boidマガジン

2018年10月号

宝ヶ池の沈まぬ亀 第28回 (青山真治)

2018年10月26日 11:42 by boid

10月27日(土)より渋谷ユーロスペースで特集上映が開催される、青山真治監督の連載「宝ヶ池の沈まぬ亀」第28回です。前回の日記で記された高知・四万十町と伊豆高原での長期滞在を終え、東京に戻ったのが9月下旬。それから約一か月のことが記録された日記を今回掲載する予定でしたが、そのファイルを含む青山さんのパソコンに入っていた半年分のデータが消失する惨事が起こってしまい……




文・写真=青山真治



28、放蕩親爺の帰還に仔犬のワルツを(改

某日、……とこう、シネマヴェーラ堀禎一監督特集での川瀬陽太氏とのトークのために帰京して以来ほぼ一か月日々書き起こしてきた。途中何度も推敲したが、いつのまにか9ページ(40×40)に達してしまった。そのほとんどがぱるるとの散歩と食事の献立、もちろん見た映画(テレビとDVDのみだが)についてもかなり綿密に重要性の高い内容を書いたし、何しろ甲府・桜座での甫木元空バンドのライヴがあったからそのレポートなども記した。だが一昨日、それらすべて、一晩にして電脳の海の藻屑と化してしまった。書き始めた新作の小説も昔書いた小説のいくつかも、翻訳していた戯曲も、プライベートの写真も、パソコンに入っていた約半分のデータが消滅した、もしくは壊れて開かなくなった。絶望的な事態である。これがまさに一か月前のことであったら本気で絶望していただろう。だがそうはならなかった。長年かけて書いた小説や次回作に用意していた映画の脚本、依頼されていた映画評などはみなそれぞれの編集担当者やプロデューサーに送付した後だった。それゆえの気の緩みもあったかもしれない。たぶんそうなのだ。これまでどんなに脅されても頑なにウイルス除去の勧めなど信じてこなかったのがなぜか、一度やっておくかと、これは魔が差したとしか言いようがない。

ところが、実のところ私はあまり悔やんではいないし、落ち込んでもいない。もちろんいますぐ一からやり直そうと奮起できない程度に心は折れているが、たとえばそのソフトを売りつけた会社(一応復元に二日がかりで尽力してはくれた)に電話したときも、これまでなら長々と怒鳴り散らし、いますぐ責任者をここに来させろ、程度には捩じ込んでいたはずが、極めて冷静に、声を荒げることなくできることをするだけの電話対応に終始したのが我ながら信じ難い。が、実際そうだったのだ。なおかつ、これもあり得ない気がするが、いまやもうこの件を忘れようとしている。どうでもいいや、というより、先に進む意志が勝っているのである。ここで拘泥するより次にすべきことを考えていたいのだ。書きかけの小説はなくなる運命だったのだし、翻訳中の戯曲はまた一からやり直せばいい。一昨年のスケジュール表も見事に消えてなくなり、まるでないことになったように感じられるが、常に今日より先を生きる私に果たしてそれが必要だとも思えない。

それより誰かと堀君の話をしていたいし、ジェームズ・グレイ『ロスト・シティZ』の話をした方がずっと愉しかろう。それに触発されて見直したホークス『果てしなき蒼空』によって映画における知性とは美しい姿勢のことだと気づかされつつ『スター・ウォーズ』との因果関係に思い至り、葛生賢が送ってくれた海賊版・蓮實先生のアルドリッチ講演にこれまた触発されて見直して改めて驚愕した『甘い抱擁』の、コラル・ブラウンのクローズアップから考える現代映画の諸問題、あるいは『女の香り』が喚起するアルドリッチからヴェンダースへの気づかなかった数々の影響、ベッケルとポロンスキーの交差点に位置しかけながら痛ましい結果に終わった『ガーメント・ジャングル』におけるハリー・コーンの犯罪性、さらには『キッスで殺せ』と偶然連続して見た『アメリカの友人』との「稚気」というフィルム・ノワールとしての共通性、などなど自宅でのアルドリッチ三昧があって、再び見てやはり深く感銘を受けたデヴィッド・O・ラッセル『ジョイ』が示唆する家族映画の可能性、逆に人種問題ではフラーの諸作に遠く及ばない『ゲット・アウト』の限界、と最近作へと往還しもした。

その一方で「普通の暮らし」ということを見つめ直したのもこの時期だった。四万十町で学んだ、その日と翌朝のために日々食材を贖うという繰り返しを生きることの、かけがえのない日常の重要性。実際毎日スーパーに出かけ、秋刀魚や鯵や鮭を吟味して、野菜を吟味して、そのうち良い食材は何時ごろ行けば手に入るかとか、レジが空いているのは何時ごろとか、細かな、しかしなにものにも勝る知恵を目下身に着けているところだ。

久しぶりに仕事もした。この日記がboidマガジンにリリースされた直後あたりに公開されるであろう、がゆえにまだその名を明かすことのできない某バンドのMVである。これは厳密に甫木元と編集・田巻源太と私の三人で製作した。助監督のころから使ってみたかった城南島でようやくロケすることができた。バッティングセンターは『チンピラ』で控室がわりに厄介になって以来。編集は昨年「アヴェ・マリア」のときに田巻とともに会得したアクション中のカットを再度試すことができた。

ぱるるは成長した。毎朝五時五十五分に私を起こしに来る。ぱるると猫たちに朝餉を出してトイレを掃除、米を炊くところから一日が始まる。やがて女優が起きて三者で散歩へ。魚を焼き、卵を焼き、食卓を整えて朝餉をいただく。その間になんかくれと吠える仔犬をたしなめつつ。ぱるるは、いまだに私にはリードをつけさせない。なぜだろう。とにかく我々は半径五百メートルほどの町内を40分から60分ほどの時間、ぐるぐると歩き回る。口寂しくなると、または疲れてか、路上に座りこんでおやつを要求する。私も女優もショルダーバッグにおやつの袋を忍ばせ、必要に応じて取り出し足元に呼んで与える。

いいことばかりでもない。このパソコンショック並みにひどいことが実は仕事上でも起きてもいる。まるで常識が崩壊したようにさえ思われる。たぶん本当にそうなのだろう。だが、それをフォローして余りある援助の手を差し伸べてくれる仲間たちが続々と現れてくれた。そこから最初に実現したのがくだんのMV製作であり、そして十月末からユーロスペースで開催される予定の拙作の特集上映である。この特集のために作られたフライヤーにあしらわれた写真は私にとって非常に思い出深いものだ。片手にミネラルウォーターのボトルを、もう一方に小道具の杖をついたスキンヘッドの私。あの杖は決して相米さんの模倣ではない。今年の猛暑はこの写真の年、2013年の夏以来であり、杖をついた禿頭の男は、もう自分は映画を撮ることはないのではないか、と万策尽きて途方に暮れ、暑さに疲弊しきっているのだが、それを若者たちが救ってくれた。この年のみならず翌年も、またその翌年も。当時の成果が『FUGAKU三部作』という形でこの特集でも上映される。実はこの三部作、未完成というべきものかもしれない。だがそれはむしろ、完成と未完成のあわいで戯れているようなものであり、完成ということの退屈さを軽蔑、というか気の毒がっているような節があるはずだ。ウイルス除去ソフトを売っている会社に罵詈雑言吐かなかったのも、このころの経験がいまだにそうさせてくれているという気がする。
特集上映のプランナーであり実行者である大橋咲歩の尽力で、先生・師匠・友人たちがトークに駆けつけてくれることになり、いまから緊張を強いられている。だがこれは次回作のための景気づけという性格のものではない。むしろ「普通の暮らし」の実践同様、特別なことではない、日常的にされねばならない会話の延長線上に過ぎないものになるだろうし、それこそがいまの私にとってなによりも重要だと感じる。

まるでこのような私の窮状を察知してくれたかのように、いくつかの出版社がすぐれた書物をご恵投くださった。文遊社様よりジム・トンプソン『綿畑の小屋』という、開いた瞬間からホワイトトラッシュの体臭が立ち昇ってきそうな小説、文藝春秋様より平野啓一郎の話題作『ある男』、読書人様より『ディアローグ デュラス/ゴダール全対話』、など。ただし、この間に修行僧が聖典を小脇に抱えて歩くようにしつつ読んでいた書物は、通読二度目となる『ロバート・アルドリッチ大全』であり、今回気づいたのはこの著者たちが欧米人としては珍しいことに一部の日本人並みにアルドリッチをよく見ているということだった。その意味ではかれらは孤独に違いないが、海のこちら側からかれらに微笑みかけている同志が何人もいることを知らせてやりたい。かてて加えて『ロビー・ロバートソン自伝』。これはアマゾンで贖ったものだが、表紙を見るにつけ遣る瀬無さが押し寄せる。

あとはそう、この間に最終回を迎えた朝ドラ『半分、青い。』のこと。このドラマに相応しくその最終回はすがすがしいほどまったくの無内容だったが、1クールかけて四十年を醸成した上で震災によってすべてが灰燼に帰したアクチュアルな悲劇を、たった一人の死のみをもって描いてみせたその慧眼は諸手を挙げて讃嘆するに価した。これはこの枠でなければ無理な試みだろう。私はこの七年、震災を自作に取り入れようとしたことはないし、それを試みる他人の映画に興味を持ったこともなかった。映画は遅れてくる、とそればかり呟いてきた。もちろんこれは映画ではない。だが一本の映画でこれほど丁寧にやれるかどうか。少なくとも何か方法はないかと考えさせてくれた。それにもまだまだ長い時間がかかるだろうが、それをやるのが現代映画の課題であることに疑いはない。

と、ここへ来てジュリー問題というのが話題になっている。多くを語る気はさらさらないがまったくどうかしている。このふざけた国の誰が、あのジュリーを、ジュリーの行動を批判する資格を有しているというのだろうか。呆れるばかりだ。

……とまあこうした言い訳をしたためた某昼は、女優に頭を剃ってもらった後に特集上映館ユーロスペースへ『赤ずきん』のプリントを搬入し、大橋に引き継いだ。その後、中原と合流しヴェトナム料理屋でランチ。二人ともまずまず元気で安心。二人と別れてHMVで中古アナログ盤を物色。いやはや棚に並んだレコードを次々めくるなんて何年ぶりのことか。ディランのシングルなんて普通にある。The Whoの、あれがデビューシングルだったか、「アウト・イン・ザ・ストリート」に途方もない値段がついていた。夕刻、バスで帰宅し『西郷どん』を。先週の回について、戦死とはつねに犬死にである、という趣旨の批判を書いたが、これも消えた。従軍を希望する弟を受け容れるのではなく、嫌がる弟をあえて立場上戦場へ駆り出し、結局死なせることで西郷は己の罪の重さに気づく、というのがドラマとしてあるべき流れではなかったか。それによって西郷の隠遁が多くの死者ではなくたった一人の肉親の死に因することが認識され、結果として見る者に『半分、青い。』同様の実感を与ええたはずだ。背中に大きなものをしょっている、と言ったってそこに何も見えやしないのだから、せめて大日本帝国の原罪をそうした形で描写すべきだっただろう。持たぬ者にとって幕府も新政府も大差なかった。よって先週と今週にチグハグさは否めないし、そもそもその前の回での泣きの芝居など必要なく、むしろ将軍慶喜と町人に化けた慶喜に何の違いもなかったと認め、永遠の決裂を暗示すべきだった。

某日、とここからは通常営業に戻る。これは消えてしまった日々の常套句だったのだが、朝の支度(皆さんの食事、トイレ掃除、ゴミまとめ、飯炊き)を済ませて一時間の散歩後に朝餉。本日は秋刀魚とサラダ。11時ごろ睡魔に襲われ、復活して13時に編集室へ。某MVはクライアントからの求めに応じて再編集の嵐。毎度ながら怪我の功名のごとき新規のアイデアを得る。時間も金も余裕など皆無だが、とにかく撮影同様編集も楽しい。17時に一旦帰宅し、再び外出。神山町の書店での黒沢・篠崎・樋口の各氏によるカーペンタートークへ。お三方ならではの歓談。月末からのユーロスペースでの拙作特集上映の宣伝もしてもらう。帰りに総出で「へぎそば匠」。

某日、朝の支度、散歩、朝餉。ほっけとリュウキュウ。半分寝かかりながら次の録音日程でぐずぐずする午前を経ての午後、某MVはさらなるクライアントの要望を待ってましたとばかりに実現、さらにカラコレ・エフェクトを経てとりあえずオールラッシュ。終了後新宿へ。DUGで読書しつつ時間を潰し、濱口竜介『寝ても覚めても』を、ヘタすると新作を劇場で見るのは今年初めてではないか、という疑心暗鬼とともに。それにしてはどこか大画面で見る歓びを享受できないのは何も作品のせいではあるまいが、どこがどうというわけではなく、乗り切れない。良くも悪くもそつがないというのはあまり褒め言葉に当たらないだろう。日本映画の予算で命は賭けられないのはわかるけれど、バイク事故が『ポーラX』とは似ても似つかないことは残念ではある。ヒロインの狂気に増村的なものを見つけようとすると肩透かしを食らう。それとは違うアプローチ、たとえば吉田喜重的なアプローチによる女性の狂奔とでも言ったらいいか。あるいはドワイヨン的な手ぶらの放浪女子かもしれない。しかしこれ、実は女性主体に見えてやはりガールハントの物語と考えてしかるべきという気がする。つまり二人に分裂した一人の男による誑かしであり、それを女性の側から想定すればこのように語りえる、と。その意味で現実的にはホモソーシャル的視界であるにもかかわらず、かなり社会実験的構造とはいえるだろう。一方ここで朝ドラにおいて拘泥した問題を考えると、やはり3.11を虚構として導入することには大いに困難が伴う。いかにも付け足しにしか見えず、後半の移動を導入する契機にしてはあまりに冗長。それに、以前/以後が変わらない、というわけにはやはりいかないのではないか。作者がその点を深く試行錯誤したことには見当がついたが、これで済むかどうかは結論できかねた。しかしいずれにせよ近年の若手の作品としては問題作であり、これによって自分の撮ることになっている企画がひとつ意味を失ったかな、という気がした・・・いや、べつに撮ることになったら堂々と撮りますけど。

そんなわけで今回は最後に、送信する前でどうにか生き残った写真を。

 
 
 
 
 
 
 
 
(つづく)
 
 
 
 

【特集/青山真治】
10月27日(土)~11月4日(日)、渋谷・ユーロスペースにて

10月27日(土)18:30『シェイディー・グローヴ』/21:00『冷たい血』
28日(日)18:30『EM エンバーミング』【上映後、樋口泰人とのトーク】/21:00『FUGAKU 3部作』
29日(月)18:30『路地へ』+『赤ずきん』/21:00『月の砂漠』
30日(火)18:30『冷たい血』【上映後、廣瀬純さんとのトーク】/21:00『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』
31日(水)18:30『FUGAKU 3部作』/21:00『シェイディー・グローヴ』
11月1日(木)18:20『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』【上映後、蓮實重彦さんとのトーク】/21:10『EM エンバーミング』
2日(金)18:30『月の砂漠』/21:00『路地へ』+『赤ずきん』
3日(土)14:00『冷たい血』【上映後、黒沢清さんとのトーク】/17:00『路地へ』+『赤ずきん』/19:00『EM エンバーミング』
4日(日)14:00『月の砂漠』/16:20『シェイディー・グローヴ』【以上2作の上映中に中原昌也さんとのトーク】/18:15『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』

※トークショーは全回、青山監督とゲストの対談
※鑑賞日の3日前からユーロスペースのオンラインシステムで座席指定チケットが購入できます






青山真治(あおやま・しんじ)
映画監督、舞台演出。1996年に『Helpless』で長編デビュー。2000年、『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞&エキュメニック賞をW受賞。また、同作品の小説版で三島由紀夫賞を受賞。主な監督作品に『月の砂漠』(01)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)『サッド ヴァケイション』(07)『東京公園』(11)『共喰い』(13)、舞台演出作に『ワーニャおじさん』(チェーホフ)『フェードル』(ラシーヌ)など。
近況:10月27日より渋谷ユーロスペースにて、国内では最初の特集上映が行われます。あまり上映されることのない作品ばかりですので、この機会に是非どうぞ。ド緊張のトークショーも連日予定しております。

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