boidマガジン

2018年11月号

宝ヶ池の沈まぬ亀 第29回 (青山真治)

2018年11月23日 10:37 by boid

青山真治さんによる日付のない日記「宝ヶ池の沈まぬ亀」第29回です。前半は渋谷・ユーロスペースで開催された特集上映のトークイベントに登壇しながら、ブルーレイを見て“落穂拾い”を行う日々。名古屋でのVR「ダムドタワー」体験とシナハンを挟み、後半は自宅の“地下帝国”で連日繙かれていった伊藤大輔監督の諸作品のことなどが記されています。




文=青山真治



29、VR「ダムドの関の勧進帳・シブヤ篇」

某日、朝餉は鰤カマ焼き。美味。ここ数日、次回録音のスタジオ予約のための各メンバースケジュール調整に追われていたが、この午前中にようやく確定。午後は某MV、というのはすでにリリースされているカーネーション「サンセット・モンスターズ」のことだが、さらなる要望に応えるべく編集室へ。かなり細かい作業含め、詰めていく。夕方の散歩は短縮版なるも、近所の犬が大集合する瞬間など濃厚。バスで三茶へ。ブラジリアン食堂で高橋洋さんと会食。さらに某社編集Aも加わる。のんびりとした良き時間。店のテレビで流れるドラフト会議だけが殺伐としている。さらにAの上司Dさんも加わり、ディープ三茶を味わう。ところで前日スクリーンで見たことを書くと、どう見ても特別なショットなど皆無の普通の映画だが、一方でこの普通さを享受する歓びに打ち震えるようなところが垣間見えつつ、他方で薄氷を踏むがごとき油断ない真理の探究がこちらの寝首を掻こうと潜んでいる……『遊星からの物体X』とはそういう稀有な映画だった。かつて、後半にある無人の移動ショットから受けたものを、いまこんな言葉で反芻する。

某日、ついリードが手から離れ、ぱるるが車道に遁走……というアクシデントで肝を冷やした散歩から戻って朝餉はホッケ。午前、特集上映のトークについてあれこれ思索。残念ながらトニー・ジョー・ホワイトが亡くなった。今日から一日一枚ブルーレイで落穂拾いをすることにする。本日は『ベイビー・ドライバー』。偶然だがピーナツバターをパンのへりまで塗りながら。次世代の『トゥルー・ロマンス』といったところか。だがトニスコばりに、ああもうこれぞという「ショット」なしでもいいや、と笑っちゃう瞬間というのはさすがになし。ポール・ウィリアムズには驚いたけど。あと「里親」がいいのだが機転の利いた見せ場なく残念。夕餉は無印の海老カレー。夜半、降雨あり。

某日、前夜からの雨で散歩は様子見。午前中は安定せず。やがて晴れ、出かけたが飼い主も犬も眠気に襲われ、中断。午後、落穂拾いに『ジャッキー』。外国人に撮らせたことは正解だと思うが、誰が撮ってもナタリー・ポートマンはこうなるだろうと予想される芝居だし、正面の切り返しはどう見ても意味なかった。途中で不意にジョン・ハートが登場し、何やら毎日脇で驚かされる。ジョンソンを『ゾディアック』の人がやっていて悪意を感じた。MV編集最後の直し。これで完パケのはず。駅ビルで来年の手帳を購入。金運を祈願して黄色に。渋谷シャルマンで月刊シナリオの橋本忍追悼号を読んでからユーロへ。蓮實先生と瀬川氏のヴェーラトークをすっかり失念、お帰り間際に慌ててご挨拶。こちらは特集上映の舞台挨拶からの『SHADY GROVE』。物凄く久しぶりに見たが、HVの軽さとのバランスも相俟って35ミリ部分の豊かな質感についほだされる。やはりデジタルでは感じないものはある。余裕のあった部分はまあまあだが、慌てて撮ったところはダメ。それにしても役者さんに恵まれてきた、とつくづく。皆さん、本当にいい。

某日、起き抜けに角替和枝さんの訃報に驚き、落胆。スズナリに柄本さんの『ゴドー』に行ったとき窓口でお会いして、ああこの人と仕事をしなければ、と考えていた。間に合わなかった。間に合わないことだらけだ。本日の落穂拾いは『マザー!』。アロノフスキーは好みではないが、ジェニファーということで。始まってすぐヨハン・ヨハンソンの音響だと感じ、最終的にそれを確認して全体像がすんなり掴めた。キュアロン『トゥモロー・ワールド』への対抗意識があったか、それよりは『ソドムの市』か『ベルリン・アレクサンダー広場』最終章か。要は勝負作だが、そんな方向に血道を上げる気のない者には空騒ぎに過ぎず。最後にパティ・スミスが「エンド・オブ・ザ・ワールド」を歌っても、そうか、きみもか、という程度。公開中止と聞けばさすがにジェニファーにもハピエルにもエド・ハリスにも気の毒な話。ミシェル・ファイファーのイヴも悪くないが、世界の頭はどんどん固くなっていくばかりか。夕方、渋谷へ。本日は『エンバーミング』後に樋口さんとのトーク。前作の比でない時間と金のなさばかり痛感。現場のみならず編集やダビングをどこでやったか思い出せず。ここまで取り返しつかないと却って他人事のよう。樋口さんが水の音に言及してくださったことがせめてもの救いか。そしてここでも役者さんに恵まれていた。渋谷はハロウィンの殺伐さが充満し、駅方向へは足が向かず。



某日、現前する過去に教えられるのは、人生はどんな局面も取り返しはつかないという現実で、この齢になるとこれらの作品はたしかに自分のしでかしたことだが、そろそろそれらから解放されてもいいのでは、という逃避願望とも正直に向き合える。二度と見ることもなかろうし。特集上映とは未来へ赴くための税関である。「申告すべきものはありますか?」「いえ、ありません」疚しいことなどないのに緊張……。過去から未来へ運び込む価値のあるものを有する人も少なからずいるだろうが、私は違う。この特集上映という税関でそれを確認できたことは案外幸運なことか。未来に温存するのは無形の友情だけで御の字。落穂拾いは『クリード』。このネタなら落涙必至だが何がよいというわけでもない。流行の正面性など不要、ナメでドラマを築き上げる普通さがよいといえばよい。バイクのウィリーでランニング、が撮り方はダメだが、よい。チャートフ=ウィンクラー最後の作品としてご苦労様と声をかける。昼にS&B噂の名店シリーズ「珊瑚礁・湘南ドライカレー」を。グリンピースの食感含め、これはかなりいいのではないか。夜は甲斐真樹と荒木町の焼鳥屋で密談。久しぶりにアルコールを摂取。

某日、するとどういうわけか、とにかく具合が悪い。呑みすぎたわけではなく、むしろ抑えたはずが。例によって何もする気が起きず、ただぼんやりと、純との話で話題に出そうと考えた『夜はやさし』の一節(これは『エンバーミング』の統合失調症に関して考える際に役立った)を探し、なぜか『ハロウィン』『ゴースト・オブ・マーズ』を連続鑑賞。落穂拾いは中止、渋谷へ。今宵は『冷たい血』で純とのトーク。さすがに自分でポジを切り張りした最後の作品なので編集の感触に違和感皆無。大人たちの芝居、落ち着いて見ていられるが、いまやほぼ全員年下(当時)と知って、愕然。純からの質問は「あるものはない、ないものはある」について。これは演技論にも通じる。俳優の演技とは……これは人間存在の行動と同義だが、言葉(台詞)を音響として聞かせることに重きを置かれ、そのときそこに言葉が指し示す抽象は「ない」ということに、映画はどう向き合ったからいいかを答えた。本作の後に膨らんでいった部分は大きい。例えばそこには、ここに影響を及ぼした『キッスで殺せ』における核の表象不可能性や『ゼイリブ』のサングラス越しの透視画にいかに映画として近づくか、という目的があり、ここでは防護服の兵士たちの存在(非在)がそういうものだった。夕餉は「ひもの屋」にて。鈍い腹痛で食欲出ず。早くも酒を呑めない体になったのか。深夜、腸の不調を抱えつつ、京都でやっている伊藤大輔がなぜか気になる。考えてみるとこれまでまともに見た記憶がない。



某日、普段より一時間遅く起床、ということはぱるるも寝坊である。すべて一時間ずれという奇妙な感覚のまま午前を過ごす。朝餉は秋刀魚。危うくなったスケジュールを立て直すのに時間をかけ、プラス伊藤大輔を見る方法を考える。今日も落穂拾いは休み。そしてぱるる、夕方の散歩もサボる。ならば、と新宿バルト9にてデイヴィッド・ロバート・ミッチェル『アンダー・ザ・シルバーレイク』。前作はどうも薄さに感心しなかったが今回はPTA『マグノリア』ばりに満を持した感。やりすぎという気もしないでもないが、こういうことは過ぎるくらいでいい。特に風船娘がよい。アンドリュー君は相変わらず地味だが、へんな歩き方したりして結局娘たちを引き立てて好印象。しかしこれは文句を言っても始まらないが、かつては住みたくなるほどロスのアパートは蠱惑的で、あの部屋内の段差とか(言うまでもなく『孤独な場所で』のことだが)たまらない魅力だったが、いまはフラットでつまらない。あの『マルホランド・ドライブ』もそこが欠点だった。外階段はまあいいし、中庭のプールも漫画家の隠し部屋も悪くはなかったが。あと、ご都合主義で結構、と応援もするのだが、さすがにそれはどうなの、と思われる箇所も。雑誌とコーンフレークか何かのおまけの地図の重ね合わせとか。そういう部分はヘタにリアリズム踏むと寒々しい失敗をするんで難しいところ。その意味ではバブル期の日本のサブカル的センスをロスに持ち込むとこうなる的な側面もなくはない。妙に『海辺のカフカ』などを想起したりもした。

某日、朝餉は鯵刺身丼。落穂拾いは『ジョン・ウィック』。冒頭から犬が殺され、エリートマフィアとエリート殺し屋の抗争にまるで心動かされず。アメリカには冥府魔道の地獄などという概念はないのだろう。とりあえず全員さっさと死ねとしか思わない。こちらのかすかすの慈愛を思い切り吸い取るぱるるへの愛が急騰するばかり。夕方渋谷へ。とうとう蓮實先生とのトーク。我々の屈折した関係についてのあれこれ。殊に女優の『相棒』出演をめぐって、当方も偏愛する中川『毒婦高橋お伝』に触れられたのにはお手上げであった。終わって『寝ても覚めても』の感想などじっくりと。「へぎそば匠」で一同和気藹々の打ち上げ。大橋が褒められて素直に嬉しい。この夜、カーネーションMV配信開始。

 



某日、病院で薬を贖い、朝餉は焼売。疲労と睡眠不足でどんより。午後に灯油の配達を受けた後、江波杏子さんの訃報。さらにどんよりしつつ六本木へ。開催中というかもう終幕のTIFF(ヒルズ内で篠崎誠監督とばったり、は恒例)でオリヴィエ『ノン・フィクション』。アコースティック系ということになるのか。前半展開が速すぎて乗り遅れるものの、ふとゆったりした後半に至って落ち着く。徹底した切り返しによる会話劇のシンプルさが頼もしい。だがこの作品の出来とも、またここ数日の充実感とも一切無縁に、とある事情で深く落胆、暗澹たる先行きにうんざりモード。とぼとぼと乗換の恵比寿でSHAKE SHACKのハンバーガーを贖い、自宅で食す。伊藤大輔のことを考えていると京都の街が頭に広がり、なぜかドワイヨン『頭の中に指』に字幕を付けて出町座で上映という暴挙に思いを巡らしながら夜をふかす。

某日、朝の散歩でぱるるが腹を下したので急遽帰宅し、お尻を洗うとはしゃいだぱるるは全力疾走で家じゅうを駆け回り、挙句転倒、足を引きずるようになる。病院を女優に任せて渋谷ヒカリエ11階にて北九州市民映画祭スタッフと打合せ。終わってユーロ。本日は黒沢師匠とのトーク。もっぱら「アメリカ映画」という幻との苦闘の歴史について語る。黒沢さんとはつまりこういう話をしてきたのだ、出会ったころからずっと。延々と続きそうな打ち上げの後、帰宅するとぱるるの跛行はまだ続いている。心配なり。



某日、散歩は休止、朝餉は秋刀魚と鯵。明日からの名古屋行に備える。昼、渋谷へ。特集上映も最終日。本日は中原昌也氏と『月の砂漠』『SHADY GROVE』の二本について、上映中に副音声として語る、という未体験の試み。観客はすでに一度は見ている、という前提でなければこんなことはやれないが、そのうち退場する人や文句を言う人が出るのではないかと戦々兢々。結果はまずまず。私自身、中原との対話からいくつか重要なヒントを得たし、勝手に成功だったつもりでいるが、実際どうだったのか。私見として、二本ともいいところはなかなかいいのだが、ダメなところはダメ、結局時間のかけ方の問題が体感として残っていて、ダメなシーンの始まりが少し前に予感のようにわかった。上映には某元南軍将校(あえて名は秘す)も来館くださった。ともあれこれで個人的に今年最大のイベントは無事盛況のうちに終えた。あとは来年以降のことを練るばかり。今年の残り、ヴェーラでハリウッド五〇年代と笠原和夫中軸の東映特集、さらにイメフォのロブグリエ。年越すと次いつ映画に行けるかわからないので、できるだけ通いたい。

某日、相変わらずぱるるの足の調子はよくない。回復を待つよりないだろう。朝餉に金目鯛の干物。こちらも風邪気味の上にどっと疲れが出て、出発前に眠り込んだが、午後になって名古屋へ。ホテルのある栄の繁華街に入ると、夏の記憶が蘇り、すでに懐かしい感じさえする。夕方、仙頭夫妻、制作・梅村と合流、近所の魚系居酒屋へ。ノンアルでも淋しくならないほどまことに美味であった。

某日、熟睡ののちバイキングで朝餉。いつもどおりしっかり食す。午前9時集合出発。仙頭・梅村、いつものアルファロメオ。少量の雨。最初は渥美線の終点・三河田原駅へ。散策ののち近くの中華屋でランチ。麻婆飯。空は晴れる。道の駅に寄った後、赤羽根ロングビーチ。宿は伊良湖岬。荷物を置いて、福江の旧赤線を見る。この前後からクシャミが出始める。夕餉は宿にて。食後どうにも鼻水が止まらなくなり、さっさと床に就き、ここしばらく繙いていた小説を何度目かの読了。この終幕10ページほどの主人公のかき消えていくそっけなさにはいつも新鮮さを覚えて、このように書きたい欲望が湧く。



某日、窓外の三河湾は広くてまるで水平線のようで、かすかに向う岸が陰をなして見えるのに緩い安堵を感じる。午前9時半出発。風邪はほぼ抜けた。神社周辺を散策。この周辺に特有の家の構造を知る。使いようによっては象徴的にもなりうる。ついでに近所の廃校も見学。そうしてこの近辺を俯瞰で見るべく、再度山の上のホテルの駐車場へ。改めてその面白さを確認。道の駅に寄った後、とんかつ屋でランチ。コーン・ドレッシングなるものを贖い、名古屋へ。テレビ塔にて仙頭武則総合演出のVR「ダムドタワー」を体験。VRというのはメディアとしては娯楽の最終兵器のようだと思われた。もちろん映画とは違う。たとえばショットに切れ目がないが、映画館ではほとんど行わない、見る側が首を振った瞬間に意識が小さな断絶を起こし、それはカット割りと同等になるはずだ。連続ものの第1話としてよくできていて、物語を語るメディアには変わるところがない。特に第2話以降は初期設定の説明が不要なのでどんどん語れるし、どんどんギミックを持ち込める。結末をグッドエンド/バッドエンドとしたことは慧眼。それだけでじゅうぶんゲーム性を味わえる。夕餉は串カツ「ラブリー」。いろいろ話をまとめる。これで今回の業務は終了。



某日、午前5時半起床、ふと思い立ってシナリオを直す。10時チェックアウト、そのまま地下鉄~新幹線で東京へ。14時には自宅で飯の炊けるのを待っていた。無印良品フォン・ド・ボー・カレー、残念だが好みではない。いくら名古屋は近いといえど結局蓄積した疲労によって眠気が拭えず、予定を明日に延期、惰眠を貪る。

某日、ぱるるの調子依然すぐれず、散歩は当面中止。女優の苦悩いかばかりか。本日はレーザー治療に訪う由。朝餉は点心。香港飲茶気分。午前、駅前の喫茶店で某打合せ。とりあえず前向きに検討。帰りに食材を贖うと金欠が限界に達し、映画に向かう余地なし。仕方なく自宅蟄居、伊藤大輔を繙く。揃えたDVDを年代順に。まずは既見の『王将』だが記憶は遙か彼方。助監督加藤泰による演出らしき箇所、冒頭のチンドン屋行列や崖下のSLの煙、また線路沿いの母子の危機感(水戸光子のローアングル)などどうか。一方、伊藤演出はたとえばマキノや山中なら重視するだろう芝居とはべつの芝居(呼吸)を用いる。情動を立体的に描写するマキノ・山中のアクションに慣れた身としては違和感、または独特のものを感じるが、当時の観客あるいは俳優陣にはこの方が当たり前だったのかもしれない。単数的な伊藤の方が丁寧という考え方もでき、古いと断じることはできない。あえて伊藤の演出は非アメリカ的、純和風というべきか。続く『大江戸五人男』でも、その印象は変わらず。たとえばかなり情動を揺るがす場面を転換する際に俯瞰の全景を長めに用いる呼吸は濱口竜介に似ていないわけではないし、逆に濱口における転換間際の移動ショットの非アメリカ性も伊藤的と言うべきか。もちろん伊藤の場合、阪妻や右太衛門の芝居が要求するものとの関係が多分にある気もして、それらは小津や山中、マキノ、さらに増村や大島では決して見ることのない、俳優(スター)の呼吸を待つ時間の生かされ方であり、溝口や黒澤、加藤の場合ですら少ない。撮影所時代のスターシステムにおけるいわば権力闘争の方法として、西欧的リズム、西欧的知性、西欧的生理による語りの経済原則統御を志向する以前の日本映画のありようとしてのこうした例は、それが伊藤大輔を擁護するキーとなるかどうかはべつの話としても、少なくとも少し尺度を変える必要のあることはたしかで、それは濱口や三宅の『Playback』に覚えた違和感に似ていなくもない。もちろん彼らは大スターの呼吸を待つ必要などないので、むしろそれぞれの俳優への対応の違いだと考えるべきだろうが、だから『大江戸~』の高橋貞二・三井弘次コンビが他との整合性より違和感を残す形であるのは実は現代的かもしれない。それは、ひとが口にする唐田えりかへの違和感ともそう遠くない。こうして『寝ても覚めても』を見た直後に伊藤を見たいと思い立ったのにも存外理由がないわけではなかったか。

某日、朝餉は鯖。伊藤大輔、本日は『番町皿屋敷 お菊と播磨』だが、内田吐夢の『妖刀物語 花の吉原百人斬り』など巨匠の後期にはあまり目立たないが見ると驚くような傑作があり、これもそういうもの。後期というには早いか。しかも杉山公平・水谷浩・伊福部昭なのでダメなわけがないし、考証には甲斐荘楠音がついているので贅沢の極みといえば極み。昨日の『大江戸五人男』でもこのエピソードは使われており、構成・川口松太郎というのは眉唾としても優れた換骨奪胎である。ちなみに一般的に知られる怪談ではなく、見事に「身分違いの恋」で語るメロドラマ。絶対的悪人が一人も出てこず、旗本たちもガラは悪いが、なんとなく遠浅を馬で遠乗りするフワッとした場面など、実に秀逸だった。旗本屋敷に対する町人の家のセット(坂の途中で隣の屋根が地面の高さ)がこれまた良い。で、かねてから思ってはいたが、この時期の津島恵子は長澤まさみそっくりで、見ながら可能性を伺っていたが、このクライマックスの凄艶な表情は長澤氏でなくても簡単にまねのできるものではなかった。検索すると、津島様28歳、『七人の侍』と同年である。耳のいい人はやはり芝居が違う。終わり間際に鳴り始める伊福部のピアノ曲が出色であった。合間にディランのブートレッグ・シリーズ『モア・ブラッド、モア・トラックス』を。ひたすらディランの歌がいい。ディランの歌の様々な表情を好んでいるが、とりわけというわけではないにしろ『血の轍』の声はかなり上位に位置する。そしてこのバンド、実は非常に芸達者だが、完成版ではかなり抑え気味ということがわかる。その抑制が『血の轍』を特別な作品にした気がする。夕餉は斉藤陽一郎氏から譲り受けたデッドストックのS&B噂の名店シリーズ「原宿みのりんごチーズキーマカレー」。残念だが、チーズの味が難解過ぎ。続いて『春琴物語』。これぞ真性の大傑作。触覚のイメージの奔流は、雪から煮え湯、春琴の指に握られた針の鋭い光を経て、ついに手と手の真の邂逅に至るまで、映画そのものを超えてしまう勢いで荒れ狂う。伊藤熹朔の美術は冴え渡り、伊福部が宮城道雄の邦楽と綾を成してここでもまたピアノの名曲を聴かせる。江州日野が佐助の故郷だが、あの湖北か丹後のようにも思われる水の広がる風景、終幕のトンネルも美しい。また主役二人だけではなく脇も充実しており、あまり濃く葛藤を焚きつけない(ここでも現代作家たちと一線を画す)人々、悪役の杉村と船越も大映ならでは。この際『春琴抄』を写本しようと考えるようにさえなり、初めてこの小説に手を触れたような親近感を覚えた。

某日、ぱるるの足のレーザー治療に環七の向うにあるパンダ病院へ。帰宅後、朝餉は鯵干物。午後、伊藤『下郎の首』。川島『幕末太陽傳』に先駆けること数年、疾走する電車から過去へと地蔵が回想する、拙作『雨月物語』(小説)の終幕で逆のことをしていて、初見と思っていたが忘れているだけですでに見ていたかもしれない。内容はとにかく「異色作」。乞食社会の描写などマキノ以外で見たことない。仇討ちなど行動描写やや冗長だが、まるで面白くあることに背を向けるように冗長なのだ。小ぶりながら嵯峨三智子がいい。特に横たわり方が絶妙。伊藤は「叩く」または「殴る」描写を多用するが、その結果として傷あるいは出血をもたらす。これはいわゆるスティグマとなり作劇に影響を及ぼすが、目に見える形で残る傷というより狙いは観客の記憶への残存か。そしてこの傷を覆う手の重なりが重要な役割を担うだろう。夕方とつぜん女優が叫ぶので慌てて駆け上がると、ぱるるが悲鳴を上げてソファの下に隠れてしまった由。慌てて病院へ。処置のしようもなく靭帯を痛めたわけでないことだけ確認。安静あるのみ。夕餉は新宿中村屋インドカリー「香りとコクのキーマ」。レンズ豆使用など特筆すべき一品だが、いかんせん160gなのだ。

某日、再度パンダ病院へ。レントゲン検査の結果、股関節がほとんど脱臼状態であることが判明。つらいが原因がわかって安堵。地道に養生させるしかないので本腰でつきあうことを決意。午後、某社との打合せ。理解は得られず泣き別れに終わる。それでも結局自分を信じるしかない。夜、ぱるるのことで(女優の心痛を慮って)アナばかを諦め、地下で伊藤『明治一代女』。初見にして大驚愕。九割ド傑作。ほんの一割、惜しい部分あり。もちろん伊藤は溝口ではないが、にしてもこれなら『花様年華』に軽く勝利している。叶屋の勝手を捉える俯瞰を含めた「予告された運命の構図」と呼びたい数々のナイスショットに全カットチェックの必要を感じる。昨日に続いて「木賃宿」の描写に心揺れる。包丁の一部始終といい、ここまで細かい描写を実現できた時代が羨ましい。お梅の弟が良い。解説では脚本・成澤昌茂は伊藤に批判的だが、この辺はどちらの筆によるのか。また「見栄や外連」をクサいと切り捨てるのが現代映画だとして、果たしてそれが正解か。結果痩せたものになってはいないか。リアルということをその都度再検証する必要がある。深夜、もそもそと『春琴抄』写本開始。

某日、足が悪くても腹は減るとばかりいつもどおり五時ごろ起こされ、意識朦朧の中で朝の支度と滑り止めカーペットの切り張り。さいたま芸術劇場へネクストシアター『第三世代』。伊藤を引きずる頭には、古典から現代映画への門を開いた人々はその門の中に何があるか知らず、しかしそこにあるものは彼らが捨てたはずの見栄や外連の本体であり、つまりここで目に見えるものこそが秘仏であった、という奥の院がここへ来て開陳されていく気がするのだが、この若い芝居でも前半硬直していたものがユダヤ少女の演劇的暴走によって舞台じたい大きく広がり、俳優たちのグルーヴも変わっていったのを見て、同じことを考えた。同行した甲斐Pと上原の中華。二度目。美味。帰宅すると、高橋ジュニアが女優の歌のリハーサルで家にいた。歓談。春琴写本、二日目にして中断。

某日、パンダ病院へ一家総出で。義母の猫はかなり悪いらしい。帰宅し、昨日女優がコストコで贖った食材からサラダ、鰤カマ焼など。ぱるる、調子の悪さを機嫌の悪さとして表す。午後、某Pとの打合せで渋谷。懐かしの桜丘に舞い戻った感、心地よし。帰宅して春琴写本の続き。夜更けて不意に、製作するかどうか不詳のシナリオの抜本的見直しを始め、深夜に及ぶ。

某日、ぱるるの通院、帰宅後の朝餉が日課と化し、本日も鰤。午後から芝居に出向くはずが、食卓で朦朧とする間に壁の時計の電池切れに気づけず、予定を一時間オーバー、劇場が横浜ゆえに断念。実に無念。しかしこれによりここ数日の右往左往による疲労蓄積を思い知り、休息を取ることにする。でなくても朝から焼いた魚を取り落とすわ、味噌汁をぶちまけかけるわ、散々だった。結果的にこの休息は天の恵みとなる。

某日、『血の轍』デモ購入の余波で手元不如意につき「レコード・コレクターズ」だけで満足せんと考えるが、読めば欲しくなるのが『ホワイト・アルバム』であり、好き嫌いはとにかくやはり「ロックじゃないかもしれない」旅に出たあのバンドの最大の成果なのだから真剣に向き合うべきと思い直し、だからというわけではないがその旅の始まりである『リボルバー』に収められた楽曲から題名を借りた三宅唱『きみの鳥はうたえる』を見るべく十年近くぶりに向かった阿佐ヶ谷への行程は、夕刻のラッシュ含め日頃遠出しない者にとってかなりの非日常であった。で、その『きみ鳥』だが、これはやはり濱口『寝ても覚めても』と並べて今年の二大問題作と確信された。見るからに対照的であり、かつ共通点も多く見いだせる二作だが、最大の問題はどちらもラストに集約されると言ってみたい。先月すでに書いた『寝て覚め』はさておき『きみ鳥』のラストはあのとおりオーソドックスな切り返しだがその何が問題かというと、そこに至るまでまるでこれは「映画じゃないかもしれない」ですよと呟くような旅に出ていたはずの作り手がなぜかふと出発地点に立ち戻ったかの印象を与えることだ。旅に出ていればいいというものでもないが、この帰還が映画への安住のように見られるのは御本人にとって本意か否か、気になるのはそのへんだ。いや、私がたんにあの佑氏と静河嬢のカットバックでそのように躓いてしまったに過ぎない。ちなみに私は『寝て覚め』のラストカットでも躓いた。え、それでいくか、旅はどうなるんだ、と。もちろんおっさんが躓いたところで御本人ら痛くも痒くもなく、おっさんが孤独に身を捩るだけで大勢に影響はないが、ただそう簡単に旅に出ることに成功するわけもない、と小言にもならぬそれだけは言っておく。まあ若手がぶっ壊れて撃沈する様をニヤニヤ眺めたかっただけ、というごく厭味な話でもあるが。ちなみに『寝て覚め』同様ここでも今年やる予定だったある手法が採用されているので、ああこれもきっとやめておけということだったのね、と自分を慰める結果にもなった。とにかく刺激的な二本であることは確かで、そして主役三人は素晴らしかった。

某日、ちなみにtwitterでの葛生賢の声明について考えると、ジャーナリズムと批評が、これは流通とアカデミズムと言っても同じだが、いまこの国の文化的頽廃のせいで離反しているのは確かで、その問題についてたとえば映画祭のような場で二つの方法(立場)が年に一回とかのペースで合流する必要はあるのも間違いない。互いの間の海流を測り、孤島化を避け、相互批判も入れつつ情報を交換し、より高度な領域を刷新し続けるべきだと、濱口や三宅のためにそういう議論の場が用意されるべきだと強く感じる。堀くんはそれがないから一人でやっていた、作家を孤独に置き去りにすべきじゃない、と群れてナンボのおっさんは考える。作家のために、ではなくこの正視に耐え難い文化的頽廃に抵抗するために。こんな広告代理店主体を許しておいていいわけがない。夕方卓上に小便をしたぺトと喧嘩して調子を落とす。物言わぬ猫と喧嘩した後は本当につらいが、どうしてもカッとなる。その後は欝々と「レココレ」を読み耽り、結局3CDセットを贖う。

某日、女優が鶏手羽を野菜と一緒に酢で煮たやつを作り、これが大層美味くて、というのを皮切りに次々と感覚を刺激されまくる日曜日。そんなわけで届いた『ホワイト・アルバム』3CDセットをかけ、Dear Prudenceのイントロで早くも感情が崩壊しかける。そうはいっても再び遅刻しかけて慌てて横浜へ。長塚圭史演出『セールスマンの死』@KAAT。世にいう名作の条件とは、演劇の場合なら名優による名演が必須ということになるだろう。どんなに戯曲が良くてもそれを演じ切る俳優なしでは意味をなさない。その点縦横無尽の多孔性を見事に操る長塚演出に乗った風間杜夫に敵はなかった。爽快なまでにただただ凄い。甘美な脱力にそれ以上の感想が出てこない。大ホールの二階の奥から見たのだが、時折クローズアップを見たような錯覚に陥った。帰宅しても脱力したままWOWOW『スリー・ビルボード』を漫然と見て、相変わらずのウディ・ハレルソンには感服しても、それ以外特筆すべきことはなく(主演女優はどうしてあんなにマッチョなのか)結局寝るまで風間さんに与えられた脱力をおごそかに味わい続けたのだった。

 
(つづく)






青山真治(あおやま・しんじ)
映画監督、舞台演出。1996年に『Helpless』で長編デビュー。2000年、『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞&エキュメニック賞をW受賞。また、同作品の小説版で三島由紀夫賞を受賞。主な監督作品に『月の砂漠』(01)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)『サッド ヴァケイション』(07)『東京公園』(11)『共喰い』(13)、舞台演出作に『ワーニャおじさん』(チェーホフ)『フェードル』(ラシーヌ)など。
近況:もろもろの努力虚しく、年内業務はほぼ終了しました。下駄は来年に預けて、どうか引き続き期待していただきたい。ヴェーラかイメフォで見かけても、そっとしておいてください。

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