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2014年04月号 vol.10

幻聴繁盛記 その1 (樋口泰人)

2014年07月14日 20:06 by boid
2014年07月14日 20:06 by boid
 
 
「日本中にピアノの音が響き渡る日」

文=樋口泰人

 昭和で言うと32年生まれである。戦後12年、干支が一回りして「戦後」から「高度成長期」へと日本の社会が変化していく、その転換期、と言ったらいいだろうか。吉田茂の後を受けた鳩山一郎がソ連との国交回復後1956年12月に総辞職して政界引退、そして石橋湛山が首相になるも在任期間65日ですぐに岸信介に取って代わられる。そんな政界のめまぐるしい動きと、その裏側に起こったはずのさまざまな出来事は『仁義なき戦い』をも思い起こさせるわけだが、この頃のことは当然まったく記憶にない。

 記憶に残る初めての首相は、岸信介の後を受けた池田勇人である。記憶といってもその名前とテレビに映る本人の映像くらいで、特別なものは何もない。振り返ると池田内閣のスローガンは「所得倍増」だったというから、まさに私の記憶は高度経済成長とともに膨らんできたのだということになる。とは言え、そのイケイケな経済成長物語とそれに伴う数々の出来事がわたしの記憶を作っているということになるのかというと現実にはそうではない。それ以前の、「所得倍増」というベタな言葉をスローガンにせざるを得ないほどの貧しい日本の風景がそのほとんどを占めているわけだから、人間の記憶とは案外勝手なものだと思う。つまりわたしが実際には体験したことも見たこともないかもしれない風景が、私の記憶の底を作っているのである。両親の若かりし日々の記憶と言ったらいいのか。その後の記憶も含めて、わたし自身のダイレクトな記憶と言うより、そのわたしを育てた両親の記憶がわたしの中に流れ込んで、それがわたしの過去を捏造している。その捏造された過去と記憶の量が、歳をとるたびに増え続けているのである。

 爆音映画祭で上映するために、ジャ・ジャンクーの『プラットホーム』を久々に見た。とても2000年に発表された映画とは思えなかった。時代設定はいつだっただろうか。解説を読むと1980年代となっている。若者たちが聴く音楽やファッションも当時の中国の風俗を反映させてのものになっているのだという。その時代設定のせいもあるのかもしれない。ただどう見てもそれだけではない、まさにそこに登場する人物たちの記憶の底にある、いや彼らの中に流れ込んだ彼らの親たちの記憶からふと漏れ出したような風景が、そこには貼りついていたように見えた。そしてスクリーンから漂い出てくる彼らと彼らの両親たちの二重写しになった記憶が私の記憶の底へと沈み込んで、そこから日本と中国の、貧困の時代から成長の時代へのおぼろげな夢が湧き上がってくる。もちろんそれらの夢はおぼろげなまま現実とはならず、更なる淀みとしてそれぞれの記憶の奥底に沈み込んでいったはずだ。アメリカ映画の登場人物のような野心とも違う、より素朴でそれ故翳りのない彼らの夢は、その後さまざまな手垢に塗れ、挫折を味わい、変形変色し、当初のものとは想像もつかない姿となって、世界に居場所を得たのかもしれない。『プラットホーム』とはそれらを繋ぐ仮想の線路の集合場所として作られたのだろう。そんな幾重にも重ねられた記憶と夢の曖昧なプラットホームに、実はきっと誰もが立たされているはずなのだ。

ジャ・ジャンクー『プラットホーム』より 

ジャ・ジャンクー『プラットホーム』より
 
 東海道新幹線の開通と東京オリンピックが1964年、NHKがテレビのカラー契約を始めたのが68年、大阪万博が70年。60年代から70年代にかけて、日本の「所得倍増」計画は、表面的には順調に進んでいった。もちろん我が家もそうだったのだが、多くの親たちは戦中育ちの自分たちにかなえられなかった夢を子どもに託し、倍増したはずの収入の多くを、子供たちの教育に注いでいった。具体的には各家庭にピアノが購入され、気がつくと小中学生の子どもがいる家庭の多くに、ピアノがあった。もちろん子どもたちはそんな親の思いなど分かるはずもなく、嫌々ピアノ教室に通い、うんざりし、それよりもエレキギターのワイルドな響きに憧れて、ピアノは各家庭の場所塞ぎなお荷物となっていった。戦後の夢の残骸として、それは今も多くの家庭に残されているはずだ。もはや誰も弾く者のいないピアノは、かつて託された夢の音を奏でることもなく、沈黙の中にその黒い姿を溶け込ませている。それに夢を託した親たちも、既にほとんどがこの世からいなくなろうとしている。かなえられなかった戦後の夢に、誰も触れることはない。そこにあるのにそこにはないかのように、それはそこにある。質量を失い、形だけの抜け殻として存在するだけのピアノ……。あるいは既に音を出す物質としての役割を終え、その黒さの中にただひたすら戦後の夢の記憶を充満させ続ける、質量だけの暗闇としてのピアノ……。ゴダールの映画に頻出するあのピアノの一撃は、その暗闇から発せられたものだと言うことはできないだろうか。それこそヨーロッパの戦後の夢と闇の音であり重力なのだと。

 戦後70年となる2015年8月15日の正午、各家庭の使われなくなったピアノの持ち主たちが、思い思いの一音を一斉に奏でることを夢想している。日本中の家庭にあるすべてのピアノが、その日のその時間とにかく一斉に音を出す。日本中にその音が響き渡る。一音だけでいい。それぞれの家庭のさまざまな思いと記憶と夢とが重なり合い、日本中を包む。貧しかった日本の夢、その夢を背負った出稼ぎ労働者たちの苦渋、男社会に踏みにじられた女たちの悲しみ、そしていつかかなえられるとどこかで信じられていた幸せな暮らしへの憧れ……。今やどこかに忘れられてしまった昭和の反響が、大いなるタイムラグを抱えて日本へと押し寄せる。それは世界中のさまざまな記憶と繋がり合い、絡み合い、溶け合って、予想もつかぬ音を日本へと逆流させるだろう。日本が「プラットホーム」になる瞬間。その音のフィードバックの中で立ち上がってくる何かこそ、「歴史」と呼ばれるものであるはずだ。日本中の家庭が奏でるたった一音の重なりによる、戦後の歴史。ひとつであり複数である戦後の歴史。かなえられなかった戦後の夢の痛みと悲しみと呪いとが束になって、現在のこの日本にくさびを打ち込むのである。それを考えただけで、胸の高鳴りがとまらないのだが。
 
ジャ・ジャンクー監督最新作『罪の手ざわり』(5/31(土)よりBunkamuraル・シネマにて公開!)

 

樋口泰人(ひぐち・やすひと)
boid主宰。映画批評家。現在、吉祥寺バウスシアターのクロージング・イベント「THE LAST BAUS」開催中。上映作品の爆音調整に明け暮れる毎日。

 

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