boidマガジン

2018年09月号

樋口泰人の妄想映画日記 その78

2018年09月11日 21:44 by boid

boid社長・樋口泰人による妄想映画日記は8月の前半をお届けします。『教誨師』(監督:佐向大)、『テル・ミー・ライズ』(監督:ピーター・ブルック)、『アンダー・ザ・シルバーレイク』(監督:デヴィッド・ロバート・ミッチェル)などを鑑賞。そしてついにタイよりクン・ナリンズ・エレクトリック・ピンバンドの来日ライヴと「YCAM爆音映画祭2018」の夏です。




文・写真=樋口泰人


まだまだずっと先と思っていたクン・ナリンズ・エレクトリック・ピン・バンドのライヴが現実になってしまった8月。何だろう、あの感じ。おそらくCDなどで音だけ聴いたら、60年代70年代のサーフロックバンド、くらいにしか思わないかもしれない。だがやはり全然違う。ギターとピンの音色は限りなく似ているが決定的に違う、ということなのか。単純に彼らの生活のスタイルが音ににじみ出てしまっているということなのか。おそらくその両方なのだろうが、とにかくご機嫌すぎた。実現までは大変だったし、助成金をもらっても儲かるわけではないので、今後のboidの運営を考えると青ざめるが、ただそれでもこれで当分生きていける。
と、そんな感じで8月が終わってしまった。かつてない夏だった。なんだろう。地に足のつかない1か月。今後もずっとそのままな気がする。もうこれでいいとどこかで思ってもいる。

 

8月1日(水)
佐向大『教誨師』。図らずも大杉漣さんの遺作となってしまった。だがこれは死ぬ。これはたまらない。そんなことをまず思わせるような映画だった。おそらく無茶苦茶低予算の企画で、9割がたのシーンが刑務所内の対話室のような場所での死刑囚と教誨師との対話である。室外に出るのはほんの数シーン。そこでの教誨師は自ら何かする人ではなく、死刑囚たちの話を聞く人である。バカな話、無茶な話、怖い話、誰にも言えない話。何人かの死刑囚が順番に繰り返し登場して教誨師に向かって語り掛け、ある時は泣き出し、怒り出す。それに対して教誨師はどんな反応をするのかと思うと、ただただそれらを受け止めるだけである。彼の中にあらゆる死刑囚の、死を前にした人間たちの取り返せない過去や、中断されてしまうはずの未来からの声を、身体の中にため込んでいく。死刑囚たちも本気である。観ているうちに彼らが実在する(した)人物のように見えてくる。映画なので当然架空の人物であるはずなのだが、それぞれのキャラクターとして存在する彼らが今ここで話し始めているような、そんな危ない現実感が生まれる。それぞれに扮した俳優たちも、本気で命を懸けての言葉を絞り出している気がしてくる不思議。演出とか演技とかそういったこととも違う奇妙なリアリティがじわじわと身体を侵食する。微妙に変わりゆくカメラと対象との距離、死刑囚と教誨師との位置関係、室外の音、光、そして彼らのちょっとした動き。それらと言葉とがセットになって、教誨師に襲い掛かる。これはまずい。シルヴェスター・スタローンでもサミュエル・L・ジャクソンでもない大杉漣は、ただひたすらそれに耐えるばかりである。

教誨師
2018年 / 日本 / 114分 / 監督・脚本:佐向大 / 撮影:山田達也 / 録音・整音:山本タカアキ / 出演:大杉漣、玉置玲央、烏丸せつこ、五頭岳夫、小川登、ほか
(C)「教誨師」members
10月6日より、有楽町スバル座、池袋シネマ・ロサほか全国順次公開
公式サイト



8月2日(木)
『テル・ミー・ライズ』。ピーター・ブルックの68年作品。カンヌ出品で上映中止というのがキャッチコピーのように使われているのだが、これは単にカンヌ自体が中止になったからで、ただ、当時のそういった空気を目いっぱいに吸い込んだ映画であることは確かである。だが今観ると、いわゆる「映画」の枠を壊しながら進むラディアルな映画に見えつつ、基本的にはただ当時の革新的な演劇を観ているような、その意味で映画の先祖返りのような保守的な作品のようにも思えた。
試写開場で会った荻野と帰りがけにお茶。久々に長話をした。こういう時間を失って久しい。
帰宅後、アラン・ヴェガの遺作となったアルバムを聴いた。死後に発売されたものなはずだ。聴いていなかったのだ。だが今聴いてよかった。アラン・ヴェガには結局最後までスーサイドのファースト・アルバムのようなものを期待し続けてしまっていたのだが、そうではない、あれから40年近くがたったアラン・ヴェガのアルバムをようやく聴けた気がした。50年代のスウィートな想い出とそれが描く未来と、そしてそれから20年が過ぎた現実が示す行き詰まりの未来とが1曲の中に渦巻き身もだえするのではなく、もはやここにしかない現実を見つめ足元の震えをそのまま音にして過去も未来もそこに引き寄せる歌が、そこにあった。




8月3日(金)
『アンダー・ザ・シルバーレイク』。デヴィッド・ロバート・ミッチェルの新作というのでいち早く試写に。いや、とんでもなかった。観終わった後、ツイッターにあれこれ書き込んだのだが、書き込んだ時点でどんどん記憶が薄れていく自分の脳の構造が恨めしい。カンヌで賛否両論という話なのだが、まあ、それはそうだ。よくこのような映画が出来上がったと思う。まったくの個人映画とジャンル映画とが奇妙すぎる形で浸透しあい、しかしただひたすら映画でしかないものに変容している。さまざまな映画の記憶の渦の中を、いくつもの想い出とあり得るかもしれない未来を抱え、アンドリュー・ガーフィールドがだらしなく歩き、走る。その目くるめく時間の中で、われわれの映画の記憶や人生の想い出が新たな物語を語り始める。ヒッチコックとリンチが融合した、悪夢版『ラ・ラ・ランド』だというコピーが予告編には流れているが、この映画に似通った映画を1本挙げろと問われたら、わたしは、ウェイン・ワンの『スラムダンス』を挙げるかもしれない。




8月4日(土)
『人間機械』上映中のユーロスペースにて、中原とトーク。何度観てもつかみどころのない映画だ。映画の終わりに「すべてのインドの労働者に捧げる」というようなメッセージが出るのだが、たとえこれが本心だとしても、撮影しに行った工場の各所に100本ほどのマイクを仕込むという欲望は一体どこから生まれてきたのだろうか。ドルビー・アトモスの上映データもあるという。つまりそれくらいの音が響く場所で、そこに映る労働者たちは働いているということでもあるのだが、その環境の酷さをこれ見よがしに訴えるのではなく、その音響そのものに心惹かれてしまう「部外者」としての自身を隠そうともしない。そしてその廃液まみれの工場からは、美しい布が生まれる。もちろんその矛盾に対する苦悩もない。労働者たちも斡旋業者も工場のオーナーも、それぞれが一方的な意見を言う。
一方で、こういった労働の風景は、かつてのアメリカ映画では当たり前のように観られたものでもある。もちろんそれが物語のテーマではなかったが、主人公たちが働く工場や工事現場の風景や騒音が、彼らの物語を生み出すベースになっていた。近年のアメリカ映画でそのようなシーンを観ることは少なくなってしまったが、昨年公開された『バーニング・オーシャン』では、久々に油まみれの労働者たちの姿を見ることができた。

 



8月5日(日)
記憶なし。



8月6日(月)
大阪へ。梅田のクラブクアトロにて、2日間の『ダーク・スター』『ゼイリブ』爆音。『ダーク・スター』は何年か前の恵比寿映像祭でやって以来で、あの時はフィルムでやったのではなかったか。今回はブルーレイ。映像祭のときはセリフの聞き取りにくさや上下の音が圧縮されたような伸びのない音をどうするか苦労した記憶が残っていたのだが、デジタル化の際にそれらはだいぶ改善されていた。すると背景に沈んでいた奇妙なコンピュータサウンドが浮き立ってきて、「珍品」具合に拍車がかかる。あの風船が活躍し始める頃には大爆笑である。こんな映画を平気で作ることのできる態度を「若さ」と呼べばいいのか。だとすると誰の中にもおそらくいつまでもそれはある。そんなことを思わせてくれる。
『ゼイリブ』は圧巻であった。映画館よりライヴハウス向きではないかとさえ思った。昨年の『悪魔のいけにえ』をクアトロでやった時も思ったのだが、まだ映画の音が繊細に分離していない頃の映画の、身体のど真ん中にくるズドンとした音をここでまとめて上映したい。『デス・プルーフ』なんかもきっと面白いだろう。
夕食を食いに出たら、「焼肉寿司」というのを見かけた。多分以前からあって何度も目にしていたのだが、この日はなぜかやたらと気になった。

 



8月7日(火)
クアトロ2日目。昼はなんばパークスに行ってみた。ごちゃごちゃしたなんばしか知らなかったので驚いた。『PARKS パークス』公開時に大阪ではここで上映してもらったらどうかという話も出ていたのだが、やってもらっていたらどうだったのだろう。




8月8日(水)
山口へ。YCAM爆音の告知活動。ラジオ出演と新聞取材を受ける。普段やっていること考えていることを話せばいいので楽しい。その言葉がまた、日常の活動に返ってくる。夜はその日YCAMで行なっていた『不思議の国のアリス』の公演を観た。全体を貫く太い流れではなく、それぞれの細部と小さな声の集積が小さくて強い物語を生み出していく。後から知ったのだが、ロロの三浦さんの脚本だった。
YCAMの応接室に消しゴムが浮いていた。




8月9日(木)
山口はご機嫌な夏休みの風景である。
15日に行うクン・ナリンズ・エレクトリック・ピン・バンドのライヴの進行や機材の詳細の打ち合わせ、17日の爆音バックステージ・ツアーの打ち合わせなど。結局ピン・バンドのライヴではトラメガを使用して機材を台車に乗せ、外の公園も練り歩くことになった。無理を承知でお願いしていたのだが、無理が通ってしまうYCAMの底力。



そして一足先に三宅唱『ワイルドツアー』を観させてもらった。人との別れがすなわち「死」であるしかない年齢になってしまった自分に、人との別れがまだ「距離」だったころの切ない感情を思い出させてくれた映画だった。そしてその「距離」がいろんな形で示される映画でもあった。
立ち位置、座る位置、スマホと撮影対象、撮影された対象を見る自分。遠くても近くても絶対に越えられない距離があることを、撮影された対象を見る主人公たちの顔と撮影された対象とのオーバーラップが示してくれた。それは重ねられるだけである。越えるのでも繋ぐのでもない。
スマホが従来の通信機能を放棄して、ひたすらその距離を示す撮影機器として登場していた。最後に流れるマーチ(?)は、越えられない距離の中へと踏み出していく彼らの姿を見事に示していた。『レディ・プレイヤー1』と一緒に観たい。

『ワイルドツアー』メインビジュアル
撮影:ホンマタカシ

というようなことをツイッターに書いた。この映画の元にもなった『ワールドツアー』とは当然のように、タイトルも含め浸透しあっているのだが、『きみの鳥はうたえる』の3人ともこの映画の3人が共鳴し1本の映画を作り上げ、もはや区別がつかない。というか、このところ続けて観たいろんな映画とも共鳴しあって、おそらくそのうち全部が1本の映画に思えてくるに違いない。三宅の映画を作る態度、スタンスが、そんなことを思わせるのだろう。『無言日記』の再開を望むばかりである。


 8月10日(金)
各所への発送作業@事務所。終わらず。



8月11日(土)
事務所で昨日の続きの作業をして、夜は、ピン・バンドの宿泊するホテルに支払いをしに行く。しかし当たり前のように迷う。新宿西口中央公園の先なので公園内を突っ切るつもりが道が曲がりくねっているのだった。汗だく。しかもホテルの名前さえちゃんと確認していないという適当な行動はさすがに大人としてどうかと反省した。ホテル前についたのになんだか名前も違うみたいだしここじゃなかったんじゃないかとかホテルがどこかに移ったんじゃないのかとか混乱した挙句、このホテルを予約した本人にようやく今更連絡してもろもろの確認をするという、よくわからなさ。調べるより先に体が動いてしまうのは元気な証拠、ということにしておく。ボケが進んでいるともいえる。
そうこうしているうちに、バンド到着の知らせ。成田だから、さらに道のりは遠い。



8月12日(日)
ライヴ本番。ROVO、stillichimiya、モノラル・ミニ・プラグ含め、あまりにご機嫌すぎるライヴだった。5時間越えの長丁場だが、心地よすぎる疲れ具合。いまだにこの日のことを思うと冷静にはなれない。いつもは大概疲れ果てていて本当にもう何もやりたくないと実際に言い続けてもいるのだが、こういう音楽の中に身を置いてしまうとあれこれと「次」のイメージがわいてくる。「動け」とけしかけられるというより、気が付くと動いていると言ったらいいか。きっと何とかなる。




8月13日(月)
再び山口へ。昼過ぎに宇部空港着。YCAMでは機材のセッティングがだいたい終わっている。今年はサラウンドのスピーカーを増強してもらった。わかってはいたがこうやって並ぶとすごい迫力である。昨年までは近年のアメリカ映画のサラウンドへの力の入れ具合に違和感しかなかったのだけど、ある時、これはちゃんとやらないといけないと思い立ったのはいつのことだったか。とにかく今回のYCAM爆音はサラウンド。写真ではよく見えないが、でかいメイヤーのスピーカーが左右後ろに4つずつ、そして左右には、4つのスピーカーの間に小さなスピーカーが下を向いて、真下あたりの席をも狙っている。


調整は夕方から。まずは『PARKS パークス』を。昨年もやったのだが、今年は通常の音での上映と爆音での上映を見比べるという、爆音の説明会のようなものをやるのである。さすがに権利関係がうるさいものだとこういった上映は難しいので、とりあえず手持ちの作品から、ということで。しかし、サラウンド効果か昨年の上映とも空気感が全然違う。これまでやって来た爆音上映作品で5.1チャンネルで作られているものすべてを、この環境でやり直したら、どんなことになるだろう。
その後『散歩する侵略者』をやったはず。とにかく、冒頭からの音の広がりと厚さに驚く。試写で観た時、なんとも言えない「メジャー感」を感じたのだが、この音の広がりと厚みのその正体だったのかもしれない。いやもちろんそれだけではない、この映画に対する黒沢さんの覚悟のようなものが、そうさせているはずなのだが。
予定外に早く調整が終了したのでもう1本やったのは『グレイテスト・ショーマン』だったか。もはや何をやったか記憶にないのだが、『グレイテスト・ショーマン』は、これまで各所でやってきた中で最高の音になった。サラウンドの音が際立つわけではないのだが、前からの音を地味に確実に補助してくれる。本当に目の前で彼らが歌を歌ってくれている。もちろんわたしのメインは、レベッカ・ファーガソンが熱唱する部分なのだが、あのシーンはレベッカが歌っているのではない。アフレコなのだが、それでもレベッカがわたしのために歌っているような、そんな錯覚に陥る。というか、そうなるまでに調整するのだが、こんなに「わたしのもの感」が出てきたことはかつてなかった。今年のYCAM爆音の思い出のひとつである。

 

8月14日(火)
朝から調整。『坂本龍一 PERFORMANCE IN NEW YORK:async』と『さらば、愛の言葉よ』『戦場のメリークリスマス』をやったはず。坂本さんのライヴは、驚くようなノイズが入っていた。もちろんあらかじめつけられたものなのだが、こうやって聴くと落ち着いてはいられない。「聴く」という行為を足元から崩して別の地平へと我々を落とし込む。麗しいピアノの音に張り付いた世界の胎動に、体が震えた。
『さらば、愛の言葉よ』はほぼ全く無調整のままの垂れ流し状態。どうにもならないのではなく、どうにでもなるのである。今回の設定のまま。あるがままの世界にこの音があるだけで世界が一気に変わる。歴史が変わると言ったほうがいいかもしれない。3D作品を今回は2D上映するのだが、この音があればそれで十分だった。最強。おそらく3Dで観るより、音に関してはこちらのほうがダイレクトに伝わってくるし、これはこれで十分に3Dだった。しかしゴダールも、もう十分にいい歳だし、ゴダールがいなくなってしまったら、誰がこういった映画でこういったやりかたでわれわれを勇気付けてくれるのだろう? そんなことを思うと、爆笑しながら涙が流れた。毎回、奇跡に立ち会っているようなものだ。字幕の寺尾さんの追悼上映でもある。
『戦場のメリークリスマス』はデジタルリマスターされて音がクリアになった分だけ、YCAMのシステムだと音が尖ってしまい相当柔らかくしてもらった。とにかく冒頭のテーマ曲の後半でストリングスが立ち上がってくる部分。足元からズンズンと音が這い上がってくる感じになるまで何度も調整を繰り返した。そこが出てくれれば、この映画の音のバランスが取れる。世界の始まりと終わり、生と死、あなたとわたし、日本と西洋など、いくつもの対立項が華麗なメロディと地の底から上がってくるリズムの中に混ざり合って、新たな世界を生み出すはずの得体の知れない何かをわれわれの身体に注入し始める。そのときめきと不安が広がる。

そして、山口にやってきたピン・バンドの明日のライヴのための準備とリハーサル。もう一発目の音が出た時点から、身体のすべてが緩み始める。

 

 



8月15日(水)
朝から『ゼイリブ』と『ラスト・エンペラー』と『バンコクナイツ タイ公開ヴァージョン』の調整をやったはず。『ゼイリブ』は冒頭の工事現場のシーンなど、これまでにない音の渦になった。人間たちの立てるノイズと、侵略者たちを取り巻く奇妙な静寂とがカーペンターの人間としての立場をはっきりと示していた。 『ラスト・エンペラー』は今観ると音楽が圧倒的だったので、逆に小さな物音に注意して調整をした。寝室の衣擦れの音、収容所での周囲のざわめき。それでも音楽は音響として際立ち、録音した場所の歴史、時間の流れのようなものを感じさせた。楽器そのものの音というより、その場所で聞こえた音の響き自体が意味を持つような、そんな録音がされていたように思えた。本当のところはわからない。とにかくその響きが孕んだその場所の持つ時間が、この映画の時間とも重なり合って、物語を分厚いものにしていた。その厚さに打ちのめされた。 『バンコクナイツ タイ公開ヴァージョン』は、オリジナルとはだいぶ印象が変わった。監督が演じるオザワという人物の強さが減り、あらゆるものが、彼が観て聞いた物語のように見えてきた。出会った人物だけではない、ジャングルの木や虫や動物たちの物語をオザワが聞く。さまざまな出来事が起こり、いいことも悪いことも起こる。最終的にはラックがそのすべてをひとつの身体の中に、あるいはひとつの身体として集約し、その身体をオザワが受け取る。監督自身がオザワを演じた意味が、そこにあるのではないかと思えた。

そして夕方からはピン・バンド。本番。soi48がDJで盛り上げた後、満を持して登場した彼らだが、まさに一音で空気を変えた。どこにでも「タイ」はある。ピンの音が鳴り響いただけで、世界が変わる。誰もがそれを感じたはずだ。どんな場所でもどうやっても生きていける。誰もがその強さを持っている。ピンの音が、われわれが普段は気づいてもいない、自分自身の底力に触れると言ったらいいか。『寝ても覚めても』の中で、いつもはぼんやりした主人公が時折背筋をぴんと伸ばしスタスタと歩く、あの決断の力はおそらく、この底力のようなものだろう。誰にも分かられなくてもいい。とにかくわれわれはあのピンの音に触れたのだ。

 
 


そんな感じで2018年のYCAM爆音が始まった。勇気の塊以外何ものでもない何かに背中を押し続けられる12日間であった。





樋口泰人(ひぐち・やすひと)
映画批評家、boid主宰。 9/11(火)の「アナログばか一代」はニール・ヤング特集、9/14(金)-17(月・祝)は「爆音映画祭 in MOVIX三好」、  9/20(木)-24(月・祝)は「爆音映画祭 in ユナイテッド・シネマアクアシティお台場」、9/28(金)-30(日)は「爆音映画祭 in MOVIX利府」と今後冬まで爆音映画祭は続きます。

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