヌッテ」は、「縫って」とも「塗って」ともいっさい関係はなく、ドイツ語で「娼婦、売春婦、売女」の指す俗語である。
クルーゲ語源辞典第23版594頁によれば、「NUTTE」とは、「切れ目、割れ目」を意味するNUT(E)から派生した語で、容易に想像されるごとく女性器を暗示し、それが女の子の蔑称と化し、それがまた肉体を売ることを生業とする女性の意味に転化したとのことである[*1]
ここで湧きおこってくる疑問は、どうしてこの「ヌッテ」が、邦題において「娼婦」でも「売女」でもなく、今や死語と化している「パン助」と訳されたのかということである。小学館大辞泉電子辞書版によれば、「パン助」は、第二次大戦後、アメリカ進駐軍を相手にしていた街娼を指した「パンパン」から派生した語。よってこの邦題をつけたのは、「パン助」の語が、一般社会で通用していた終戦直後の日本社会をじかに体験した人物ではないかというが容易に想像できる。おそらくかなり年配の方だろう。もう亡くなっているかもしれない。
さらにまた疑問が湧きおこってくる。それは本作のタイトルにおいて「聖なるパン助」なる語によって指そうとしたものは何なのかという疑問である。本作は間違っても、聖人の売春行為を扱った作品ではないことは前情報で知っている。
この件に関しては、ファスビンダー本人がこの映画に寄せて書いた文章を読めば、あっさりとわかる。
「そしてはっきり気づかないうちに、錯乱の原因となっていたドラマ化されたヒステリーや型どおりの熱情が、つかみどころもないまま生じ、それが過ちを犯させ、すがらせる。それは映画だ。それは首ったけにしながら、身を振りほどく。映画、それは聖なるパン助だ」[*2]
こうして「聖なるパン助」とは映画、「聖なるパン助に注意」とは、映画には気をつけろ、ということであることが判明。この言から、本作は映画にまつわる映画、映画作りにまつわる映画であることも想像できる。映画を「聖なるパン助」呼ばわりしたこのタイトル、聖と俗が結合した想像力をかきたてるタイトルでもある。
と、書いたところで、ふたたびミケの横やりがはいった。
「なんで、こんな馬鹿げたことをウダウダ書いてるのよ!! さっさと本題に入ってよ。こんなの書いてたら、読者のみなさんに怒りの鉄拳を食らうわよ」
そのとおりである。
それでは、本題に移ろう。と、本題に移ろうとしてみたところ、何が本題なのか自分でもわからないことに気がついた。
そこでミケの助言を仰いだところ、
「まったくどうしようもないわね。この原稿の副題はいったいなに? 『アンチテアーター映画の締め括り』でしょ。もうどうでもいいから、それに沿って書いてみたら?さっさとはじめないと、わたしも怒りの鉄拳を落とすわよ!」
というわけで、さっさと「アンチテアーター映画の締め括り」としての『パン助』の話に移ろう。


アンチテアーター映画の締め括りとしての『パン助』

『聖なるパン助に注意』は、ファスビンダーのアンチテアーター映画群(1969~70)の締め括りの作品である。とはいっても最後の作品ではない。最終作は、その三か月後に撮られた『インゴルシュタットの工兵隊』である。
それでも『聖なるパン助』は、アンチテアーターの締め括りの映画である。ファスビンダーも、「『工兵隊』のほうがあとに撮られたけど、『パン助』が実質上最後のアンチテアーター映画です」[*3]と言っている。
と、ここまで書いたところで、あまりの酷暑のため、うちわを扇ぎながらこの映画のDVDに見入っていたミケの声があがった。
「なにこれ。内輪の話じゃない!」
そのとおりである。
これは内輪の話である。『聖なるパン助』は、前回紹介したウェスタン『ホワイティ』の撮影現場における錯綜した人間関係を素材にしてつくられた映画である。よって、映画と映画作りに関する映画というだけでなく、ファスビンダーとその代理家族的グループ「アンチテアーター」の面々をモデルにした「家族の肖像」的内輪物である。
内輪物とはいっても、リアリズムの虚偽を嫌ったファスビンダーのこと、実際の出来事を本物っぽく再現するという愚挙に出るはずもなく、本作もいかにも虚構の作り物といった作り物らしさに溢れた異化作品である。
また、うちわを扇ぎながらミケがこう言った。
「でも、やっぱり内輪の話じゃない。撮影現場の話って映画によく出てくるけど、なんだか特権的で鼻持ちならないわ。平凡なわたしの生活とはなんの関わりもないし」
そのとおりである。
だがファスビンダーに言わせれば、本作の主旨はこうである。
「(・・・)傍から見るとやっぱり内輪の話に思えるけど、この映画はまったく違うんだ。たしかに撮影現場の話だけど、本当のテーマはグループがどう機能して、どう指導者の地位が生まれて、それがどう利用されつくされるかっていうことなんだ」[*4]
と、引用してみたところ、ミケは「あら、そうなの。じゃ、もう一度ちゃんと見てみようかしら」と反応、意外に素直である。
ファスビンダーにとって、『パン助』は、「アンチテアーター」時代の締め括りの映画というだけでなく、最重要の映画である。この人が自分の重要作を挙げるとき、必ず登場する唯一のアンチテアーター映画がこの『パン助』である[*5]
振り返ってみると、ファスビンダーが最初に書いた戯曲は『一枚のパンだけ』(1965/66)だった。これは上演こそされなかったが、少なくとも朗読のかたちで公の場に出た最初のファスビンダー作品で、強制収容所の映画を撮っている監督のお話だった。こうして映画に憑かれたファスビンダーの最初の五年間の活動期は、奇しくも映画撮影の話にはじまり、映画撮影の話で締め括られることになったのである。
と書いたところで、原稿のほうも、なんとなく締め括られた感じになってしまった。
というわけで、今回の原稿はこれで終わりしようと思い、コンピューターの電源を切ろうとしたところ、ミケの怒声が飛んだ。
「なによ、それ。まだ全然本題に入ってないじゃないの!」
「どうも先がつづかないし、何が本題なのか自分でもよくわからないのだ」
「まったくどうしようもないわね。この映画が生まれた経緯とか出演者とかスタッフとか、いろいろ書くことがあるじゃない」
「でもそういう内容って退屈であろう」
「そういうことを知りたい人もいるのよ。ちゃんと読む人のことを考えなさい。それにあなたの文章、もともと退屈だから、内容が退屈でもそう大差ないわ」


『パン助』の誕生

前述のとおり、『パン助』の内容は、はじめて異国で撮った異色ウェスタン『ホワイティ』の撮影現場の実話を生かして異化したものである。この意欲的異欲作『ホワイティ』は、ひどく不評を被って評論家にも観客にも配給会社にも虫のように無視され、長年日の目を見ることのなかった日陰物と化してしまったし、弱気な監督だったらここで挫折、その後300年間は映画をつくれなくなっていたかもしれないが、そこは不敵な自信家ファスビンダー、やはりただでは転ばない。『ホワイティ』の撮影時に起こった諸事を、この『パン助』に活用してしまった。
この映画は、ファスビンダーと行動を共にしてきたグループ「アンチテアーター」が、各人が能動的に行動するヒエラルキー抜きの理想的な集団としては機能せず、けっきょくは先導者とそれにつき従う者の力関係が生まれてしまうという失望の映画であり、その克服の映画であり、アンチテアーターの幕引きのような映画であり、敷衍すればアンチテアーターという特定のグループについてのお話ではなく、人々が集まって何かするときに起こることの寓話で、寓話と捉えなければ、自分とはいっさい関わってこないことになるから、この映画を観る意味もないし、ファスビンダーの映画はすべて寓話である。
とにかくファスビンダーみたいなあまりに強烈な個性とあまりに並外れた創作欲の持ち主がいると、とても本人が夢に描いていたデモクラチックな理想のグループは生まれないだろうが、そういう夢は持っていいし、たぶん持つべきだし、それが叶わないことが歴然とするところから何かがはじまるという映画でもある。本作にも、「俺が信じるのは絶望だけだ」という決め台詞じみた言葉も出てくる。
なんでも創作に昇華してしまうファスビンダーの場合、本人の言に従えば、絶望のあとにくるのは、異様なほどのやる気である[*6]
そこで、本作の製作現場についての三人三様の回想。
「やる気満々で(…)ものすごく楽しんでつくったもの」(監督のファスビンダー)[*7]
「休暇と神経戦が一緒くたになったようなもの」(ゲスト出演のヴェルナー・シュレーター)[*8]
「きつくて、おぞましかった」(撮影のミヒャエル・バルハウス)[*9]


『パン助』の脚本、映像、音楽

ファスビンダーがやる気満々で『パン助』をつくったことは、日頃は撮影直前にその日の台本を書いていたといわれるファスビンダーが、本作では完璧な脚本をあらかじめ用意し、役者に一字一句たりとも逸脱も即興も許さなかったことでもわかる[*10](とはいっても、音声はすべてアフレコなのだが)。
撮影は、この映画の素材となった『ホワイティ』で初顔合わせしたミヒャエル・バルハウス。『ホワイティ』で決してハッピーとは言えない体験をしたバルハウスは、そのときのことを「感じはよくなかったし、いい心地はしなかった。神経をすり減らされる思いがしたし、ギャラもよくなかった。でもファスビンダーと映画を撮るというのは挑戦だし、次の機会があればすぐ了承しようと思った」[*11]と回想している。次の機会となった『パン助』では、バルハウスのトレードマークとなる、流れるような移動撮影が効果的に多用され、バルハウスの映像はその後長年にわたりファスビンダー映画と切っても切れない要素となっていくのである。
逆にそれまでファスビンダー映画と切っても切れない要素だったペーア・ラーベンの音楽は、その貢献度を減じ、『パン助』に同伴するのはジュークボックス音楽(スプーキー・トゥース、レナード・コーエン、エルヴィス・プレスリー、レイ・チャールズ)とドニゼッティのオペラ・アリアの既成音源が中心で、ラーベンの音楽が出てくるとしても、それは以前の映画に使われた曲の流用。その後しばらくラーベンのオリジナル音楽は次作『インゴルシュタットの工兵隊』を除いて顔を出すことはなく、再登場するのはようやく四年後の『自由の代償』になってからである。


モデルはだあれ?

ファスビンダーがものすごく楽しんでつくったというこの『パン助』、前述のとおり、『ホワイティ』の撮影に参加したファスビンダーとアンチテアーターの面々、およびスタッフやゲストの(ファスビンダーから観た)異化ポートレートのような映画である。
というわけで、各役柄のモデルがだれなのか、すぐさま特定できる。それどころかハナ・シグラとクルト・ラープの場合は本人が本人を演じ、別の役者が自分を演じるイルム・ヘルマンとハリー・ベーアの場合は、本人がアフレコ・ヴォイスで本人を演じ、いかなる全開ヌードより自己露呈度が何千倍も高い映画ではあるが、こんな自分の姿を演じるとは、ファスビンダーのみならず、ほかの皆さんもけっこう楽しんでいたのかもしれない。
と、ここでまたミケの声があがり、
「モデルになった『ホワイティ』の参加者と、『聖なるパン助』の配役の対照表つくりなさい。こういう一覧性のあるリストをつくると、読者に喜ばれるわよ」
とのお達しがあり、
「わたしは、幼少時からあの手っ取り早く便利にみえながらも、微妙さも微細さも消去してしまう一覧リストなるものが大嫌いなのだ。わたしがサイクリストにもサンジカリストにもなれないのも、フランツ・リストの音楽がどうしても好きになれないのも、このリスト嫌いに起因しているのだろう」と抗弁したところ、
「なにつべこべ言ってるのよ。あなたの馬鹿げた好き嫌いなんてどうでもいいから、さっさとつくりなさい!」
と言われ、嫌がる心を抑えてしかたなく作成してみた。付表1) aとして最後に記載してある。
配役は、撮影がはじまってからも三日のうちにころころ変わった。
『ホワイティ』の製作担当(今風の言葉を使えばライン・プロデューサー)だったペーター・ベアリングも自分で自分を演じる予定だったが、うまくこなせずファスビンダーと交代、ハリー・ベーアは製作進行係に扮することになっていたが、この役の卑屈なところが表現できず降板、ウリ・ロンメルがそれを引き受け、ロンメルはロンメルで、ファスビンダーの片思いの対象ギュンター・カウフマンをモデルにした男優リッキーを演じるはずだったのに降ろされ、この大役は急遽呼ばれたマルクヴァルト・ボームに回わされた[*12]
というわけで最初の三日間に撮ったシーンはボツ、四日目に新キャストですべて撮り直しとなり、撮影担当のミヒャエル・バルハウスは、たった一日で七十二もののショットを撮ったのは後にも先にもこのときだだけで、撮り終わったあとには過労死しそうになったと回想している[*13]


監督色はカステルカラー

たぶん一番大きな配役変更は、ファスビンダーをモデルにした監督ジェフ役が、撮影日程の問題で当初予定されていたマリオ・アードルフからルー・カステルに変わったことだろう。わたしはかねがね、この役がアードルフではなく、カステルが演じることになって本当によかったと思っている。マリオ・アードルフは、演劇伝統があまりに強すぎるドイツにありがちな「臭い役者」、つまり演技過剰な俳優なのだ。どんなに「臭い」かは、ストローブ/ユイレの『階級関係』で、素人役者に囲まれてプロ俳優の「醜態」を晒してしまったアードルフの姿を見てみればいい。この人が出演したファスビンダー映画は後年の『ローラ』だけだが、その役は口八丁手八丁の地元土建業者という「臭いキャラクター」なので、こちらのほうは問題ない。デンマークのファスビンダー熱愛者ブロー・トムセンのようにカステルの起用に批判的な人もいるが[*14]、わたしは不愛想で内向的なカステルになってほっとしている。
ちなみに奇しくもスウェーデン人カステルは、それまでアンチテアーターで演劇をやっていたファスビンダーに、映画をつくりたくてたまらなくさせたマカロニ・ウェスタン『群盗荒野を裂く』(1966)の主演者でもあった。


『パン助』の受難

公開直後にお蔵入りしてしまった『ホワイティ』ほどではないにしろ、『パン助』も上映に関してはハッピーとは言えない軌跡をたどっている。その原因となったのは、音楽だ。
ファスビンダーは音楽著作権などというこの世の些事など気にせず、本作にレナード・コーエンやエルヴィス・プレスリーなどの音源を遠慮なく使ったのだが、公開後にこれが問題化。使用料が払えなかったため、アンチテアーターの業務代表で作曲家のペーア・ラーベンが、これらの音源を自分の曲に差し替え、さらに映画を14分ほどカット、しばらくこの短縮異音版でしか上映ができなかったのだ(もっともテレビ放映のほうは、放送局の音楽包括契約のせいで問題はなかったようだが)。音源の権利をクリアにして本来の版での上映が可能になったのは、ようやくファスビンダーの死後10年を経た1992年だったとのことである[*15]
と書いたところで、ここでミケのお小言があった。
「まったく前置きが長すぎるわ。もうそろそろ映画の内容について書いたらどうなのよ」
そのとおりである。
それでは、映画を観てみよう。


おごる心は転落のもと

映画を観てみると、最初に映し出されるのは、タイトルならぬ「Hochmut kommt vor dem Fall」との文字。
いったいなんだ、これは??
それでは、お答えしましょう。
これは旧約聖書に出てくる箴言で、「慢心は滅びに先立つ」、「傲慢は転落の前に来る」などと訳され、小学館独和大辞典では「おごる平家は久しからず」とわが国の諺化された訳語が載っています。
とりあえずここでは「おごる心は転落のもと」とでも訳しておきましょうか。
このお言葉は、ファスビンダーの愛読書だったフォンターネの小説『エフィ・ブリースト』第一章dtv文庫版11頁[*16]にも登場、主人公エフィが、お友だちのお転婆娘ヘルタやお高くとまったフルダと交わす、次の会話のなかに出てきます。
「〔グースベリーを〕食べたいだけ食べていいわよ。あとでまた摘めばいいから。でも皮は遠くに投げ捨ててね。いや新聞の付録の上に捨ててくれたほうがいいわ。あとで丸めてぜんぶ捨てるから。ママは、皮が散らかっているのが嫌でたまらないのよ。皮に滑って、脚の足の骨を折っちゃって言うのよ」
「そんなことないわよ」とヘルタは、グースベリーをせっせと頬張りながら言った。
「わたしもそう思うわ」とエフィも同意。「いい。わたし、一日に二、三回は転ぶんだけど、脚の骨なんか折ったことなんかないわ。脚が丈夫だったら、そう簡単に折れるものじゃないし、きっとわたしの足だって、ヘルタ、あなたの足だってそうよ。フルダ、あなたはどう思う?」
「運試しはよくないわ。おごる心は転倒(転落)のもとよ」
さすがフォンターネはうまい! 原文では「fallen 転ぶ」と「Fall(転倒、転落、滅亡)」が二重にひっかけられ、その後エフィが因習にこだわるブルジョワ社会から転落してしまう物語展開に暗につながっていくのです。さて、このお言葉は、本作ではどんな脈絡で使われているのでしょう? みなさん、映画をご覧になってご自分で考えみてくださいね。
と、ここでミケのお小言があった。
「どうしてそうやって本題からそれるのよ!」
「それるのよ!」と叱られ、とっさにブニュエルの夫婦劇『昼顔』の最後で車椅子の人となる夫ジャン・ソレルのことを想い出し、
「あの『昼顔』のジャン・ソレルは、ファスビンダーの夫婦劇『マルタ』の最後で車椅子の人となる妻マーギット・カーステンゼンを想わせるものがあるな」と口走ったところ、
「ソレルでそれるのはやめなさい! 本題に戻りなさい、本題に!」
と厳命された。
というわけで、本題に戻ろう。とは言ってみたものの、いまだに何が本題かわからないのだが。
さて上記にあげた題辞に引き続き、タイトル、出演者、スタッフのクレジットなどが映し出され、最後のほうでミュンヘンのアンチテアーターとローマのノーヴァ・インターナショナルの独伊共同製作である旨が伝えられる。
そう、これはファスビンダー映画初の国際共同製作である。その裏で糸を引いたのはローマ在住の製作担当ペーター・ベアリングで、ベアリングは売れるエロチック物を求めたイタリアの製作会社に、『聖なるパン助に注意』という娼婦映画を思わせる題名を掲げて出資させたとのことである[*17]


グーフィー君と一寸ヴィリー

最初のシーンでは、空をバックに黒ずくめの長髪の若者が登場、グーフィー君と一寸ヴィリーのお話を語りはじめる。
お話の概要はこんな感じ。
「グーフィー君は保母さん志望。叔母さんのドレスをもらって、それを着用、保母さんとしてデビューするのだが、児童に変人呼ばわりされたうえ、袋叩きにあって、保母さんの道を断念、着ていたドレスをゴミ置き場に捨てたところ、そこに脱獄囚の凶悪ギャング、一寸ヴィリーが登場、グーフィー君が捨てたドレスを身に着けて女装。三歳児くらいの背丈しかない一寸ヴィリーの姿を見たグーフィー君は、可哀そうな小さな女の子だと思いこみ、家に連れて帰り、たんまりご馳走を出したところ、一寸ヴィリーは猛烈な勢いでそれを平らげ、グーフィー君は、こんな小さな子にしてはとんでもない食欲ね、とたまげるが、子供のお世話をするという願望が叶ってご満悦。そうこうするうちに、警察がグーフィー君の家に突入、一寸ヴィリーを逮捕、これは凶悪なギャングだと説明されたグーフィー君は、まあ可哀そうな子ね、自分が凶悪犯だとわかってさぞかしショックでしょうね、と言いました」
と、ここでミケの感想。
「なんだかディズニー・アニメに出てくる犬のグーフィーが、だぶだぶの女の人の服を着たギャングのおじさんを親指姫みたいに可愛がっている姿を想像しちゃったわ。それにしても、なんだかとりとめのない話ね。でもこの語り手のお兄さん、飄々としてて、けっこうカッコいいじゃない。ファッショナブルな黒い帽子なんかかぶっちゃってカッコつけすぎだけどね。どんな人なの?」
と、問われ、
「ヴェルナー・シュレーターだ」
と返答すると、
「えぇ! これがあのシュレーターさん? ファスビンダーさんのお友だちだったあの人? ファスビンダーさん、シュレーターさんをすごく評価していたし、美しいエッセイも書いてなかったっけ[*18]。わたしも、この映画と同じころにシュレーターさんがつくった『爆撃機パイロット』っていう映画を観たんだけど、すごく感銘を受けたわ」
さすがシネフィル・キャットのミケである。
「でも、シュレーターさんが語るグーフィー君と一寸ヴィリーのこのお話、この映画のテーマとどう関係してくるのか、よくわからないわ」
との言もあった。
そのとおりである。わたしにもよくわからない。もしかすると、わからないままでいいのかもしれない。
それはともかく、ヴェルナー・シュレーターの役はスチル・カメラマンという設定なのだが、バシバシ写真を撮るなんていう実録を気取った場面はいっさい出てこず、けっこう暇だったので、一緒に出演した自分のお気に入りの女優マグダレーナ・モンテツーマとふたりで、アンチテアーターのみなさんの諍いを面白がって眺めていたそうである[*19]




本編

シュレーター談のグーフィー君と一寸ヴィリーにまつわる女装、じゃなかった序奏[*20]に引き続き、本編のはじまり、はじまり。
とはいっても、この映画、これといったストーリーがあるわけでもなく。スケッチのような情景が積み重ねられていく群像劇。このような情景素描の連続のような映画の筋を記すのは愚かしいことなのではないかとの疑念に襲われ、ここで記すのをやめようかとも思ったが、ミケに「書きなさい!」と一喝されたので、しかたなく先をつづけることにしよう。
登場人物は映画の撮影チームのみなさん+アルファ。人間関係は込み入り、チームの面々はだらだらして、なにやら倦怠感の漂うなか、製作資金が底をつきかねない切羽詰まった状況、現場の牽引者たる監督と製作主任は叫んでばかり。そうこうするうちに、ようやく撮影がはじまるのだが、監督ファスビンダーがやる気満々で撮ったというこの映画、劇中の監督がこんな映画は撮りたくないと言いつづける映画でもある。
撮影はゲーテ、ニーチェ、ヴァーグナーを賛嘆させた風光明媚な景勝地、南イタリアのソレントでおこなわれたのだが、観光地的快感は皆無。出てくるとしてもせいぜい明るい陽射しと青々とした背景の地中海くらいのもので、いくつかのシーンを除けば、ほとんどの場面がホテルと撮影セットで繰り広げられ、この映画のリズム感は、おもに移動撮影を多用した映像、そして各シーンの編集カットの力によってもたらされる。
本編ははっきり前半と後半に分かれている。とりあえずは本編の前半の話から。
と、その前に。
どうもファスビンダーは、本当にこの『パン助』をアンチテアーターの締め括り映画として撮っていたようで、過去のアンチテアーター映画への目配せとおぼしきサインがこっそり登場する。まあこのような些細なことを記すのは、あまりにもおこがましいが、とりあえずそれにも触れておこう。
それでは、本編前半の話から。


本編其の一、前半

ここはどこ? そこはホテルのロビーらしきところ。
前半は、撮影開始直前の光景。いくつかの例外を除き、大体はこのロビーに集う撮影チームの面々の姿が描かれていく。
ロビーが地中海だとすると、撮影チームのみなさんは、波止場のようなバーにたむろしたり、散在する離島のように置かれたソファや安楽椅子で寛いだりしながら、それぞればらばらの行動をとっている。
まず映し出されるのは座っているふたりの女性。このふたりは、製作秘書のバブス(マルガレーテ・フォン・トロッタ)とメイク担当のビリー(モーニカ・トイバー/声イングリット・カヴェーン)。バブスはこの映画の素材となった『ホワイティ』では、クレジットにも載っていないほどの末端スタッフだが、本作ではけっこう大きな役割を果たしている。アンチテアーターの部外者であるこのおふたりは、ここに集うグループの解説役となり、男の品定めなどしながら、撮影チームのかなりの部分が仲間内で、共同体で一緒に暮らしている者もいるし、ゲイがすごく多いなどとコメントする。
冒頭でグーフィー君の物語を語ったスチル・カメラマンのダイタース(ヴェルナー・シュレーター)はイルム(マグダレーナ・モンテツーマ/声イルム・ヘルマン)とカップルを組み、ダイタースは本を出したい、出せなければハシシの国際販売組織をつくるなどと狂ったことを言い、英語コーチのマーク(ヘアプ・アンドレス)は、先のバブスのように『ホワイティ』ではノン・クレジットの末端スタッフだが、この『パン助』ではけっこう大きな役柄で、男優リッキー(マルクヴァルト・ボーム)に自分の本拠のローマに来ないかと誘いをかけ、助監督のダーヴィット(ハネス・フックス/声ハリー・ベーア)は、照明作業員のスペイン人の青年(トーマス・シーダー)に労働者革命を説きながら、じつはこのハンサムな若者を口説こうとしている。
というわけでみなさん、これから撮影する映画のことはそっちのけで、ごく私的な興味を追うばかりである。この緩みきった雰囲気にふさわしく、ジュークボックスから流れてくる音楽もスプーキー・トゥースのけだるい「I’ve Got Enough Heartache(心痛でうんざり)」。そのあと流れるのも、もっとけだるいレナード・コーエンの曲。
男が男を探し、女が男を探す合コンじみた空気が漂うなか、映画のことに気をもんでいるのは、撮影現場のマネージャーをつとめている製作担当のザシャ(ファスビンダー)だけ。一緒にいる製作者のマンフレート(カール・シャイト)は頼りにならない。製作担当ザシャは、本作における叫び人第一号で、彼は金策に追われてわめき、フィルム調達の件で怒号を発し、現場の下僕的存在の製作進行係コルビーニアン(ウリ・ロンメル)に八つ当たりする。
ちなみにザシャ役のファスビンダーとマンフレート役のカール・シャイトの製作コンビは、白いスーツを着用している。これはひょっとして? いや、ひょっとしなくても、このふたりがかつて演じた『アメリカの兵隊』のギャングの姿そっくりで、このいでたちは『アメリカの兵隊』へのひっかけなのだろう。
この場の緩んだ雰囲気が変わり、キンチョールならぬ緊張がはしるのは、監督ジェフから電話がかかってきたときだ。カメラは、男優リッキー、助監督ダーヴィット、イルムの三人にわざとらしくズームし、この三人が監督ジェフと特別な関係を持っているらしきことが暗示される。
映画開始後17分を経て、ようやく舞台はホテルのロビーを離れ、場所はヘリポート。到着したヘリコプターからふたりの男が降りてくる。これが監督ジェフ(ルー・カステル)と外国人スターのエディ(エディ・コンスタンティーヌ)。ファスビンダーのアルター・エゴたる監督ジェフ役のルー・カステルは、ファスビンダーのトレードマークたる皮ジャンを着用、映画を通じてずっと苦虫を噛みつぶしたような不機嫌な顔をしている。ちなみにこの監督ジェフ、25歳にして立派な肥満体となったファスビンダーとはちがって、きわめてスマートな体形である。
さらに舞台は、邸宅という設定になっている撮影セットに移り、それを一目見た監督ジェフは、こんなのは邸宅じゃない、こんなあばら家で撮れるかぁ~、おまえら映画の作り方も知らない幼稚園児だぁ~、などと叫びまくる。
こうして叫びの監督ジェフが登場。叫びの製作担当ザシャにつづき、本作の叫び人第二号の出現となる。と同時に映画のことを一番気にかけているのは、このふたりでもある。
舞台はふたたびホテルのロビー。監督ジェフは、ロビーに入場、男優リッキーと目を合わせるものの、わざと彼を無視する。ふたりはきわめて複雑な関係らしい。このシーンに同伴する音楽は、『ニクラスハウゼンの旅』に使われたペーア・ラーベンの「キリエ・エレイゾン」の流用。これは『ニクラスハウゼン』へのひっかけなのか? それとも現場労働者に革命を説く助監督ダーヴィットのほうが『ニクラスハウゼン』のひっかけなのか? といったことは、本作の本質とはまったく関係ないことなのでとりあえず無視しよう。
さてジェフは製作者マンフレートの部屋に行き、セットの件で文句つけ、ドイツのフィルムが手に入らないことを知ると、現地調達のスペインのフィルムなんかじゃ撮れないと民族差別発言。要するにこの監督、この映画を撮りたくないのである。
つづくテラス・レストランのシーンでも差別に関連するシーンがでてくる。女優ハナ(ハナ・シグラ)、助監督ダーヴィット、英語コーチの三人がテーブルを囲んでいるのだが、ローマから来たという英語コーチはイングリッシュ訛りで、「君たちドイツからやってきたんだろ、ぼくなんか劣等人種だ、君ら優等人種にとっちゃ黒人みたいなもんだろ、だってぼくはいつも仲間外れだ」と嘆き、沈黙が走る。ところがこの英語コーチに扮するヘアプ・アンドレスは「優等人種」を絵にかいたような金髪碧眼。本人もじつはオーストリア・ドイツ人で、髪が黒く色黒の助監督ダーヴィットの何千倍もステレオタイプの「優等人種」っぽい。この映画、じつは語られる台詞の信憑性を疑わせるシーンが、そこかしこに出てくるのだ。これは図ったものだろう。
このテラス・レストランには、スターのエディも別のテーブルに座っている。マリリン・モンロー風のハナは、エディの表情の物真似をしながらも(ハナの物真似はへたなコメディアンよりずっと可笑しい)、エディに熱い視線を送り、今後の展開がなんとなく予想できる。
監督ジェフの部屋では、ジェフと男優リッキーが寝たのだが、うまくいかなかった様子。さきほどジェフは、自分が恋するリッキーにわざと冷たい態度をとって不安にさせ、それで自分のベッドに誘い込んだということだろう。けっきょく監督のやっていることも、みんなとそう変わらない。
場面は、前半の本舞台たるホテルのロビーに回帰し、今回は25分以上にわたる長いシーン、前半の大詰めのような部分である。
クライマックスは、監督ジェフとイルムの愛憎劇。これはもちろんファスビンダーとイルム・ヘルマンの関係をもとにしたもの。
酔ったとおぼしきイルムが、ジェフに抱きついてキスを要求するが、ジェフはこれを拒否。しつこく迫るイルムに平手打ちを食らわせるのだが、イルムは「ジェフはわたしを半殺しにした。みんな見たでしょ。ひどい奴だわ。どうなるか見てらっしゃいよ」とキンキンわめく。イルムは約束のギャラを要求するのだが、ジェフは拒否。彼女は「こんな奴のために四年も働いてきたのよ。こいつ、わたしがいなけりゃ、もう飢え死にしていたところだわ。わたしと結婚するって約束したのよ、子供もつくるって言ったのよ。だから、こいつのために働きつづけたけど、それを信じたわたしが馬鹿だった」などと恨み辛みを吐き出すと、今度はジェフの連続ビンタを食らい、彼女は泣き崩れ、ジェフはイルムが現場にいるかぎり映画を撮らないと言い張る。
映像でこのイルムに扮しているのはマグダレーナ・モンテツーマだが、アフレコ音声でイルムを演じているのは、イルム・ヘルマンご本人。イルム・ヘルマン特有の神経を逆撫でするような甲高い声で、ここまでファスビンダーの台本通りにファスビンダーが見た自分の姿を演じているのだ。それだけでもすごい。
こうしてその場に気まずい雰囲気が漂うのだが、だれも助けようとも介入しようともしない。このロビーにはむなしく空虚な空気が漂っている。みなさん物理的にはここに集まっているのに空虚だ。ぽっかり穴のあいた心のようにガランとしている。
そこにミヒャエル・バルハウスをモデルにした撮影担当のマイク(ジャンニ・ディ・ルイージ)が登場、クールなマイクは内輪グループの部外者で、ジェフに翌日の撮影について尋ねる。ジェフはマイクに撮影のコンセプトを伝え、「ゆっくりした長回しのシーンにしたい。ぱっぱと画面が変わっていったら、観客は今観ているものがなんなのか考える暇もない」などと長々と説明するのだが、それはこの映画の基本原則でもあり、ファスビンダー映画の基本コンセプトでもある。ふたりはゆっくりホールを一巡、それをカメラはノーカットでふたりの歩みにあわせて追っていく。こうしてぱっぱと画面がかわることはなく、まさしくジェフが所望したとおりのゆっくりした長回しシーンとなり、ここでは会話の内容とカメラワークが同期しているのだ。
そのあとは、幸せを呼ぶ徴とされるグラス投げの饗宴。とはいっても、ここではグラス投げは幸せの徴ではなく、不幸の発散の徴。狙っていたスペイン人の若者をメイク担当のビリーにとられたダーヴィットは、グラスを投げて憂さをはらし、女優ハナに振られた英語コーチも、グラスを投げて憂さをはらし、そのうえ自分が投げたグラスの破片で手に怪我をしながら、よろよろと去っていく。ジェフもグラスを投げつける。
みなさんが全編を通じて飲んでいるカクテルは、ラムをコーラで割った「キューバ・リブレ」。これから撮ろうとしている映画の題名も、キューバ革命の標語にちなむ「パトリア・オ・ムエルテ(祖国か死か)」。
みんなが徐々に去っていき、今やロビーのバーにたむろしているのは監督ジェフ、助監督ダーヴィット、男優リッキー、それに眠れなくてロビーにやってきた美術担当フレートの内輪組四人男だけ。
そしてカメラは、空虚でガランとしたロビーをゆっくりと一巡する。さっき、監督ジェフと撮影担当マイクが話しながらロビーを一巡した映像と同じ撮り方だ。だが今回は話し声もなく、しんとしている。聞こえるのは海の波音だけ。
物言わぬ海の波止場のようなバーにたむろしている四人の男も言葉少ない。口に出す言葉もほとんど独り言のようなものだ。
男優リッキーが「俺は自分のやり方でジェフを愛している」と言い訳じみたことを口走ると、ジェフはリッキーに当てつけ、フランス語で「ラムール・エ・プリュ・フロワ・ク・ラ・モール」と言う。それに対する反応があろうとなかろうと、これもけっきょく独り言なのだ。これはもちろん「愛は死より冷酷」の意、アンチテアーター映画第一作『愛は死より冷酷』にひっかけたもの。
この沈みきった空気を打破せんと、美術担当のフレートが景気づけに歌おうと言い出し、聖歌「いずこに向かえばいいのか」を先唱、みんなで唱和する。
この歌、どこかで聞いたことがあると思いきや、これはフレートに扮するクルト・ラープの初主演作『何故R氏は発作的に人を殺したか』に出てきた聖歌ではないか。ここで非ファスビンダー映画ながらも、れっきとしたアンチテアーター映画『R氏』の追想が顔を出すわけだが(『R氏』がいかに非ファスビンダー映画かは、本シリーズ其の十三をご覧いただきたい)、神に救いを求めるこの聖歌合唱もいっさい救いをもたらさず、歌が終わると、また沈黙が訪れる。聞こえるのは海の波音だけ。どうしようもなく空しい空気が漂う。
けっきょくのところ、この前半部分はこの空しい心の情景にまつわるものなのだ。


本編其の二、後半

ここはどこ? そこは映画の撮影セットらしきところ。
いくつかのシーンを除き、後半はこの撮影セットを中心に繰り広げられる。
冒頭から流れるような三分間にわたる長回しの移動映像である。ミケも思わず「これ、見事だわ!」と感嘆の声をあげた。
セットに出入りしたり、そのなかを動きまわったりする人物をノーカットでリレーのように次々に追いかけていくこの流麗な映像、配置も演技もカメラワークも計算されつくしたもので、初顔合わせの『ホワイティ』で萌芽していた監督ファスビンダーと撮影のミヒャエル・バルハウスの共同作業の結実である。
監督ジェフのほうは、製作秘書バブスを連れてオープンカーでドライヴ。これは『悪の神々』のオープンカー走行を想起させるシーンで、ジェフはバブスに「一緒にペルーに行こう」と誘いをかけ、この台詞はあからさまにペルー宝探しメルヘン『リオ・ダス・モルテス』をほのめかし、ぺーア・ラーベンの音楽は『ホワイティ』からの流用。というわけで、これは三つのアンチテアーター映画が一挙に追想されるトリプル・リメンバラス・シーンである。ジェフはバブスに結婚しようとまで言い、バブスはそれを本気では受けとめないのだが[*21]。この男、どうも手あたり次第プロポーズしているようで、あとでメイク担当のビリーにも「一緒に南米に行こう、結婚しよう」と同じ誘いをかけ、こんな男の言葉を信じたイルムは本当に馬鹿だったということになる。
当のイルムは、音楽同伴するドニゼッティのアリアのヴィブラートと共振するかのように揺れる波間のボートで撮影現場から強制退去させられ、また長い撮影セットの場面に戻る。とはいっても今回は、後半冒頭の流れるようなノーカット長回し映像とは異なり、短めの移動映像を積み重ねたもので、撮影直前の慌ただしく緊張した雰囲気とリズムが醸し出される。
現場で叫んでいるのは相変わらず製作担当ザシャと監督ジェフの叫び人デュオだ。ザシャは、ジェフと勝手にドライヴに行っていた自分の秘書バブスに怒り、ジェフは酔っぱらって寝こんでいた英語コーチに怒り、指示を仰ごうと撮影用レールを敷いていなかった撮影担当のマイクに怒り、だらだらしている通訳にも怒りの叫びを発する。
そうこうするうちに『出稼ぎ野郎』のひっかけかとおぼしきシーンも登場する。製作者の妻マーグレート(マルチェッラ・ミケランジェーリ/声カトリン・シャーケ)が、テラス・レストランでスペイン人のウェイターを呼び、このウェイターがドイツ語がわからないことをいいことに外国人差別的な罵詈雑言を浴びせかける場面で、これは『出稼ぎ野郎』で目の前のギリシア人労働者がドイツ語がよくわからないことをいいことに、地元の若者がおぞましいことを言う場面に似ているのだが、思い過ごしの可能性もあるので、とりあえず無視しよう。
それにしても、みなさん幸せではなさそうである。監督ジェフは、この映画を撮りたくないとばかり言っているし、男優リッキーは、「あいつがお陀仏になるまで心の平穏を得られないと思う」と独り言を繰り返し(「あいつ」とは監督ジェフのことなのか?)、製作担当ザシャは自分の秘書バブスに男ができたことで泣き、下僕のような撮影進行係コルビーニアンは、自分は抑圧されているほうが楽しいなどとマゾヒスティックな発言をし、美術担当のフレートは、自分は不幸だけどどうして不幸なのか自分でもわからないと言う。
そんななかで女優ハナは、監督ジェフの理解者にして擁護者だ。ハナは、スターのエディと懇ろになっているのだが、こんな素人じみた撮影にはつきあってられんと不満を口にするエディに対し、ジェフの才能や長所をあげて彼をかばうし、ここで渦巻いている依存や不安の根についてジェフと話を交わすのもハナだけである。
後半の白眉のひとつは、監督ジェフの不満が爆発するシーンだ。出演者・スタッフが見守るなか、ジェフは床に座り込んでじたばたし、撮影チームのみなさんに対する不満をぶちまけ、
「みんな、とっとと失せろ! お前らの顔なんか、もう見たくもない。お前ら、俺を食いものにするひどい奴らだ。お前らなんか嫌いだ、みんな嫌いだ。お前らみんな、俺を食いものにするくせに、必要があれば、俺にすがってきて、俺になんでも押しつけるんだから。俺をお陀仏にしたいのか、ひどい奴らだ。コルビーニアン! キューバ・リブレを10杯持ってこ~い。わかったかぁ~」
などと叫ぶ。
ところが、別のシーンでハナが言ったように、ジェフ本人がみんなが自分に依存するように仕向けているのだ。だから、ほかのみんなから見ればジェフに依存を強いられ、ジェフのいいようにされている、かたやジェフから見れば自分が食いものにされているということになる。どうしようもない。でもよくあることだ。
このシーンを観ていたミケは、こんな感想をもらした。
「なにこれ! すごいわねぇ。ママ、これ買ってぇぇ~!って、子供が駄々をこねているような感じだわ。可笑しいけど、笑っていいのかどうかわからなくなるわね。こういう真剣な場面なのに可笑しいものに撮れてしまうっていうのは、さすがファスビンダーさんだわ」
そのとおりである。以来このシーンは、わたしたちのあいだで「監督駄々っ子シーン」として語り草となった。
そのあとスケッチのような短いシーンが次々と積み重ねられ、映画のテンポはもっと速くなるが、速くなったからと言って各シーンのカメラは不動なので扇動性は皆無、そのうえカットを遅くしてあるので、余韻が残る。
こうして、音楽は皆無ながらもリズム感のある編集カットによって綴られる個別スケッチが連続したあと、ようやくジュークボックス・ミュージックに伴われた長めの群像シーンが出てくる。それは海辺の展望テラスのパーティ場面、同伴する音楽は、レイ・チャールズの「Let’s Get Go Stoned(酔いつぶれようぜ)」。
「酔いつぶれようぜ」とばかりジェフは酒をがぶ飲みし、リッキーと叫び合い、フレートは女装してメイク担当のビリーにおめかししてもらい、ハナはひとり踊り、スターのエディ・コンスタンティーヌは、イタリアのスター、ロッサノ・ブラッツィご本人と話を交わしている。そこに製作秘書のバブスが登場、イルムと同じようにジェフのビンタを食らい、バブスは連れの新しいボーイフレンド(ミヒャエル・フェングラー)に食ってかかり、「なんでジェフを殺さなかったのよ!」と無理難題をふっかけて絶叫、ジェフはジェフで別の男にぶん殴られてぶっ倒れ、リッキーはしばしジェフを介抱するのだが、そのうちハナと踊りはじめる。飲酒、絶叫、踊り、会話、おめかし、暴力などが混然一体となったこのお騒がせ「酔いつぶれようぜ」シーン、ここでもカメラは騒ぐことなく不動の姿勢を保ったまま。だから登場人物が騒いでも、映画が騒ぐことはない。
そうこうするうちにセットでは、監督ジェフがみなさんの自発性のない態度に業を煮やして独裁宣言じみたものをし、「みんな、俺の望むどおりにやってくれ。移動撮影のレールをここに置けって言ったら、そこだけに置け。わかったか。俺だって映画が何かってことを学ばなくちゃならなかったんだ。おまえら、なんでも苦もなくできると思ってるんじゃないのか? もう耐えられない。自分の頭で考えみろよ。自分の頭で考えるっていうのは、そんなに難しいことじゃないだろ」などと叫び、突っ伏するのだが、だれにも相手にされず絶望した様子。次のシーンでは、ザシャがジェフに「俺が認めるのは、絶望だけだ」と言う。
監督ジェフは記者(ペーター・ガウエ)の取材を受け、ジェフの写真も載っているという新聞を記者からもらい、記事を声に出して読みはじめるのだが、読んでいるのは自分の記事ならぬ、性犯罪者の逮捕記事。これがどういう絡みなのか、それとも絡みがないのか、それともまたまた台詞の信憑性剥奪の一例なのか、あるいは含みのあるジョークの一種なのかは突きとめようがないので、とりあえず棚上げにしておこうと思うし、棚上げしておいたほうがよさそうである[*22]
ジェフがこの記事を読んでいるうちに、まわりにいたチームのみなさんも記者もひとり、またひとり去っていき、監督ジェフは独裁者にふさわしく、ひとりっきりになってしまう。
その裏でドニゼッティのオペラ『ロベルト・デヴェリュー』のアリア「生きよ、不実の人よ」が流れはじめ、音楽が本格的にモーションしはじめる[*23]。音楽がモーションしはじめると、本作開始以来はじめて映画撮影シーンに以降。それまで不動だったカメラも流れるような移動映像でモーションしはじめ、音楽とカメラがモーションしはじめると、映画のエモーションもモーションしはじめる。
カチンコが映し出され、殺し屋エディが入場、カトリン(カトリン・シャーケ)殺害とつづき、そのあと殺されたカトリンは起き上がってエディと和気あいあいと抱き合い、今度はベッドに横たわるエディ、ハナ、リッキーのトリオ・シーンとなり、撮り終わるとみなも和気あいあい、聞こえるのは音楽だけという無声映画状態。それにしても聞こえてくるアリアの題名「生きよ、不実の人よ」とは映画そのもののことなのか?
最後に壁を前にエディ、ハナ、ジェフ、ダーヴィット、ザシャの五人が並び、ハナが「これ、すごく美しいものになるわよ」と言うと、うつむいていたジェフが顔をあげ、「これがお陀仏になれば、心の平穏を得られると思う」[*24] と最後まで「聖なるパン助」、すなわち自分のオブセッションたる映画に対する錯綜した気持ちをあらわにする。
そしてトーマス・マンのお言葉が文字画面で映し出される。こんな文句だ。
「人間的なものに関わらないまま人間的なものを表現するのに、死ぬほど疲れることがよくあると言いたいのです」
これはトーマス・マンの芸術家小説『トーニオ・クレーガー』の一節、主人公トーニオがお友だちの画家リザヴェータ・イヴァーノヴナに語る言葉だ[*25]
こうしてマンの言葉どおり、ファスビンダーはアンチテアーター消滅後、それまでのギャング物をはじめとする内輪のシネマニアックな映画から一挙転換、人間的なものに関わる人間的な「市井の人々」を取り上げた映画をつくっていくことになる。
ファスビンダーの言葉を借りよう。
「『パン助』が実質上最後のアンチテアーター映画です。そのあとの映画も、そうおっしゃりたければ、 もちろん自伝的です。ただ、そのあいだに一年ほど空いているせいもあって、つまり(…)一年近くぼくが映画をつくらなかったせいもあって、自伝的なことをオナニーっぽく自己目的化するんじゃなく、自分のことを語るにももっと一般性のあるかたちで語るやり方を見つけたんですよ。つまり、まわりの世界との関係のなかで自分を見るようになったんです。自分自身や友だちとの関係のなかだけじゃなくてね。で、これがぼくの思うところ、アンチテアーター映画とそのあとの映画の決定的な違いなんです(…)」[*26]
ここで終わりにしよう。
ここで終わりにしようと思ったところ、それまで無言だったミケがこんな言葉を発した。
「それにしても、まったくどうしようもない原稿だわね。こんなの読むくらいなら映画を直接観たほうがいいわ。でも、この映画を特殊な人たちのお話って捉えているかぎり、そこから得られるものはあまりないわね」
そのとおりである。




付表1)a

*声の出演者のうち、カトリン・シャーケ、ハリー・ベーア、イングリット・カヴェーンは別の役柄で『パン助』に登場、その姿を見せている。この映画の撮影に記録担当として参加していたカトリン・シャーケは、そのまま劇中の記録担当カトリンを演じ、イングリット・カヴェーンはエキストラ志望者、ハリー・ベーアはその夫に扮している。いずれも声は本人。



付表1)b
なし





1 Kluge Etymologisches Wörterbuch der deutschen Sprache. 23. Auflage.Berlin 1995 S.594.ファスビンダーの長編第一作『愛は死より冷酷』のラストで、警察にたれこんだ裏切者のヒロイン、ハナ・シグラに対し発せられる言葉もこの「Nutte(ヌッテ)」の一語である
2 Michael Töteberg (Hg.): Fassbinders Filme 2. Frankfurt am Main 1990. S.253f.
3 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『ファスビンダー、ファスビンダーを語る』第二・三巻、boid (2015)、92頁
4 前掲書108頁
5 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『映画は頭を解放する』勁草書房(1998)、161頁;『ファスビンダー、ファスビンダーを語る』第二・三巻、438頁。いっぽう、ファスビンダーが美しい自作として繰り返し挙げている唯一のアンチテアーター映画は『悪の神々』
6 『ファスビンダー、ファスビンダーを語る』第二・三巻、221頁
7 前掲書221頁
8 Werner Schroeter: Tage im Dämmer, Nächte im Rausch. Berlin 2011, S.79
9 Michael Ballhaus: Bilder im Kopf. München 2014, S.82
10 Töteberg前掲書S.253
11 Ballhaus前掲書S.82
12 Peter Berling: Die 13 Jahre des Rainer Werner Fassbinder. Überarbeitete Taschenausgabe. Bergisch Gladbach 1995, S.135ff. & Abb.16 „Ein Drehplan“; Harry Baer: Schlafen kann ich, wenn ich tot bin. Köln 1982, S.65f.
13 Ballhaus前掲書 S.82f.
14 Christian Braad Thomsen: Rainer Werner Fassbinder. Hamburg 1993, S.130
15 Juliane Lorenz (Hg.): Das ganz normale Chaos. Berlin 1995, S.78f.
16 Theodor Fontane: Effi Briest. 9. Auflage. München 2004, S.11
17 Berling 前掲書S.142
18 ファスビンダー『映画は頭を解放する』95-101頁に収録されたエッセイ「懸垂、倒立、宙返り―着地成功」を参照されたい
19 Schroeter 前掲書S.80
20 完璧な脚本が用意されていたというこの映画、この序の部分だけはシュレーターの即興だったそうである(Schroeter前掲書S.80)
21 この映画でバブス役として監督ジェフにプロポーズされるマルガレーテ・フォン・トロッタの回想によると、トロッタは本当にファスビンダーに結婚を申し込まれたことがあるそうである。もっともトロッタ自身はこのプロポーズを真に受けなかったそうだが(Lorenz 前掲書S.240)
22 テーテベルク編のファスビンダー脚本集(Töteberg前掲書S.236)でも米ウェルスプリング社のDVDの英語字幕でも、この新聞記事の性犯罪者の名はヨーゼフ・K(Josef/Joseph K.)となっているが、映画でははっきりギュンター・K(Günther K.)と発音されている。というわけで、すぐさま想像されがちなカフカの『審判』の主人公ヨーゼフ・Kとは関係がなく、ひょっとするとギュンター・Kとはギュンター・カウフマンにひっかけたジョークなのか?といったことは、映画の本質と関わる問題ではないのでとりあえず無視しよう
23 ファスビンダーは、このドニゼッティの『ロベルト・デヴェリュー』を自分のフェイヴァリット・オペラ10選のひとつに挙げている(Rainer Werner Fassbinder: The Anarchie of the Imagination. Baltimore; London 1992, p.107)。音源は、当時発売されたばかりだったビヴァリー・シルズ/チャールズ・マッケラスによる録音。これはわたしの記憶に間違いなければ、今もってこのオペラ唯一のスタジオ録音全曲盤のはず。間違っているかもしれないが
24 この「これがお陀仏になれば、心の平穏を得られると思う」という台詞、米ウェルスプリング社のDVD英語字幕は、主語が「これ」ではなくドイツ語のErを直訳した「彼(He)」なっているが、この言はハナがその前に言うDer(=Der Film 映画)を受けたものだ。というわけでたぶんこの英語字幕は間違いで、「これ(It)」と訳すべきだろう。本邦公開版の日本語字幕がどうなっているかは観たことがないのでわからないが。ちなみにこの台詞は、以前の場面で男優リッキーが独り言として語る「あいつ(Er)がお陀仏になれば、心の平穏を得られると思う」の再現で、リッキーの場合は、Erが監督ジェフを指している可能性が高い。ただし代名詞表現で曖昧なため、観ている者の解釈に任される
25 Thomas Mann: Tonio Kröger. Frankfurt am Main. 1973, 49.Auflage 2016, S. 32.
トーマス・マンの『トーニオ・クレーガー』には、主人公のトーニオが学校時代、ハンサムな同性の級友ハンス・ハンゼンにひそかに恋し、「愛が強いものが弱い立場になり、苦しまなくてはならないのだ」との下りが出てくる(S.9)。これもファスビンダーの一大テーマとなる一節だ
26 『ファスビンダー、ファスビンダーを語る』、第二・三巻、92頁





明石政紀(Masanori Akashi)
著書に『ベルリン音楽異聞』、『ポップ・ミュージックとしてのベートーヴェン』、『キューブリック映画の音楽的世界』、『フリッツ・ラング』、『ドイツのロック音楽』、『第三帝国と音楽』、訳書にファスビンダー『ファスビンダー、ファスビンダーを語る』全3巻および『映画は頭を解放する』、ボーングレーバー『ベルリン・デザイン・ハンドブックはデザインの本ではない』、ヴァイスヴァイラー『オットー・クレンペラー』、サーク/ハリデイ『サーク・オン・サーク』、ケイター『第三帝国と音楽家たち』ほか。賞罰なし。

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