
文=五所純子
アンドレイ・ズビャギンツェフの作品は、後戻りできなさが勢力を伸ばして進行する時間のなかに、すでにして風化の影が濃い。それは『裁かれるは善人のみ』のなかでは、白骨化した鯨として象徴化されている。タル・ベーラ『ヴェルクマイスター・ハーモニー』の鯨が唐突に広場に置かれ、不気味な寓意として作用したのとは違う。海岸で潮風にあたりながら朽ち果てていく本作の鯨は、風化の象徴、あるいは、おそらく監督の意図に反するかもしれないが、理想化すれすれの崩壊とすらいえるものをもっている。過去作で湖や川、本作では海という、広々とした自然の風景をもちいた(しかもその自然は、豊穣というよりも、乾きや荒みとして蔓延するような風景である)ことからもわかるが、人間が自然にたいして圧倒され押し黙ってしまうことをズビャギンツェフは知り抜き、ひいては人間が抗いがたく敗けていく様態を自然というものに重ねるのだ。ズビャギンツェフはいつも崩壊と風化について描き出そうとしているように見える。
『父、帰る』(2003年)にしろ、『ヴェラの惑い』(2007年)、『エレナの惑い』(2011年)にしろ、親子、夫婦、家族が崩壊していくプロセスを、私たちは見つづけた。重たい乾きが悲観のように覆っていて、それが辛気くさくもあり、気を滅入らせるところもある。ズビャギンツェフ作品は見る者に、なぜ人物たちはこのようになってしまうのかと苦悶させ、あの時ああしていればこんな展開にはならなかったのではないかと後悔を引き起こしながら、しかし見る者の内面に喚起しかけた後悔を静かに打ち消すように、ひたひたと崩壊の一途を進めていく。そのとき、この人物たちは、この世界は、このようでしかなかったのだと見る者は追認する。「このようでしかない」という追認は、「このようである」という現状の認識を超えて、蜂起や反逆の芽を摘むという意味できわめて悲観的な作業であり、ひょっとすると悲観は絶望よりもたちが悪い。
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